12月28日

【12月28日】マチュピチュ遺跡

 早朝7時、聖なる川ウルバンバのほとりに古くから栄える集落、オリャンタイタンボの駅から、マチュピチュのふもとにある集落、アグアス・カリエンテスへ向かう列車に乗り込む。1時間半ほどの旅になる。


 ちょうど前夜、泊まったホテル近辺では祭りが行われていた。ツアーのメンバーの1人は外に面した角部屋で、午前0時を回るころまで、1度聞いたら耳から離れなくなる歌とアップテンポのビート音によって眠りを妨げられていたそうだ。ご愁傷さま。


 青い車両の列車、ビスタドーム号は、イギリスから持ってきた古い車両を改装して使い回しているそうだ。車内は清潔で、ドリンクとスナックのサービスが付いて、スタッフも品がよかったが、エンジン等はずいぶん古いらしくて速度は出ない。


 出発駅のあるオリャンタイタンボという地名は、文字で見ると覚えにくい。オリャンタという首長がいた、タンボすなわち「宿泊施設」のことだ、と分解すれば、いくらかわかりやすくなる。


 マチュピチュ遺跡は、インカ帝国の最盛期に造られた。それがいつごろだったかというと、1438年に即位した第9第皇帝パチャクテックの治世に始まり、ピサロによる征服の1533年で終結する。15世紀前半から16世紀前半にかけての約100年間である。


 ちなみに日本史で言えば、1430年代は全国で土一揆がさかんになり、6代将軍の足利義教による恐怖政治が始まったころだ。やがて恐妻家の足利義政の跡継ぎ問題などから応仁の乱が勃発し、戦乱の世に突入。1530年代には信長や謙信、光秀たちが世に生を受けた。


 最盛期のインカ帝国は、現在のペルー全土に留まらず、コロンビア、ボリビア、エクアドルの大部分とチリの北半分をも領土とした。南北に長い、非常に広大な帝国だった。


 帝国の首都クスコの東西南北の入口となる地には、タンボの名が付く村が置かれていた。中でも東に位置するオリャンタイタンボは大きく、重要な宗教施設もあった。その首長オリャンタと皇帝パチャクテックの娘による情熱的な恋の物語も、ペルーでは有名だという。


 線路は川沿いをうねりながら、山肌に貼り付くように敷かれている。川を挟んだ対岸の山肌には、インカ帝国時代の交通路、通称インカ道が伸びているのが見えた。


 インカ道は、かつて帝国全土を血管のように巡っていた。その全長は6万5000キロメートルにも及んだと推定されている。現在は、クスコ周辺のインカ道、およそ67キロメートルが復元されている。


 インカ道を歩いてマチュピチュに向かう3泊4日のツアーもある。歩く距離は40数キロメートルというから、1日半で荷を担いで駆け抜けた福井・京都間の鯖街道よりずっと短い。


 とはいえ、インカ道は険しい。谷底を走るに等しい列車から見上げれば、山はほぼ垂直に切り立っている。その山肌を削って刻まれた道を行くのだから、肉体的にも精神的にも、鯖街道ほど気楽なはずがない。


 かつて南米大陸に馬はいなかった。現在ではインカ道の一部で乗馬を楽しめるようだが、馬はスペイン人がもたらしたものだ。インカ道は人間の足で行くのが正式である。インカ帝国時代は、足自慢の飛脚が宿場町ごとに駐在して、情報伝達の役割を担っていた。


 ちょっと寝坊した私は、朝からコーヒーを飲んだだけで、何も胃に入れていなかった。列車内で提供されたパイとコーヒーがありがたい。パイの中身はキヌアとドライフルーツ。キヌアはペルー古来の栄養豊富な穀物で、日本のひえあわに近い。


 オリャンタイタンボ駅を出たとき、周囲には高山植物が生え、山は石灰岩でできていた。雪を頂いた峰を眺めながら緩やかな下り坂を1時間ほど行くと、列車は熱帯雨林の地域に入る。ランを始めとする熱帯植物が見え始め、一帯を占める岩石は花崗岩になる。


 日本にない景色が展開されていく。眠っている人が大半だったが、私は外の景色に魅せられ、ずっと起きていた。


 もともとアグアス・カリエンテスという名だった村は、今ではマチュピチュ村と呼ばれている。その名のとおり、マチュピチュ遺跡の玄関口だ。温泉混じりの川が流れる、坂だらけの村である。観光客向けの宿泊施設やレストランが軒を連ね、独特なにぎわいを見せている。


 独特なにぎわいと表現するのは、観光客でごった返す反面、ひどく素朴で昔ながらの生活が垣間見えるからだ。サッカーをしそうな格好の少年が、ビールのケースを山積みにした荷車を押して急坂を登っていく。エンジンを搭載した乗り物は、遺跡に向かうバスだけだ。


 バスに乗るまでに1時間ほどは待っただろう。途中の橋が工事中だったので、キャンプ場のところでバスを降り、歩いて吊り橋を渡り、対岸のバスに乗り替えた。土が剥き出しのつづら折りの坂を20分ほど登り、ついにマチュピチュ遺跡に到着した。


