男前侍

十五 静香

ある探偵と映画

 その探偵は、新宿の片隅にある小さな映画館の2階に事務所兼自宅を構えていた。


 昭和22年冬。

 あの途方もなく大きな戦争が終わって2年と4月。

 戦前は華やかなネオンが並んだ繁華街は、焼け野原になり、自堕落だが誇り高い精神を持ち合わせていた売春婦たちは、赤線と呼ばれる特区に押し込められ、恥も外聞も捨てて金髪に赤ら顔の米兵たちの袖を引くようになった。

 彼女たちは逞しく、ハコだけでなく、価値観や文化までが破壊され、すげ替えられた街でも生き抜いている。


 空襲で黒焦げにされた焼け野原にも、バラックと呼ばれる粗末な屋台が並び、人々の活気は徐々に戻りつつある。

 やせ細った戦災孤児たちも、そのまま飢え死ぬのは受け入れず、小さな体で懸命に生きている。


 きっと、この街はこれから先、もっともっと活気にあふれ、新しいビルが建ち、土埃の立つ道路は衛生的に整備され、あそこの屋台にいるボロを着た若い夫婦も、上等な背広や華やかなワンピースを着、外国人のように腕を組んで新しい街を闊歩するようになるのだろう。



 それは喜ばしいことに違いないのだが、探偵は少し寂しいと感じていた。

 彼が愛し、守ってきた戦前の帝都の面影は刻一刻と消えていく。

 忌まわしい戦争や馬鹿馬鹿しい思想取り締まりが過去のものとなったのは、自分の悲願であったのに、何故かその後に生まれた新しいこの街を受け入れられずにいる。


 青春時代の最後を過ごしたあの場所も今はない。



「探偵の旦那、可愛い子入ったよ」



 下世話な笑みを貼り付け、コートの袖を引いてきた客引きの男をかわし、探偵は事務所の一階にあたる映画館の正面玄関を潜った。


 便所から漂う小便の臭いに辟易しつつ、無愛想なもぎり嬢から切符を買う。


 彼女はこの映画館の主人夫婦の娘で、20代後半だが、先の大戦で夫を亡くした戦争未亡人だ。

 夫は彼女と結婚した次の週には、南方戦線に出征してしまい、そのまま帰らぬ人となった。

 一人残された彼女は、実家に帰り、こうして細々と家業を手伝って生活している。


 化粧っ気のない無表情な仮面の下には、底知れぬ悲しみが潜んでいる。


 けれども、気の毒なことに変わりはないが、現在の日本には、彼女と同じような境遇の女は星の数ほどいる。


 本当にクソみたいな時代だ。


 街は復興しても、残った悲しみだけが置き去りにされている。


 唾を吐き捨てたい衝動を抑え、劇場の重いドアを開けた。


 平日の昼間なので、客は少なめだが、それでも普段のこの映画館からは考えられない程、座席が埋まっていた。


 先週の土曜に公開初日を迎えた映画らしいが、ろくに看板なんて見ないで入ったので、彼には何故ここまで客が入っているのか分からなかった。



 背の高い探偵には些か窮屈な座席に腰を下ろすと、斜め前に座っている若い女二人組が、きゃあきゃあ甲高い歓声を上げながら、上映開始前のお喋りに興じていた。



「主演の俳優、日本では新人だけど、上海ではかなりの人気俳優らしいわ」



「知ってるわ。あなた、入り口のポスターご覧になすったかしら? まるで、外国人みたいに彫りの深い男前だったわよ」



「勿論見たわ。日本人とイタリア人の混血だって、雑誌に書いてあったわ」



 云々。



 なるほど、今日の1作は、上海からやってきた新人男前俳優が出るものらしい。

 映画館の表にあったポスターは、時代劇風だったが、西洋人との混血の俳優が主演とは意外だった。

 まさか、黒船来航を讃えるプロパガンダ映画ではなかろうな、と彼は訝しいだが、すぐにどうでも良くなった。


 こうやって、幕が上がるまで何が始まるのか分からないスリルが楽しいのだ。

 今後の人生に影響を与えかねない名作かも知れないし、とんでもない駄作かもしれない。

 前職時代の職業病か、どうも探偵は物事に不確実な要素を求める傾向があった。

 自分では、他の同僚に比べればずっとマシだと今でも確信しているが。




 それから程なく、劇場の照明が落とされ、天鵞絨の幕が上がり、上映が始まった。





 2時間後。




 エンドロールが終わり、女性客たちが「売店でブロマイドを買わなきゃ」と騒ぎながら出て行っても、探偵はまだ座席から立ち上がれずにいた。



 映画の内容は、はっきり言って最低だった。


 プロパガンダ映画の方がまだマシなくらいに、酷いものだった。

 酷すぎて、すぐには席を立てない程の駄作だった。


 主演の俳優は、長身で手足が長く、西洋人風の顔立ちの男前だったし、演技自体も悪くなかった。

 しかし、爽やかだが、軽薄で何も考えていなさそうな雰囲気がいけ好かなかった。


 加えて、脚本や演出が悉く安っぽく、子供騙しで、頭の悪いものだった。


『男前侍』という聞いただけでうんざりするタイトルの映画は、単に男前の侍が全国を旅し、各地でかわいそうな小町娘を救ったり、悪の浪人を裁くという勧善懲悪ものだ。

 が、見れる殺陣を演じられる斬られ役を雇う予算がなかったのか、監督の頭に虫がわいているのか、『男前侍』には手に汗握るチャンバラシーンは一切ない。

 チャンバラになりそうになっても、男前侍がモノクロでも分かるやけに白い歯を光らせる胡散臭い笑顔で見得を切るだけで、敵は戦意喪失してしまうのだ。

 男前侍があまりに男前過ぎるかららしい。




 探偵はあまり見た映画がつまらなかったからと文句を垂れる性質ではないが、今日ばかりは大声で叫びたい。



 俺の2時間を返せ、と。




 上海からやってきた男前黒船俳優とか仰々しい煽り文句が付いているが、主演俳優も日本での活動は今回限りで撤退だろう。

 さっさと上海に帰れ、馬鹿野郎。



 あまりに下らなかったので、今度腹いせに、今もしょっちゅう事務所に現れる昔馴染みの友人にも見せてやろう。



 そして、その後は2人で大いに酒を飲み、あいつの悪口に花を咲かせよう。



 脱力から漸く復活し、劇場を出ると、休憩スペースのソファに一人の浮浪者が寝そべっていた。


 彼は探偵の姿を見つけると、戦争前から変わらないダミ声で声を掛けてきた。



「よう、知事。『男前侍』良かったか? 面白かったなら、今度俺にも見せてくれよ」




 探偵は、浮浪者と初めて出会った頃のように、豪快に破顔して答えた。



「いいや、何もかも最低だったけど、特に主役がいけ好かない」



 そうかと浮浪者もつられて笑った。




 探偵の見立てが大きく外れ、『男前侍』はその後シリーズ化され、主演俳優も活動拠点を日本に移し、昭和の名優と呼ばれるようになるのは、もう少し先の話である。

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男前侍 十五 静香 @aryaryagiex

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