月光

紅野はんこ

調律

 辻本月子は、困っていた。

 それで一日を潰すつもりだった知恵の輪があっさりと解けてしまったのである。

「これ、昔は随分と苦労したんだけどなあ」

 山脈を攻めるような意気込みでいた月子は、なんともいえない脱力感を覚えた。解けてしまったパズルをしばらくぼんやり見つめていたが、当時苦もなく解いてみせたた弟・昇のことを思い出して視線を外した。見るともなくテーブルの横の本棚に視線が行く。書棚の本の名前を眺めていれば、弟の思い出の再生を止められるかと考えたが、甘かった。

 月子がウンウンと唸っているのを横から奪って、事もなげに外して返す様子が脳裏に鮮明に描かれる。月子はそんな弟が嫌いだった。随分と懐かしいことを、と月子は自嘲した。恨み深いにも程がある。

 しかし、知恵の輪が解けてしまった以上はこれから何をするかを考える必要があった。時計を見るとまだ午後の二時だ。買い物は午前のうちに終えたし、洗濯も済んでいる。掃除は昨日やったばかりで、とりあえず目につく所は片付いたはずだ。目につかないところに手を出すとなれば、午後からの時間だけでは間に合わない。

 ちょっと手の込んだ料理でも作ろうか、と台所に意識をやると、流し台の食器類のことを思い出した。うんうん、と首を縦に振る。月子は知恵の輪をきちんと片付けると、腰軽く立ち上がった。


 階段を降りて台所に向かうと、流し台はさながら遺跡群である。月子の昼食の食器二枚と十個弱のコップ類によって形作られたストーンヘンジだ。遅く起きた月子が昼食を作ったときには目を背けたものである。

「今日は多いな、やっぱり」

 昇は何事もなければ夜遅くまで起きている。そうしていると喉が渇くのだろう、朝になると使用済みのコップ類が大量に流しに放置されていることが多い。一つを使い回すなり、使った端から軽く洗うなりしてくれればいいものを毎回別のコップを使うものだから、洗う月子としては苦労が絶えない。しかし、放置すれば遺跡群はいつまでも拡大を続け、いずれ使える食器が全て遺跡の骨子と成り果てる。月子は腕まくりをしてから一つずつ丁寧に洗い始めることにした。両親は今、月子から見て祖父に当たる辻本総呉の容態が芳しくないことを受けて、夫婦で見舞いに赴いている。少なくとも、あと一月程度は戻らない。今は母も父もいないこの家で、この仕事をやるのは月子しかいなかった。

 母は文句を言わないのだろうか。コップを磨きながら月子は思ったが、言うわけがない、とすぐに思い直した。彼女は勉強に家事とやたらと叱られたが、父にしろ母にしろ、昇に関してはピアノさえ弾いていれば文句がない、というきらいがあった。月子はそんな風に扱われる弟が嫌いだった。

「今日は随分昔のことを思い出す日だな」

 一人暮らしをしているうちに、実家の空気というものを忘れてしまっているらしかった。両親がいないこともそれに輪をかけている。ひとりごとを漏らして月子は作業を続けた。

 月子は家事全般が嫌いではない。取り掛かる時こそ面倒に思うものの、始めてしまえば無心に物事が整頓されていく様には胸のすく思いがした。唯一の趣味といってもいいだろう。

 故に、その遺跡群との格闘を遮った呼び鈴には苛立った。あと数分もあれば終わっていたものを、と思う。口にも出していたかもしれない。流し台そばに掛けてあるハンドタオルで手を拭くと、玄関へ向かう。

 しかし、戸口に立っていた顔を見るとそんな気持ちはどこかへ行ってしまった。

「あれ? 月子ちゃんじゃないか」

「大滝さん! お久しぶりです」

 彼は大滝栄助という。この家に出入りする人間では、最も月子と親しかった人物の一人だ。最後に会ったのはもう十年以上前になるだろうか。

「随分おじさんになっちゃいましたね」

 こぼれる笑みを隠さずに言う月子に、大滝は豪放に笑った。

「そりゃもう十分おじさんだからなあ。月子ちゃんも随分いい女になったじゃないか!」

 大滝にしてみても、高校を出る頃を最後に見ていなかった月子の姿は新鮮味があった。昔はかけていなかったと思ったが、黒壇の長髪に眼鏡がよく映えている。とはいえ、月子嬢の淑やかな面影は消えていなかった。昔の彼女を知っているなら、大滝でなくとも見間違うということはなかったに違いない。

 ひとしきり二人で笑い合う。積もる話は多かったが、月子はまず要件を聞くことにした。

「調律ですか?」

 おう、と言う大滝。うんうん、と二度頷いて、月子は中へ誘った。

 大滝栄助は調律師である。月子の父・博と古い付き合いだったこともあり、辻本邸にある二台のピアノの調律は常に彼の仕事であった。

「昇は出かけてるみたいで……すみません」

「確かもうじきリサイタルを開くはずだからなあ。打ち合わせでもあるんじゃないか」

 特に気にした風もなく言う大滝だが、もし月子がいなければ鍵がかかっていて家に入れなかったはずである。いくら付き合いが深いとはいえ、仕事で来ている彼に失礼ではないか、とこの場にいない昇に彼女は怒りを覚えた。月子の先導でピアノの置かれた防音室に入った大滝によろしくお願いします、と告げて台所へ戻ろうかと思ったが、ふと思い立って声をかけた。

「この仕事の後って、何か用事はありますか?」

 ピアノ室に入った大滝は振り返って、思案するように顎を撫でた。少しだけ剃り残したヒゲが微細な音を立てる。

「いや、何もないよ。どうかした?」

「仕事のあと、一緒にコーヒーでもどうかと思って」

 控えめな誘い方に月子らしさと懐かしさを感じて大滝は笑いを零した。

「いいよ。それなりに時間がかかるけど、待っててくれるかい」

 OKサインを作って、ピアノに向き直った。パタパタと軽やかな足音が台所に走ったので、大滝の頬は意図せず緩んでしまった。


 大滝の来訪によって一種の興奮状態にあった月子だが、台所に下がると相変わらずそこにある遺跡群に一気に現実に引き戻された。溜め息を吐くと、また腕まくりをして作業を再開する。

 さて、大滝を誘ったはいいが、彼の言う通り調律にはある程度時間がかかるはずだった。二、三時間というところだろうか? 決まった時間があるものでもないだろうから家を開けるわけにも行かなかったが、それまでの仕事というと月子には思いつかない。

 台所仕事はおそらく、あと数分もかかるまい。凝った料理をしようかとも思ったが、早く終わった時に申し訳ないのでは、と思うと身動きがとれなかった。

「参ったなあ」

 こういう時に趣味が少ないというのは困り者だ。あるいは彼女の家族たちのように楽器ができるなら、このような思いもしなかったのだろうか? やや考えて、それはない、と月子は結論した。

「うん、ない」

 口に出して念を押す。そんなことはありえない。月子の場合は。

 建設的なことを考えよう、と思った。ふと、未読の本を持ってきていたことを思い出す。荷物から出して自分の部屋に置いたはずだ。先ほど本棚を眺めた時に並べてあったように思う。月子は文学に明るいわけではない。流行の本だから、と買った一冊だった。おそらく推理小説の類だと思う。

 リビングまで下ってきてそれを読んでいればいいだろう。そこに居れば防音室の動向も、いつ帰るか知れない弟の帰りにも対応出来るからだ。台所の作業を終えた彼女は一度二階まで本を取りに上がり、また降りてきて、椅子に腰掛けて机に本を平らに置くと肘をついて読み始めた。月子の読書の癖だった。

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