悪夢

 ふと目をやると、どこから迷い込んだのか、白い猫が一匹庭の隅にいた。

 月子は猫が好きだ。猫とじゃれる自分が見られるのは恥ずかしいので、誰も見ていないかと周囲を伺いながら近寄った。逃げないかな、と思うとその動きは自然とゆっくりになった。

 もう触れるだろう、という近くまで接近すると、猫ははじめて月子を見つめた。深い黒の目が白の体毛に映えて可愛らしい。人馴れしているのか、逃げる様子もなかった。

 再度周囲を気にしてから、月子は猫の顎に手を伸ばした。鳴くかな? となんとなく思った。

 その予想は間違ってはいなかった。

 ――お前も鳴け――

 月子は理解出来なかった。その音は一体誰が出したのか、と周囲を三度伺おうとする。が、目は白い猫に張り付けられて動かせない。

 否、月子の体のうち、動かせるのは猫を撫でている右手の指先だけだ。それも月子の意思とは離れて機械のように猫をくすぐり続ける。

 ――お前も鳴け――

 また猫が鳴いた。疑いようがない、と月子は思った。猫はピアノの音で鳴いている。言語めいた音色が鼓膜を犯す。その音が意思を持って月子を抉るように跳ねる。

 身の毛がよだつような感触を覚えた。自分が触れているのは一体どんな化物なのかと気味悪くなる。

 しかし体は鳥肌ひとつ立てることもなく、顔などは月子の意思とはまったく無関係に緩むのが分かった。

 猫は鳴き続ける。ピアノソロ――いや、もうソロとは言えまい。どこから現れたのか、無数の猫たちが月子の周りに集っていた。

 ――お前も鳴け――

 強制の声の大合奏が月子の耳をつんざく。ピアノの声が、ヴァイオリンの声が、トランペットの声が、月子が名前も知らない無数の楽器の声の猫が月子にも演奏を強要していた。

 そして月子は、まったく自分の意思とは関係なく、その声に従った。


 酷い夢だった。まともな思考能力が戻る頃、月子はそう思った。瞼はまだ重く、空気は随分冷えている。いい加減耐寒の備えを始めなくては、と思いながら、布団の外にはみ出た足先を引っ込めた。その頃にはさっき見た夢の子細を月子は覚えていなかった。嫌な夢という認識と、耳元で鳴る楽器の音の残響だけがこびりついていた。当然、それだけ残れば月子を最悪の目覚めに追い込むには十分だった。

 昨夜はどうしたのだったろう。昇が帰ってくるまでの記憶ははっきりしていたが、その先の記憶は頭が痛んで思い出せなかった。飲酒をしたのは間違いないと思うが、夕飯は何を作っただろうか。何時頃に寝付いたのだろう。枕元に置いてあった携帯を引っ張ると、時計を見た。もうじき十一時という時間だ。

 緩慢に二度首を振る月子。うんうん。

 徐々に頭が回るようになってきたのを実感して、月子は布団をめくってベッドの上に座った。寝間着にも着替えていないあたり、風呂にも入らなかったのか。

「ズボラになってるなあ」

 こんな姿を両親に見られたら、どんな誹りを受けたものか想像もつかないな、とほくそ笑む。そして、大きく欠伸と伸びをし、眼鏡をかけると一階の洗面所へ向かった。二階にも洗面所があるのだが、階段から離れてしまうので彼女は一階側を利用することが多い。するべき家事は下に集中しているし、朝食をとるにも台所に向かわなくてはいけない。なにより、二階で彼女が使う部屋は自室以外になかった。

「いや、もうお昼ごはんかな」

 頭を掻く。何を作ろうか、考えながら顔を洗う。少し酔いが残っているのか考えがまとまらなかった。簡単に出来るものがないか、記憶の中の台所を探る。残っていたはずのスパゲティを茹でて――。

