薔薇園

めるしー。

薔薇園

死の薫り溢れる病室の白壁を冷酷なる風が吹き抜けてゆく。誰からも忘れ去られ、今や訪れるものさえも稀な眠れる森の主。見るたびに痩せこけて見えるその顔は彼女にある種の言葉にし難い痛切さを味わわせるのであった。モノトーンには釣り合わぬ深紅の唇が、その外見、年齢からは似つかわしくない愁いを帯びたアルトが紡ぎ出される。


「迅…」


彼女はこの部屋の孤独な、実に孤独な主人の元へと近づき、そのやせ細り、朽ちたる老木を思わせる貧相な手に愛おしそうに口づけをする。幾度となくこれを訪れればおこなってきたであろうか。これはアダムとエヴァの秘密の逢瀬であり、無粋な蛇ですら入ってくることを恥じらう、厳かで、ある種の神聖ささえ帯びた親愛の挨拶であった。


その都度、その朽木は彼女による畏敬の念と心からの愛情を無視し、なんらこれといった反応さえしなかった。されど彼女は男の額を、頰を、顎をその細っそりとした雪片で一枚の花弁に触れるが如く触れ、そして名残惜しそうに離すのであった。彼女は囁き続ける。学校のこと、家のこと、、そしてこの森の管理者への永遠の愛を。かのダヴィンチですらこの哀れなる女を見れば筆を手に取り、モナ・リザにも劣るまじき名画を描き上げるだろう。


彼女は鞄へとてをやり、果物用ナイフを取り出す。かの主人がもし、ここで起きており、死神さえも寄せ付けぬ勇猛なる獅子であったならば、それは本当に用途に従い本命を遂げていたであろうこのは想像に容易い。だがしかし、彼女の良き想い人は眠りについており、混迷の淵を漂う魂である。作り物のような痩せて、されど端正な顔を鋭利な刃はなぞる。最後にその木枯らしの如く生の色なき刃は静かに横たわる良人の首筋をなぞると、彼女の首筋へと移動し、小さな林檎を実らせた。


彼女の鮮血したたる姿は、情人の上に覆いかぶさり、青き唇を鮮やかな真紅で染め上げた。少しばかり彼の舌が彼女の首筋の愛を舐めとった様に彼女には思われた。次の瞬間彼女の興奮は泰山をも越え、愛人の上に跨る。その時彼女の衣服はその持ち主の意志に従って唯の布として剥ぎ取られた。彼女の愛しい人の半身にある雄々しき北岳は屹立し、深淵の中へと世界を交錯させた。彼女の艶やかな喘ぎ声が静かな空間に響きわたるのみである。


雨が降っている。彼女は念願の思いを果たし、今まさに結ばれようとしている感動に打ち震えた。外に響き渡る雷が交わる二人を暗く灯りのない病室の壁に浮かび上がらせた。ああ神よ、人の望みの喜びよ。


全てを終えた彼女の内にはパトスが燃え盛り、官能の余韻に浸らせた。だが、そろそろ静華のくる時間であった。彼女は衣服を素早くきると、残りの窓も全開にし香りを外へ追いやった。暫くするとカツカツとハイヒールの音が聞こえた。静けさを取り戻した空間は金剛の門が開かれる音によって均衡が破られたのである。


「黒…崎…さん…」


静華の果物を捥いだばかりの如く瑞々しい唇からそこに座っていた女の名前が紡ぎ出された。

「あら、静華さん」

想い人の手を握る女のバラ咲き誇るエデンの園からは官能的余韻に浸る余裕と妖艶さが引き出されていた。


_______________________________________



二人は駅前のカフェに移動していた。


「迅が轢かれてはや十月ですか…」


静華は静かに「ええ」と返事する

羅生門迅は17歳の誕生日に轢かれ意識不明の身になっていた。少女を庇って。


「ああ、そうそう」


の凛音が切りだす。続けた言葉は恐ろしいと言わざるを得ないものであった。


「舞さんがお亡くなりになった時涙を流していたらしくてよ」


羅生門迅が事故にあって三ヶ月後、妹である舞も列車に轢かれて死んだ。ストーカーの仕業であったが、巷では後追い自殺が囁かれていた。犯人曰く死のうとしていたのだから、誰が殺しても同じであろう。だから、一生自分の記憶に残るように殺したのだ。


どこまでも似た兄妹であった。両方ともブラコン、シスコン。黒崎にもかの兄妹が肉親以上の愛をかかえていたことを知っていた。


「そう…」


「ここも寂しくなったわ」


最初は5人いた。猫田ゆいは転校、舞は殺された。涼も死んでいた。


「本来ならゆいも、涼も居たはずなのにね」


涼は自殺していた。迅のあとを追ったのである。遺書にはこう書かれていた。


『迅、僕は君を愛していた。向こうの世界で添い遂げよう』


「本当に愚かしいこと」


凛音が吐き捨てた。

彼女が続ける


「あの男だけは決して誰にも渡しませんわ。例え貴女にであっても。迅の延命治療は続けるし、定期的にも通う。そうやって誰にも、誰にも渡しませんわ。覚悟しておかれるとよろしくてよ。」


彼女の目は血走り、荒い息が吐き出された。不意に彼女は冷静になって


「お見苦しいところをお見せしましたわ。ご馳走様。私はそろそろ帰らせてもらいますわ。お代は払っておきますからゆっくりされていかれてもよろしくてよ」


喪服に身を包んだ華麗なる鬼女は立ち去っていった。静華も慌てて飲み干す。アールグレイの香りが口の中にひろがり、彼女の意識を覚醒させた。彼女は立ち上がってクラークにごちそうさまでしたと一言言って店を出た。雨はもうやんでいる。ふと明かりが差し込み彼女はその方角に目を向けた。落日の夕陽が空を染め上げていた。ビル風が吹き荒れ、枯葉はひらりひらりと舞い落ちる。彼女は身を切るような寒さのなか歩き続けると足は自然と病院のほうに向かっていた。




悠久の眠りにつく病室の主はいつもと変わらぬ姿で彼女を出迎えた。静華は幽宮の主人の手を優しく包み込んだ。冷たい。冬風にさらされ、ただエゴによって生かされている人形の手は底なしに冷えていた。今、どのような夢を見ているのだろうか。決して端正とは言い難い顔は常に無表情である。彼女は空を見上げた。ただそこに蒼天があるのみ。




まだ冥界の門は開かれることを知らず。彼、羅生門迅は死を迎えるその時まで夢を見続けるのだ。never ending,never die.終焉と死を知らず。それは果てしなき夢。苦難の旅は始まったばかりなのだ。何度も死に、何度も傷つく。その夢は自らが夢にあるを知らざるが故。運命の女神は涙を流す。哀しきかな。悲しきかな。今宵、月が貴方を照らさんことを。




聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな

万軍の神なる主

主の栄光は天地にみつ

天のいと高きところにホザンナ

ほむべきかな

主の名によりて来たるもの

天のいと高きところにホザンナ


ああ、主よ、哀れなる子羊に慈悲を賜わらんことを。エイメン。

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