白猫と僕

 僕は、子供のころから、他人には見えないものが見える。

 簡単に言ってしまえば、“妖怪”とか、“幽霊”とか、そういうやつだ。

 いつから見えるようになったのかは、覚えていないし、どうでもいいことだ。きっとあなたも大して興味はないだろう。

 ただ、僕が見える何かが他の誰かに見えないことなんて、あまりにもよくあることだったから、僕はいつしか自分が見えるものを他の人間に教えることはやめてしまった。どうせ言っても信じてもらえないし、クラスの人気者になれるわけでもない。

 でも、自分の目に映るものを信じていたかったから、僕はいつもただ黙って“彼ら”を眺めていた。

 そう、僕の頭がおかしいんじゃないと、信じていたかったから。


――今日は、そんな僕の友達の、白い子猫の話をしようと思う。




 あれは、僕が小学六年生のころ、夏休みが終わってから二週間ほど後の、放課後のことだった。

 僕は、いつものとおり思いっきり回り道をして、家に帰る途中だった。別に、何か用事があるわけじゃない。ただ、学校にいるのも、家に帰るのも嫌なだけだ。暇つぶしに街を歩き回るのは、僕の趣味のようなものだった。

 図書館に行って本を読んだり、神社でなんとなく空を見上げたり、公園で虫を捕まえたり、橋の上から船や鳥を眺めたり、時々すれちがう野良猫と遊んだり。

 僕は、猫が好きだ。しなやかな体も、きりりとした目つきも、マイペースな性格も、うねうねと動く尻尾も、好きだ。特に、野良猫はどれだけ見ていても飽きない。

 その猫は、僕が見つけたとき、電柱の陰で座り込んでいて、ぴくりとも動かなかった。まるで何かを待っているみたいに、少しも動かなかった。とてもきれいな、真っ白い子猫だった。

 僕は、一目見ただけでその猫のことをすっかり気に入ってしまった。猫は僕が近づいても、話しかけても、逃げる様子もなく、ただじっと道のずうっと先を眺めていた。

 やがて帰宅を促す五時のチャイムが鳴ったので、僕は慌てて白猫に別れを告げ、家に帰ろうとした。けれどそのとき、猫がじっと僕を見つめて、何かを請うように一声鳴いた。猫はくるりと向きを変え、少し歩き、また僕を見つめて一声鳴いた。僕はどうしてやればいいのかわからなかった。猫は歩いては振り返り、歩いては振り返って、まるで僕を呼ぶように鳴いた。

 いや、きっとこのとき、猫は本当に呼んでいたのだ。僕はそれに応じて、一歩、また一歩、こわごわと家とは逆方向に歩き始めた。やがて僕がきちんと後ろについて歩いてくるとわかったのか、猫は振り返らなくなった。僕の歩く速さに合わせてしっぽをうねうね動かしながら、まるで僕をどこかに導くかのように――悠々とした足取りで歩いていく。


 どこへ向かっているのだろう、と思った。もう、知っている大通りも、橋も、スーパーも越えてしまった。もう少し先に、僕が通っているのとは別の小学校があるが、そこより先はもうわからない。もっとずっと奥までいくと山道に入ってしまう。まさか、『注文の多い料理店』に連れて行かれるということはないだろうけど、と考えて僕は少し笑った。


 まだ夏の気配の残っている空は高かったけれど、落ち始めた陽の周りは薄いオレンジに染まっていた。遠く東の空には、夜の闇がもうすぐそこまで迫っている。父さんと母さんが帰ってくる時間にはまだ早いけれど、この見知らぬ土地から、ふたりが帰るより先に家に着くのは無理だろう。家出したと思われるだろうか、慌てるだろうか、心配してくれるだろうか。いや、おそらく警察を呼ばれて、帰り着いたときには叱られて終わりだろう。僕は白猫の後を追いながら、ぼんやりと考える。