 メニューを考えながら流水の冷たさに縮まる顔を拭いていると、近くの台に置いた携帯が震え出した。誰だろう、と手をのばすとシバちゃん、と表示されていた。

「もしもし」

 声を作ったつもりが、自分でも驚くほど無愛想な声がした。

「うわあ、ひどい声。大丈夫?」

 声の主は、北島ミチルという女性だ。月子とは小学校からの友人である。

「へいきへいき。さっき起きたところでさ」

「ああ、月子は昔から寝起き悪いもんなあ」

 納得したようなミチルの声に、見えない愛想笑いを返す。

「その点シバちゃんは昔から朝が早かったよね」

 中学、高校の頃、月子はよくミチルの家に泊まらせてもらったものだ。十余年が経ってもこうして気の置けない会話が出来るのはそういった過去のお陰でもある。そのせいで、彼女たちはお互いの朝の風体から寝相までそこそこ知り合った仲だ。

 彼女にとってミチルは無二の友人であり、それはミチルにとっても同じことだった。


 さほど内容のない枕詞のような会話を経て、ミチルは本題を切り出した。

「ところで、今日の夜って時間ないかな」

「用事はないけど。なにかあるの?」

 月子は愚直にその日の予定を考えた後、この街に彼女が用事など持っているわけがないことを思い出して答えた。まだ勤めていた頃の癖が抜けていないのかとほくそ笑む。

「ウチに来て一緒に食べないかな、と思って。まだ来たことないでしょう」

 おお、と月子は歓声を上げた。ミチルは結婚後、夫の経営している喫茶店兼居酒屋という風情の飲食店で働いているという話は月子も聞いていた。帰郷している今しか行く機会はないだろう。月子は即答した。

「いいね、お邪魔しちゃおうかな」

「オッケー。場所ってわかる? 迎えに行こうか?」

 その店『River』の場所を月子は知らなかった。調べれば分かることではあったが、素直にミチルの親切心に預かることにした。具体的な時間を決めて、約束は取り付けられた。

「楽しみだなあ」

 しみじみと漏らす月子を笑いながら、ミチルはそれじゃあ夜にね、と電話を切った。しばしば電話の切り時がわからなくなる月子にはありがたい対応だ。

 さて、と月子は意識を自宅に引き戻した。昼食を作らなければならない。電話を切ってみると、彼女は台所にいた。携帯で電話をすると、どうもうろうろと歩き回ってしまう癖が彼女にはある。その間、どこをどう歩いているのか彼女にもわからない。

 先に昇に昼食が要るかどうかを訊ねようと思っていたが、台所にいるついでに鍋に水を張って火にかけた。昇が食べないと言おうが、既に外出していようが、自分の分は食べなければいけない。

 それから、よし、と気合を入れるとピアノ室の前まで進軍して、ドアを叩いた。


 具に凝ったパスタも悪くないが、手早く作るとなると買い置きしてある和えるだけのものも役に立つ。食卓についていた昇の前にはミートソースのスパゲティを置いて、自分は和風きのこのスパゲティを食べることにした。

 二人で手を合わせていただきます、と宣言した他に、食卓に会話はなかった。月子と昇の食卓は、常そのような静けさに重くのしかかられていた。月子はこうして向きあっているのに、会話をしようとしない昇のことが嫌いだった。

 と言って月子から切り出す話題があるわけでもない。昨日の自分の様子を聞きたい気もしたが、恐らくずっとピアノを弾いていて知らないだろう。ため息を吐くと、きのことパスタを静かに食べていく。そんな様子を見て、珍しく昇の側から声がかけられた。

「疲れているの」

 月子は驚いて顔を上げる。弟がそんな風に尋ねるのは珍しいことだった。

「そう、かもしれない。嫌な夢を見たからかな」

 狼狽して、月子は返事に困った。ついさっきまで昇のことを敵のように思っていたのが嘘のように文句も愚痴も引っ込んでしまう。腫れ物に触れるように怯えて返す月子に、寂しげな視線を送る昇。月子はそれを見て見ぬふりをして、スパゲティと格闘した。

「夜は出かけるけれど、平気?」

 誤魔化すように言う月子に、昇は一拍置いてから平気だよ、と答えた。

 ミートソースと格闘する昇の表情から、月子は彼の感情を読み取ることは出来なかった。

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