12月26日

【12月26日】ナスカの地上絵

 ペルーは、その気候と地勢から、3つの地域に分けられる。西から順に、海岸線沿いの乾燥地域、アンデス山脈の高山地域、アマゾンの熱帯雨林地域だ。


 地上絵で有名なナスカは、乾燥地域のイカ県にある。地上絵の成立年代は判然としないが、これらを描いたナスカ文化が栄えたのは1世紀から6世紀である。日本で言えば、弥生時代から古墳時代にかけてのことだ。


 ナスカ文化は、紀元前1万5000年ごろに始まるペルーの歴史の中でも、特に有名なものと言って差し支えないだろう。ペルーに土器が出現したのは今から4000年ほど前のことで、一般的にこの時期以降の歴史を指して「アンデス文明」と呼ぶようだ。


 アンデス文明では、現在知られるだけで25以上の文化が興亡を繰り返した。それら文化の担い手となった民族や彼らが拠点とした地域はばらばらだが、共通項がある。優れた天文学的知識を有したこと、車輪と文字を持たないこと、ミイラを作る習慣があったことなどだ。


 ミイラの話が、私にとってはおもしろい。死者への礼儀を、アンデス文明における数多の文化が共有していた。つまり、一つの死生観、死という絶対的なものに対する観念が、途絶えることなく伝えられてきたわけだ。


 文明だとか民族だとか、うまく目に見えないまとまりの正体は、たぶんそういうものだ。生まれてから死ぬまで当たり前のものとして信ずる「観念」を共有していること。死生観、神話、祖先の伝説といったものが同じであること。


 ペルーのミイラは、膝を抱えた格好で作られる。内臓を取り出すなどの処理を施した遺体を、数十メートルにも及ぶ織物でくるむのだ。貴人のミイラは、日干し煉瓦の墳墓の下の石室に、陶器や装飾品などの副葬品とともに葬られる。


 リマからイカ県まで約500キロ。地下水が豊富で緑豊かな一帯を離れると、赤っぽい砂と岩ばかりの沙漠が広がる。なるほど道理だ、と思った。ペルーのミイラや織物、陶器などが見事な状態で保存されているのは、この気候ならば道理だ。


 朝は6時起きだった。7時にツアーバスでホテルを出発して、イカ県の飛行場まで片道4時間。飛行場から地上絵の上空まで、小型プロペラ機で片道1時間半。帰りももちろん1時間半と4時間の行程だ。地上絵を見る30分程度のために、移動時間は10時間を超える。


 ガイドを務める男性スタッフは、日本人でも日系人でもなかった。ガイドの職に就いてから4年かけて日本語を勉強したといい、日本に来たこともないらしい。若干怪しげな日本語は、ときどき、なぞなぞみたいに考え込まないと意味が取れない。


 リマを出て2時間ほどで、チンチャという町に着いた。ガソリンスタンドに併設された小さなレストランとパン屋にて、トイレ休憩。リマでは見かけなかった三輪の車がたくさん走っている。道路は赤い土のまま舗装されていない。


 町を離れて荒野を行くと、建てかけの煉瓦の家がちらほらと目に付いた。まず土台と枠組みを作って、次に戸や窓の部分を開けながら壁を作って、最後に屋根を葺く。屋根はトタンから茅葺き、最後に瓦葺きへと、段階的に頑丈になっていくようだ。


 昼食を取ったのは、ピスコという港町だった。岩の瀬の黒々とした色を透かして、海は見事な紺碧。私の故郷、五島列島の海にも似ている。磯の香りが懐かしい。


 海岸にはたくさんの海鳥がいた。わっ、と両腕を広げてみせたら、そこらへんでくつろいでいた全部が一斉に飛び立った。白い体に紅色の翼のフラミンゴは、その情熱的な配色がペルーの国旗に起用されている。ペリカンは黒っぽく、頭が不格好に大きい。


 魚料理の昼食だった。セビーチェという、カルパッチョのような前菜と、塩胡椒の味付けのメイン料理。セビーチェはヤズやヒラマサ、メインはカマスみたいな魚だと思う。白身魚だ。フンボルト海流という寒流の影響で、魚の身が引き締まっていておいしい。


 チチャモラという、紫トウモロコシのジュースも出た。羅漢果ラカンカのような、砂糖ではない甘さがある。風味はさほど強くない。普通のフルーツジュースを薄めたような味だと、同じツアーの誰かが言っていた。


