いづこより

里田慕

第1話

「私の知ってる美しい人達は、どこへ行ってしまったんだろう」

 君は時々、いや、多分疲れた時にはよく、そんなことを呟いて僕に同意を求めることがあった。


「わかるよ。でも、深く考え過ぎたって、しょうがないんじゃないかな。今だって、沢山いい人がいるんだから」

 身近な人や、会社の同僚の名前を挙げたりした後、最後には「僕がいるじゃない」とありがちな台詞で結ぶことが多かったように思う。


 僕は言葉の意味がわかったつもりでいたし、君の心も知っているつもりだった。


 確かに今の世の中、君が生まれた南の島のように、心に何も纏わず大の字になれるような場所じゃない。でもだからと言って、日々楽しいことはあるし、人は生きて、暮らしている。

 それは今も昔も変わらないはずだし、だから僕達は愛し合うようになった。少しぐらいの憂鬱は、隣で手を繋ぎ合えば、きっと笑って乗り越えて行ける……。


 このごろになって、突然に思い出す景色がいくつもある。何の脈絡があるのかは、全くわからない。

 ただ、つらつらと、夜の闇に閉じた瞼の裏で、弾けては消え、気がつくとまた同じイメージを繰り返している。

 アルバムのページを、何度もめくっては眺めるように。


「いい空気でも吸いに行こうよ」

 何度も出かけた海浜公園。今考えてみれば、いつも君は、それほど嬉しそうにすることはなかった。きっとそれは、他の何処に出かけた時でも。


 それなのに、笑って見送る顔が、道端でしゃがみ込んで両手の上に顎を乗せて微笑んでいる姿が、思い浮かぶ。


 よたよたと歩く幼児に小さく手を振って、その家族連れが、寂れた駐車場から出ていくまで。


 高校生くらいの男の子達が、はしゃぎながら山の参道を上っていく様子を見上げながら。


 ああ、多分同じ時だったと思う。


 杉の木が立ち並ぶ山深い神社。くわえ煙草に彼女連れの若い男が、意外なほど混み合った境内で煙をくゆらせ、人の服につかんばかりに指先の煙草を振り回した後、足元に「それ」を放った。

 そして、隣の彼女の肩を抱いて目を伏せずにいられないような何かを囁いた。


 玉砂利を踏みしめる音。


 そびやかされた頭と、いつもと同じ人に思えない怒らされた肩口。

 そして、煙草を拾い上げ、男に示した後、言い放たれた言葉。


「死ね」


 ケンカになる寸前、何とか割って入ってその場を収めた。


「あんな奴、生きてる価値ない」

 助手席で窓の外を睨みつける君に、

「ああいうのは、相手にしても仕方ないよ。何にもわからない奴なんだから。僕らがどうこうしても仕方ない」


 それからずっと黙ったままで、アパートに戻った。


 僕は、何を言いたかったんだろうか。


 仕事場で行き違いが起きるたびに悩んで、取り留めのない同僚からの電話に応じていた君。


 道路で轢かれた犬や猫を見るたびに、道路の脇に遺体を寄せて、市役所に連絡していた君。


「うまくない世の中だよな」

 そんな言葉の何処に意味があったろうか。


 君は言っていた。

「私、何を探してるんだろう。何かがあるって、信じてるのかな。よくわからない……。でも、あのままあそこにはいられなかったから」


 様子を聞いただけで、一度も行ったことはない、君の生まれた場所。美しいけれど、そこに住み続けるのは苦しかったと言う、宝石のような島。


 そして、感情の潮のままに全てをぶつける君に、唇と愛撫で答えを返した幾つもの夜。

 熱量が放たれて汗を拭く時には、絡んでいた紐は少し解け、君を愛して、一緒に歩けると感じていた。


 それは、間違いだったんだろうか。その時他に、何ができたのか……わからない。


 君は、少しずつ世界との絆を失っていった。


 僕の声に反応しなくなり、発していない言葉に答えを返す。外に出かけると、突然耳を押さえてしゃがみ込み、一歩も動かない。


 ある夜、小さな声に目蓋を上げると、ほの白い背中が見えた。


 何もない空間を見上げ、語り続ける君。


 僕には、何もできなかった。後ろから抱きしめることすら。ただ、君の姿が霞んで見えた。


 それでも、ホッとするような暖かい日も幾度かあった。

 言葉が届く時には、まだ笑い合えるような日も。


 そして、最後の日の午前、病院帰りに寄った海浜公園で、君はまたあの言葉を呟いた。


「ねえ、どこにいったんだろう……私の知ってる美しいものって。いつも笑っていた、美しい人達って」


 そして、次の朝、二年間を暮らした僕達の巣は、記憶の中にあるだけのものになった。

 床に擦りつけるほどに頭を下げた君のお父さんは、僕には及びもつかないほどの体格の持ち主なのに、不思議なほど穏やかな目の人だった。


「ありがとう」

 交わした言葉はたった一言だった。でも、重く深く、柔らかい響きがまだ昨日のように耳の中に残っている。


 そして、何も言わず頷き、去っていった君の背中。


 君は、君の言っていた「美しい場所」で、今でも暮らしているのだろうか。


 君の言っていた美しさとは、何だったんだろうか。


 そして、僕のしていたことは間違いだったんだろうか。


 何か他にできることがあったのだろうか。


 仄かに何かが形を取りそうになる時がある。


 だから僕は、この夏、君の帰ったその場所へ出かけてみようと思う。そうすれば、何かが見つかるかもしれない。


 ……いや、きっとそれは違う。


 僕は確かめにいくのだろう。

 君の言っていた美しいものが、いったい何だったのかを。


 今でも、どこかにあるのだろうか、と。

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