懐古

 防音室の扉が開く音がしたので、本から顔を上げる。時計に目を走らせると、四時半だ。昇が戻ってきた気配は今のところない。

「終わりましたか?」

 防音室の扉を閉めて現れた大滝に声をかけながら、本に栞紐を挟んだ。大滝はおや、という顔をして月子を見た。

「邪魔したかな」

 月子は笑いながら立ち上がる。

「いえ、暇つぶしに読んでいただけですから。いまコーヒー淹れますね」

 すまんね、と言った大滝を背に月子は台所へ走った。大滝はそれを見送って、椅子を引いて机に向かう。月子が置いてあった本があったので、題を眺めてみるが見覚えはなかった。大滝は分厚い本だなあ、と感じた。と言っても、一般的なハードカバーの書籍である。ページ数にして三百もないだろう。彼は月子の比ではなく文学には疎かった。

 調律の仕事が応えていた。思考は霞がかったように重い。大滝はなるべくこの言葉を使わないようにしていたが、還暦を前に色々と限界が来ているのか、とぼんやり考えた。

 思えばこの辻本邸は彼の最たる仕事場だった。博、櫻夫婦とはどちらも旧知の仲である大滝としては、彼らの存在には眩しいものがあった。夫婦揃って日本を代表する音楽家である。対して大滝は良く言っても凡庸な調律師だったと言える。言い方は悪いが、寄生しているようなものではなかったか。

 首を振って、考えるのをやめた。普段はそんなことは考えもしない大滝が、強い罪悪感を持ったのは月子に久々に会ったから、という事も一つの理由だったかもしれない。月子の性質……それは辻本という家に生まれた彼女にはとても酷なものだった。

「砂糖もミルクも要るんでしたよね」

 現れた月子を前に、大滝は疲れた顔を見せまいと表情を作った。

「うん、ありがとう」

 月子は彼がそうして疲労を隠したのには気づかず、彼女の本を珍しそうに眺める様にあれ、と思った。

「興味あるんですか、大滝さん。本は読まないと思ってたけど」

 言われて初めて、彼はその本を眺めたまま考え事をしていたことに気づいた。

「いや、月子ちゃんこそ。というか、この家ではあまり本を読む人が多くないだろう。誰が買ったんだろう、と思ってね」

 大滝にしてみれば、下手な言い繕いだった。しかし月子はあっさりと信じたらしい。彼ら夫妻にはよく懐いていた月子は、大滝の言葉への信用が厚いのかもしれない。辻本の家での彼女の肩身の狭さを思えば、大滝こそが最も家族らしい関係であったかもしれないからだ。

「一人になると、どうしても時間が余っちゃって。流行りの本くらいは読むようになりましたけど、結構面白いですよ」

 それを聞いて、どうして彼女がこの家に帰ってきているのか、という所にようやく意識が向いた。彼女は早々に家を出て、一人暮らしをしていたはずだ。

「そういえば、一人で暮らしてたんだよね。今はどうしてここに?」

 月子がこの家とは折り合いが悪いことは大滝もよく知っていた。確かに辻本夫妻は今留守にしているが、月子と辻本の間に開いた溝はそれだけで気軽に帰って来られるほど浅く狭いものではないはずだった。

 しばし、お互いにコーヒーを啜る。大滝はしまった、と頭を掻いていた。今日はどうも冴えない。不要なところまで踏み込んでしまったらしかった。

 少しの間、話すかどうか迷うような視線の揺らぎがあった。それから、二度頷いてみせる。彼女の癖だ。大滝はその懐かしい仕草に、多少気持ちが緩んだ。

「勤めてた会社が潰れちゃって。すぐ仕事を探しても良かったんですけど、なんだか疲れちゃって」

 淡白に語る月子。それ以上訊くなという様子に、大滝はなるべく間を置かずに相槌を置いた。彼女の言う「疲れた」の意味は想像に難くない。人付き合いは得意な月子だが、例の性質が足を引っ張ったに違いない。

 ちくり、と罪悪感がまた胸を刺す。月子は彼のことを慕ってくれているが、彼は月子には随分酷いことをしたと思っていた。月子本人は気にはしていないだろうが、その事は大滝にとっては随分な重荷であった。家族同然に扱ったのも、その罪悪感によるところが大きかった。

 次の言葉まであまりに間が空くとまた気まずくなるだろう。大滝はなるべく言葉を選んで語りかけた。

「まあ、ここにいるのも疲れたらウチにでも来るといい。遼子も喜ぶだろうし」

 わあ、と月子は声を上げる。暗くなっていた表情がぱっと明るくなる。

「遼子さん、元気ですか?」

 月子は遼子にも随分懐いていた。遼子も月子を我が子のように可愛がったものだった。

「元気にしてるよ。相変わらずのんびりしてるが」

 うんうん、と二度頷く月子。

「遼子さんはやっぱりそうじゃないとですよね」

 大滝の嫁という、辻本の家から離れた人間が話題に登ったのがよかったのか、それからは思い出話に花が咲いた。大滝は重い雰囲気が得意ではない。ずっと暗い会話にならなくて良かった。その安堵は深かった。


 五時半ごろになって、ようやく会話が一息ついた。コーヒーはすっかり空で、底冷えするような夜気もすぐそばまで迫っていた。

「もうストーブも出さなきゃ、ですかね」

 自然光に任せていた照明を電気に切り替えて、月子は言った。

「もうじき冬だからな。外に出れば寒いだろうなあ」

 大滝が寒そうに体を震わせるジェスチャーをするのを見て、月子はくすくすと笑う。と、外の気温に気がいって、ふと思い出した。

「あれ、昇遅いなあ」

 それを聞いて、大滝も同調した。

「流石にこんな時間まで打ち合わせってこともないとは思うけどね。何時頃出て行ったの?」

「起きた時には居なくて。十二時ごろだから、午前中に出て行ったんじゃないかと思いますけど」

 と、玄関の方から音がして、誰かが入ってくる気配があった。

「あぁ、栄助さん。お疲れ様でした」

 リビングの戸を開けて入ってくるのは昇であった。

「ああ、それはいいけどな。こんな遅くまで何をしてたんだ?」

 月子がしたかった追求は大滝が先んじた。月子は机から立ち上がった姿勢のまま、言葉が出なかった。

「いやあ、リサイタルの打ち合わせ中に寝ちゃって。徹夜して行ったのが悪かったんだなあ」

 と大欠伸をする昇。月子は呆れるやら腹立たしいやら、力が抜けて椅子に座り直してしまった。大滝は彼のデビューから少なくない話に、苦笑のほかに返答がない。そんなことを言おうものなら月子の機嫌を損ねるだけなので口にするのは避けたのだが。

 はっとして月子は時計を見上げた。弾む話に五時半という時間の意味が朦朧としていたが、食事を作らなければいけない時間だった。

「今からご飯作るから、待ってて」

 昇はそれを聞いて、眠そうにもう食べたから要らない、と言うとピアノ室へ消えた。昇のこういうところが、月子は嫌いだった。月子はため息を吐いて、大滝に向き直った。

「今日はすみませんでした。代金ってもう払ってありますか?」

「ああ、貰ってるよ。ごめんね、長居しちゃって」

 と立ち上がった。貰っているというのは嘘だったが、そうでも言わなければ月子の拳がいますぐ昇に飛んでいきかねなかった。

 荷物を掴んで、逃げるように去る大滝を玄関外まで送り出してもう一度ため息を吐く。月子は自分の夕食を作ろうと台所へと向かった。

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