 マチュピチュ遺跡の標高は2400メートルほどだ。いちばん高い見張り台のあたりで2600メートル。高いには高いが、前日のクスコ周辺に比べて、体への負担はずっと少ない。


 最初に見張り台まで登った。花崗岩の石組みは、磨かれたような石灰岩でできたクスコのまちなかに比べてずっと素朴な印象だった。見張り台の裏手にある段々畑からマチュピチュ遺跡を一望して、声が出なかった。


 すごい。それ以外に何も言えない。


 見下ろす山は、想像していた以上に切り立っていた。ずっと下のほうに、谷底を流れる川がある。そこからほぼ垂直に山がそびえ、山肌に貼り付く格好の段々畑が、尾根を切り拓いて造った遺跡の下支えを為している。


 霧が急斜面を這い上がってくる。遺跡に立つ私をかすめた霧は、上空に吸い上げられて雲になる。このあたりは、今は雨季だ。いつ降り出すともわからない天気で、遺跡はときおり霧のヴェールを被る。


 一般にマチュピチュと呼ばれるこの場所が、インカ帝国のころに何と呼ばれていたのか、今では伝わっていない。マチュピチュは、この遺跡がある山の名だ。「老いた峰」という意味で、山頂は遺跡よりもずっと上のほうにある。霧がかかって、よく見えない。


 マチュピチュは1度、世界から忘れられた。16世紀、スペイン人の侵略がオリャンタイタンボまで及んだとき、さらに山深い場所にあるマチュピチュは幸いにして見過ごされた。だから、あらゆる宗教施設も当時のままで残された。


 熱帯雨林の植物に隠されたマチュピチュを再び発見したのは、アメリカ人の若き探検家で考古学者、ハイラム・ビンガムだった。


 20世紀初頭、未発見の遺跡を探し続けたビンガムは、10年近くに及ぶ失敗を経つつもあきらめず、わずか2名の同行者とともに、オリャンタイタンボからウルバンバ川に沿って山並みを歩き、マチュピチュのふもとの集落に至る。


 マチュピチュの中腹に石でできた町がある。そんな噂を聞いたビンガムは早速、険しい山に入った。当然のごとく迷ってしまった彼は、山中の集落に住む少年に助けられ、石でできた町まで案内される。その町こそが、今に伝わるマチュピチュ遺跡だった。


 当初、ビンガムはマチュピチュを「インカ帝国の真の首都」だと勘違いした。しかし、マチュピチュはさほど大きな集落ではない。忘れ去られるまで建設と拡大が続けられた最盛期でも、数百人から一千人が住む程度だったと推定される。


 宿場町でも要塞都市でもない。付近には、人の往来する行路などない。首都クスコに至る要衝とも言えない。マチュピチュに至るインカ道は存在するが、遺跡は通過点ではなく、遺跡こそが目的地である。


 では、交通の要衝から外れた場所に位置するマチュピチュに、何のために石の町が造られたのか。


 文字による記録が残されていない以上、考古学的な発掘調査の結果から推測するしか術はないが、皇帝直属の宗教施設だったとする説が有力である。マチュピチュに住まうのは、町を築く石工を除けば、太陽神に仕える高貴な血筋の巫女たちだったと考えられる。


 なぜマチュピチュが重要な宗教施設として選ばれたのか。現代人には推し量りようもないが、インカ帝国時代の天文学によって、この場所が太陽の動きや光を観測するのに最適であると導き出されたからだろう。


 インカ帝国時代の太陽を祀る神殿には屋根がない。太陽をイメージした曲線の壁が、太陽の神殿の目印だ。おおよそ東を向いた細長い台形の窓は、冬至の日、その真ん中を太陽が昇っていく。


 冬至は、1年で最も正確に太陽の軌道を測れる日として、古来、どの文明における天文学でも特別に大切にされる。南半球にあるペルーの冬至は、北半球では夏至の6月21日ごろだ。6月24日には太陽神の祭りが今でも大々的に行われるそうだ。


 太陽の神殿、生贄の祭壇、水の神殿、日時計、コンドルの神殿、聖なる広場と主神殿といった宗教的な設備に、皇帝が滞在するための家、最も貴い巫女が住んだ家、一般の居住区、石切り場と職人の居住区、段々畑、造りかけの神殿。


 こまごまと解説し、描写したいことはたくさんあるが、そうした事柄はガイドブックにもネット上にも書かれている。私が書くより詳細な情報も写真付きの記事もあるだろうから、ここでは割愛する。


 代わりに、私だからこそ書けることを書こう。私は大学時代以来、13世紀のユーラシア大陸をせっけんしたモンゴル帝国について研究している。その視点から、最盛期のインカ帝国とモンゴル帝国に共通項を見出した。


 両帝国とも、最盛期の祖となる皇帝からわずか3世代、時間にして70年ほどの間に、猛烈な速度で版図を拡大した。それが可能だったのは、「領土を分捕って支配する」のではなく、「民族を仲間に加えて呑み込む」という考え方を持っていたからだ。