 この先の山で、野宿することになりはしないだろうか。それとも、猫の集会に呼ばれて、そこから猫の国に招待されて、おとぎ話のような展開になるのだろうか。そうやって少しばかり、この小さな冒険の先行きを不安に思い始めたころ、白猫は僕を励ますように、にゃあと鳴いた。そのつやつやの白い毛並みは、薄闇の中、淡く輝いているように見えた。

 白猫の声で我に返った僕は、改めて周りをよく見回しながら歩いてみることにした。カンカンカンと、遠く踏切の信号機の音が聞こえる。僕の住む町の周辺は、これといって特別な何かあるわけじゃない、何の変哲もない住宅街だ。といっても、マンションは多くなく、そのほとんどが一軒家。古いものもあれば、新しいものもある。ただ、比べてみればやはり古いお宅のほうが多いから、長くこの土地に住んでいる人が多いということなのだろう。

 山が近いせいか、このあたりにはお寺や小さな社が多い。踏切の奥にもひとつ、対の稲荷が据えられた小さな社があった。僕はなぜだかその神社に、見覚えがあるような気がした。

 まるで規則性のない曲がりくねった道と、時折現れる直線的な道がつながって、不恰好な十字路やT字路を作る。地元の人間か、よほど方向感覚に優れた人でなければ、すぐさま迷子になってしまうだろう。かく言う僕も、猫を追うのに夢中で来てしまったから、もはや帰り道はわからない。知っているのは白猫だけだ。あいにくと白猫のほうも、知っているのは行き先だけかもしれないけれど。


――でも、変だな。初めて来る場所なのに、来たことがある気がする。何か見たことがある景色が、続いているような気がする。僕は白猫の後を追いながら、ちらちらと家々の表札や、電信柱の番地を確認してみた。

 知っている。僕はこの町の名前を知っている。伯母さんの家がある町の名前だ。時折、母さんに連れられておばあちゃんの顔を見にやってくる町。普段は車かバスで来る程度には距離があるし、あまり近くを歩き回ったこともないから、気がつかなかった。白猫は、僕をここに連れて来て、何がしたいのだろう? それとも、ここはただ、通り過ぎるだけの場所なんだろうか。


 なぁん、と白猫が鳴いた。突き当りを右に曲がれば、伯母さんの家だ。その正門の前で、白猫は律儀に座って僕を待っていた。白猫は僕を見上げて、もう一度、なぁん、と鳴いた。

 僕は少しためらったけれど、おずおずとインターフォンを押した。こんな時間にやってきて、伯母さんに何と言えばいいのだろう。まさか、野良猫を追いかけてきたらここまで来てしまった、家まで送ってほしい、なんて言えるわけがない。「はーい」と、インターフォンの奥からざらついた女の人の声がする。僕は何も言えずに、その場に立ち尽くしていた。

「ユウ君? どうしたの、こんな時間に」

 不意に、ガチャリとドアが開いて、伯母さんが顔を出した。その瞬間、僕が何かを言うより先に、白猫は伯母さんとドアの隙間をぬって、するりと家の中に入り込んでしまった。

「その顔、さては家出かな?」

 違う。けれど、言い訳はできないだろう。もうあたりはすっかり暗いのだし、僕にはいつだって家出をしたい理由がある。僕はもう、そういうつもりで来たのだと思うことにした。

「まあ、上がんなさい。晩御飯くらいは、用意してあげるわよ」

 幸いなことに、伯母さんは母さんよりもずっと気さくでおおらかだった。並んでいると、対照的な姉妹だと言われるくらい、ふたりの性格は正反対だ。僕が家出をしに来てもそうそう目くじらを立てたりはしない。おおかたご飯を食べて落ち着いたところで、家に帰されるだろうけど、僕はそれでかまわなかった。母さんから叱られるのはこの際仕方がない。大事なのは、どうして白猫が僕をここに案内したかだ。

「まさか、辰哉に会いに来たわけじゃないでしょう?」

 辰哉、というのは伯母さんの息子、つまりは僕の従兄弟なわけだけれど、僕と彼は水と油の仲だということは、伯母さんもよく知っていた。ふるふると首を振るう僕に、伯母さんは苦笑して見せた。