 レストランから飛行場はすぐだった。国際空港と名が付いていたが、私たち以外に利用者がおらず、チェックインカウンターの大半はビニルにくるまれたままだ。相当新しいようだった。


 国内フライトとはいえ、チケットを受け取るにはパスポートの提示が必須だった。十数人しか乗れないサイズの飛行機なので、チェックインのときに体重測定をされた。数字は見ていない。


 飛行場到着から小型プロペラ機の離陸まで、1時間近く待たされたと思う。リマから同行した日本語ガイドは搭乗せず、飛行機の中ではパイロットによる英語アナウンスだけだと聞かされた。


 だから、実際に飛行機が動き出すと同時にサブパイロットが開始したアナウンスが珍妙な節回しの片言日本語だったとき、不意を打たれて笑ってしまった。ウケていることをミラー越しに確認して、ニヤッとするサブパイロット。


 離陸した飛行機から見えるのは、一面の乾燥地帯だ。ときどき本当に砂だけの場所もある。雲の影がくっきりと落ちている。朝が早かったせいもあり、少し眠ってしまった。


 やがて地上絵の上空に到着した。一群の絵は15点ほど。全長数十メートルのサイズから、最大のものは300メートル近くにも及ぶ。絵を為さない幾何学的な線は、数キロに渡って続くものもある。


 それはそれは荒っぽいアクロバット飛行だった。右に左に旋回しながら、地上絵の上空を飛ぶ。ぐんと高度が変わる瞬間は、胃がわしづかみにされる感じだ。何で昼食後にこのフライトなの。またたく間におとなしくなる日本人一行。


 例によって風変わりな歌のような片言日本語のアナウンスが「イタイタイター! アレアレコレコレ、ツバサノシタ!」と指示する先に、赤土の上に描かれた一筆書きの絵がある。赤茶けた山肌に描かれた絵はやや見付けにくい。


 しかし、遠い。飛行機の窓ガラスの向こうに、ずいぶん小さく地上絵がある。日本とはまるきり違うはずの風も土埃も、肌に触れない。これじゃテレビで観るのと同じだ、と感じてしまった。臨場感は、残念ながらなかった。


 地上絵がどのようにして描かれたのかは判明している。沙漠の上に小さな下絵を描き、基点を決め、拡大法を用いて巨大な絵を描いた。小学校時代、コンパスと定規を使って相似の図形を描く方法を学んだが、その応用みたいなものだ。


 ナスカの沙漠の表層は赤っぽいが、20センチほど掘ると、白い土が露出する。地上絵は、その赤と白の対比で描かれている。地上絵のある一帯は、地面に沿った低いあたりに熱い空気が層を為し、白線が埋もれるのを防いでいるという。


 とはいえ、近年では道路が通ったことで空気の層も乱され、地上絵の破壊が次第に進んでいるという。巨大なトカゲの絵は、まっすぐな道路によってぶった切られていた。そのそばにある手や樹の絵もいくぶん薄くなっていた。


 子どものころ、ナスカの地上絵の上空を飛ぶことに憧れていた。飛行船か気球でのんびりと飛んでみたかった。あるいは、地上絵に沿って歩いてみたかった。絵の巨大さを自分の足で確かめたいと思っていた。


 観光ツアーでは、そうした夢を実現することはできない。遊覧とは名ばかりのアクロバット飛行に耐えながら、ガラス窓越しに小さく見える地上絵を辛うじてカメラに収めるのが関の山。


 ナスカからの帰り道、日本人が経営するおみやげ屋に寄った。夕食はリマ市内の日本食レストランにて。とんかつ定食にミニ寿司セットが付いてボリューム満点の夕食は、とてもじゃないが完食できなかった。このタイミングで日本食というのも、どうなんだろう。


 翌朝は6時にホテルを出るとアナウンスされ、一行に衝撃が走った。夕食が出てきた時点で21時を過ぎていて、ホテルに着くのは23時ごろになる。ストレスと疲れがたまる一方の日程だ。史跡に触れる旅でなかったら、げんなりしていただろう。


 これからインカ帝国の首都だった古都クスコ、聖なる谷を経て、マチュピチュ遺跡を観光する。楽しみだ。

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