病んだ少年と竜

 僕は、あれほど美しい生き物を知らなかった。

 あの爪で、切り裂かれたなら。あの牙で、引き裂かれたなら。あの生き物が汚れたこの血を、一滴残らず飲み干してくれたなら。

 僕も、あんなふうに美しいものになれるのだろうか。


 ――僕の目の前の何もかもが、赤々と燃えているのは、そう、願ってしまったから、なのだろうか。


 焼け付くように熱い空気を吸い込みながら、崩れた瓦礫の間を縫って、家、と呼んでいたものの残骸から這い出す。聞こえるのは、パチパチと炎の爆ぜる音、人の悲鳴と怒号、そして、風を切る竜の羽音。見上げれば空には、夜闇の中、炎に照らされた竜が旋回しながら飛んでいる。僕が憧れていた、あの美しい生き物が。

 竜は、山火事のようなものだ、と村には言い伝えられていた。気まぐれで、いつ村を襲うかわからない。そしてひとたび襲われたなら、すべてが奪い去られてしまう、災害のようなもの。僕たちはあまりにも無力で、それに打ち勝つ術などない、そういうもの。だからこそ僕は、あれを美しいと思うのだろう。

 人間の痛みや苦しみなど、そ知らぬ顔で、竜は村の上空を飛び続けていた。灼熱の吐息を吐き出し、深緑の鱗を炎で輝かせながら。僕は、ぼんやりとその姿を目で追った。僕はまだ生きている。泥だらけではあるけれど、大した怪我もしていない。ただ、煙を吸い込みすぎたので、頭が少しクラクラしていた。

 結局、あれも僕を一思いに殺してはくれないのだ。他の人たちのものは、奪っていくのに。僕だけを都合よく、消してくれたりはしないのだ。深く息をつき、外の寒気と混ざりあった爆ぜた空気を吸い込むと、軽い咳が出た。少しずつ呼吸を整えてから、立ち上がろうと地面に手をかける。そこで初めて、僕は自分の目の前にその竜がいることに、気が付いた。

 馬の倍以上ある巨体に、不釣合いな骨ばった皮膜の翼。近づくものを皆、射すくめるような金の瞳。すべてを喰らい尽くしてしまいそうなほど貪欲に、研ぎ澄まされた牙と爪。天災がそのまま、皮をかぶったような姿。

 ああ、何もかも、悪くない。この病んだ身体と、すり減っていく魂を捨てられるなら。こんなにも美しいものの、一部になれるなら。

 そう思って、僕は笑った。目の前の竜は、品定めをするかのように、僕を見つめていた。僕は竜にそっと手を差し伸べる。竜は鋭い牙をむき出しにして、地響きに似たうなり声を上げた。僕はかまわず、その顎に手を回した。竜は嫌がるように首を打ち振るった。弾かれた僕は、たたらを踏んでその場に倒れこむ。もう一度顔を上げると、さっきよりもずっと近くで、竜が僕を見つめていた。灼熱の吐息が、僕を焦がしてしまいそうなほどに、近く。

 けれど、突然、竜は僕に興味をなくしてしまったようで、どこか遠くに首をめぐらせた。

 行ってしまう、と思った。災いというものは、いつだって、やってくるのも、去っていくのも唐突だから。そういうものが、僕の願う通りになんて、絶対にならないのだから。

 呼吸もできないほどの強い風が吹き付けたかと思うと、竜はもう、はるか上空に身を躍らせていた。そしてそれきり、この村に戻ってくることはなかった。

 僕は今一度深呼吸をすると、自分を強いて立ち上がった。ぽつり、と顔に雨粒が触れた。見上げた空は、白み始めている。たちまち、温かな雨が降り注いで、炎の勢いを弱めていった。

 どれだけの人が亡くなっただろう。どれだけのものが奪われただろう。雨は、この傷跡を洗い流してくれるだろうか。僕は、生き残った人を探して、村の中心へと歩き始めた。


 ――じきに、夜が、明ける。

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