 モンゴルにせよインカにせよ、征服者となった人々はごく少数だ。彼らは殺さなかった。相手を敵と見なして殺すことは得策ではないのだ。仲間を増やさなければ、少数の自分たちは拡大できない。


 インカ帝国は石材や金銀などの鉱物資源に恵まれた国だが、その真の国力は大地から採れる資源ではない。精密で豪快な石組みの町を築き上げる「労働力」こそが、インカ帝国の国力であり、財産だった。


 険しい山に建つマチュピチュなどの石の町は、すべて人の手によって造られた。何百トンもの巨石を組み上げる作業さえ、何万人もの労働力によって成し遂げられた。


 それは奴隷による労働の産物だったのだろうか? 私はそうは考えない。


 インカ帝国に貨幣が存在しなかったことは、25日の記事で、すでに述べた。インカ帝国では、物々交換や労働力の提供といった「等価交換」によって社会が回っていた。


 大規模な石造建築に提供される労働力も、等価交換の社会においては当然のものだっただろう。人々は皇帝のため、己の持てる労働力を提供する。その対価として皇帝からされるのは、働いて生きることを許される「居場所」である。


 現代風に言い替えれば、よき皇帝による政治とは「失業者を出さない社会システム」を築くことだ。石組みの町を造り続ければ、農閑期の農夫や土地を持たない貧民が職にあり付ける。働くことで対価を得て、帝国の中で生きていくことができる。


 労働力を有効に活かすことに配慮し、国力を活性化し続けた統治者として、私はモンゴル帝国のチンギス・カンやクビライ・カァンを知っている。インカ帝国最盛期の皇帝たちも、きっとチンギスの一族に似ていた。


 チンギス・カン登場以前のモンゴル高原では、遊牧民同士が勢力抗争を繰り返していた。チンギス・カンは抗争を収めたが、今まで戦士だった男たちが失業することになった。これは困る。ゆえに、次なる戦場を求めて西へと遠征を始めたのだ。


 モンゴルにおける戦はデモンストレーションだ。大軍で疾駆する騎馬兵の前に、馬に乗らない農耕の民は恐れをなして、和平協定に調印する。和平の証は、その首長の血を引く女だ。町や氏族を落とすごとに妻を得て子を為すのが、モンゴルのリーダーの常だった。


 インカ帝国の急速な拡大も、モンゴル式の和平協定と似たようなやり方だったはずだ。例えば信長の一向一揆鎮圧や比叡山の焼き討ちのようにひとつひとつの集団に対して徹底的な殲滅を行うのでは、あのスピードで国を広げることなどできない。


 破壊や殲滅にはエネルギーが必要だ。険しい土地に住むインカの民も遊牧民のモンゴルも、暮らしぶりは決して豊かではない。生産ではなく破壊のために多大なエネルギーを費やすことは、可能な限り避けたはずだ。破壊は、富める者の歪んだ特権である。


 インカ帝国とモンゴル帝国の共通項として、もう1つ挙げたいのが駅伝システムだ。素早い情報伝達を担ったシステムである。


 世界征服を成し遂げた王者は何をすべきだろうか。無論いくつもあるが、まず真っ先に為すべきは「道路の整備」だ。


 人の足や馬の蹄に負担の来ない平らな道を、領土全体に隈なく巡らせる。途中に関税があるならば撤廃し、一定間隔に宿場町を設け、盗賊や獣を追い払い、通行証等のルールを定める。


 インカ帝国の宿場町には足自慢の飛脚が、モンゴル帝国の場合には長距離を走るのに適した良馬が駐屯していた。公的な重要連絡があれば、飛脚がリレーをして、あるいは馬を替えながら、目的地まで素早く情報を届けた。


 余談ながら、13世紀のモンゴル帝国の駅伝システムは、シベリア鉄道の登場まで、ユーラシア大陸を横断する最速の交通手段だったと言われている。インカ帝国の飛脚が現代のクロスカントリーに出場したら、さて、どれくらいの成績を収めるだろうか。


 このあたりで歴史学の話を終わらせよう。


 マリソルさんの説明を受けながらのマチュピチュ散策には、3時間ほどかかった。ちょうど全部を見て回ったころに雨が降り出し、遅めの昼食のレストランへと避難した。


 帰りのバスに乗るために1時間以上、並んで待った。離合するのもギリギリの、ヘアピンカーブが続く土の坂道を、バスはよどみなく走る。十数台のバスの車体に傷はなく、曲芸的な運転技術の高さがうかがえた。行きは工事中だった橋がすでに開通していた。


 本物の遺跡に触れ、圧巻の光景を目にして、私は大いに興奮していたらしい。空気の薄い高地で走り回って、石にさわりまくった。はしゃいでいたぶん、マチュピチュ村のホテルにチェックインすると、どっと疲れが押し寄せてきた。


 フレンチ風にアレンジされたペルー料理の夕食を取って、硫黄が含まれた温泉水を湯船にためて入浴した。それ以外の時間は、日本の番組を放映するテレビを観ることもフリーWi-Fiを利用してネットをすることもなく、ひたすら寝ていた。

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