「……ああ、じゃあばーちゃんだ。ユウ君はおばあちゃんっ子だものね」


 そうだ、猫がこの家に用事があるとすれば、たぶんおばあちゃん以外にいない。

 おばあちゃんは、昔から大の猫好きで、外で捨て猫を拾っては面倒を見ていた。多いときには、十匹以上も世話をしていたことがある。もっとも、最近は足が悪くなってしまって面倒を見られなくなったから、飼っていた猫はほとんど里子に出していて、残ったのはおばあちゃんと一緒でヨボヨボの、トラネコの虎助だけだった。


 伯母さんはおばあちゃんに僕が来たことを告げると、忙しそうにキッチンへ引っ込んでしまった。僕はそろそろとおばあちゃんの部屋の障子戸を引き開ける。おばあちゃんは何やら趣味の刺繍をしているらしかった。白猫はその正面へ座って、針が動くのを黙って眺めていた。

「おばあちゃん、こんばんは、遊びに来たよ」

 僕が声をかけると、おばあちゃんは顔を上げてにっこりとほほえんだ。

「ゆうくん、久しぶりだね。どうしたね、こんな時間に」

「ううん、少しだけ、おばあちゃんと話がしたくて」

「またいつもの話かい? 今、一段落するからね。少し、待っていておくれ」

 母さんが伯母さんの家に来るとき、僕の相手はもっぱらおばあちゃんがしてくれた。おばあちゃんは特別僕だけをかわいがってくれているわけではなかったけれど、聞き上手で、いろいろな話を聞いてもらった。学校の勉強の話、今まで読んだ本の話、野良猫の話、それから……僕が見るものの話。

 おばあちゃんは、僕が話すどんなことでも、話の腰を折ったりせずに聞いてくれた。おばあちゃんが僕の言うことを、全部信じてくれているのか、正直僕にはわからない。でも、もしも信じていないのだとしても――何も言わずに聞いてくれる、その事実が僕には嬉しかった。

 夕食の準備で忙しいのに、伯母さんは僕とおばあちゃんにお茶をとお菓子を持ってきてくれた。僕はおばあちゃんと向かい合わせになるように座布団を置いて、そこに座って話し始めた。

「おばあちゃん、白猫は飼ったことある?」

「まっ白なのかい」

「うん、まっ白で、目が金色の……」

 僕の質問に、おばあちゃんが眉根を寄せる。白猫はおばあちゃんの隣で、その顔をじっと見上げている。部屋の隅でうたた寝をしていた虎助が、いつの間にかやってきて、今度はおばあちゃんの膝の上で丸くなった。

「まっ白なのは、一度きりだよ。もうずっと前さ。ゆうくんが生まれるよりも前、病気の子猫を拾ったけど、うまく面倒見てやれなくって、死なせちまったね」

 おばあちゃんは苦々しく笑って、そう答えてくれた。僕は少し胸が痛んで、上ずった声で「そう」と返事をした。そうして少しの間、この白猫の話をするべきか迷ったけれど、やはり言うことにした。

「今日ね、まっ白で、金色の目の子猫を見つけたんだ。その子を追いかけてきたら、ここへ着いたんだよ」

「その子は今、ここにいるのかい?」

 僕はこくりとうなずいた。白猫が答えるようにしっぽを振りながらにゃあと鳴いた。

「そうかい……」

 おばあちゃんはそう言って、嬉しそうに目を細めた。その目はまっすぐ僕を見ている。隣にいる白猫のことなんて、ちっとも気づかない様子で。

――いや、最初から見えていないんだ。薄々わかっていた。あれは、僕にしか見えない白猫だ。

 白猫は、おばあちゃんに会いたかったのだろうか? そんな気がする。わざわざ僕を呼びつけて、隣町まで歩かせて、はるばるおばあちゃんに、僕と一緒に会いに行きたかったのだ。

 僕は少しだけ明るい気持ちになった。もしかしたら僕の目が、ほんのちょっぴり白猫の助けになったのかもしれない。おばあちゃんはおばあちゃんで、僕のほら話ともとれるような話を、まじめに信じてくれている。

 ここは、あたたかいな。陽だまりみたいだ。だから、猫が寄ってくるんだろうか。僕は、おばあちゃんと、膝の上で丸くなっている虎助と、行儀よく座っている白猫を見て、そう思った。

「おばあちゃん……いつも、ありがとう」

 少し照れくさかったけれど、そう言うと、おばあちゃんはにっこり笑ってくれた。

「ねえ、今日はおばあちゃんの話を聞かせてよ」

「年寄りの長話なんざ、つまらないよ」

「いいんだ。僕が聞きたいんだ。たとえば、猫の話なんかを」

 渋るおばあちゃんに、僕は笑ってそう答えた。




 その後、結局僕は伯母さんに夕飯をごちそうになって、車で家まで送ってもらい、家では両親にこっぴどく叱られた。

 白猫は、そのままおばあちゃんのところに居ついたらしかった。少なくとも、僕の家についてきたりはしなかった。僕は少し寂しかったけれど、きっとそのほうがいいだろうと思っていたし、さほど気にしていなかった。その三ヵ月後、おばあちゃんの訃報を聞くまでは。



 心臓の病気で救急搬送されたおばあちゃんは、その翌日にあっさりと亡くなった。高齢だったとはいえ、まだ一人で出歩けるほどには元気だったのに、突然に、おばあちゃんはもう、動くことも話すこともなくなってしまった。

 お通夜のために向かった伯母さんの家――あの夜一緒に話した部屋では、おばあちゃんが穏やかな表情で、もう決して目を覚まさない眠りについていた。いつもは底抜けに明るい伯母さんや従兄弟の辰哉も、このときばかりはしょげかえっていたけれど、僕がかけられる言葉なんてあるはずもなかった。ふたりのほうが僕よりもずっとおばあちゃんの近くにいたのだ。日常の変化の落差は僕よりもずっと大きいだろう。

 その日は、いつもは寝てばかりいる虎助も、何かただならぬ空気を感じたのか、それともおばあちゃんがもう起きないことを知っているのか、ずっと縁側で耳をピンとそばだてていた。僕はといえば、悲しくないわけではなかったけれど、涙が出てきたのは、告別式で花を添えるときだけだった。僕はけっこう冷たい人間なのかもしれない。……そんなことは、昔からわかっていたけれど。



――僕には、他人には見えないものが見える。

 簡単に言ってしまえば、“妖怪”とか、“幽霊”とか、そういうやつだ。

 けれど僕がおばあちゃんの幽霊を見ることは、きっとないだろう。おばあちゃんは満たされていた。この世に未練は、多少あるかもしれない。でも、満たされているものは幽霊にはならない。からっぽなもの、何かに飢えているもの、そういうものが幽霊になるんだから。

 満たされているもの、誰かを導いてくれるものは、神様になる。僕は、人の神様には、ついぞ会ったことがない。きっと、どこか遠くから僕らを見守っていて、然るべきときにそっと手助けをしてくれるのだろう。





 四十九日の納骨式の日、僕はお墓の前で、見覚えのある白い影を見つけた。

 お坊さんがお経をあげている間中、それはずっと場違いに顔を洗ったり、あくびをしたり、毛づくろいをしたりしていたものだから、笑ってしまいそうになるのをこらえるのに必死だった。

 僕はみんなが移動するタイミングを見計らって、こっそりと白猫に耳打ちした。

「おまえは、おばあちゃんに会わせてくれたんだね」

 白猫はまるで返事とばかりに、にゃあ、と鳴いた。なんとはなしに、穏やかだったおばあちゃんの死に顔が思い出されて、少しだけ寂しい気持ちがこみあげてくる。知らないうちに、涙が頬を伝っていた。

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えそらごと ~人と人外の短編集~ ペグペグ @pegupegu

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