Last case 待つとし聞かば―from さやかに密か

 電気ポットのお湯が湧く音の中に、ポンっと呟きが飛び出した。


「好意の加減ってわかんないよな」


 社会科教諭、日下和也くさか かずやは読み掛けの本から少しだけ視線を外し、声の主に向けた。黒く細身のハーフリムの眼鏡越しに見える、もの問いたげな光を隠そうともしない。

 3時限目に社会科の授業が入っていない日下は、今日も保健室で過ごしていた。さも自分の部屋であるかのように。

 新年度から社会科教諭が増え、今までのように社会科準備室を独占できなくなってしまったらしい。

 養護教諭、大谷静人おおたに しずとの机の傍のソファはいまや日下の指定席だ。

 先程大谷が覗いたその表紙は、シンプルな装丁だがどうやら恋愛小説のようだった。

 ――もう冬だってのに、頭ん中春なんだろうな、こいつ。

 間違っても本人にそんなことは口は出さない。どうせ、口先だけ文句の惚気ノロケを聞かされるだけだ。


「そんな顔するなら今すぐこっから出てけ。仕事になんないだろ」

「どうせいつも暇そうじゃないですか。それに静人はいつも唐突なんですよ」

「どっちが。毎度毎度、かずが来るから仕事できないんだろうが」

「で、好意の加減ってどういう意味ですか?」


 旗色が悪くなったからなのか、耳にタコができてしまった言葉だからなのか。

 日下の不自然とも言える話題転換に大谷は仕方なく乗った。先に議題を提示したのは大谷だったから。

 湯気の立ちのぼるマグカップをトン、と日下の目の前に置くと、鼻に抜けるようなさわやかなハッカの香気がふわっと辺りを包み込む。


「ほら、オレ自制心ないって言ったじゃん? 制限するもんがなくなった今、どうやってブレーキ掛けたらいいものかなと」


 日下が大谷をジトッとした視線を投げかける。わかりきった反応なので、大谷はサラッと流しておくことにする。背中には視線がグサグサ刺さるが。


「レイティングに引っかかることは教師として自制すべきことでしょう?」


 大谷をR指定にした友人は、かれこれ10年近い付き合いになるだろうか。

 少しでも自分の常識から外れたことをすると、すぐにこんな言葉が返ってくる。一つ一つ真に受けていてはやりきれない。


「ああ、そういえばオレ、曲がりなりにも教師だわ」

「そんなことでよく生徒の相談を受けてますよね。変なこと吹き込んでませんか?」

「仕事はマジメにやってますよー?」

「今のところ、職員会議に掛けられていないようですからそうなんでしょうね」

「判断基準そこかよ」

「他に何が?」


 まさに「ああ言えばこう言う」。

 大谷は日下にわかるように大きな溜息をついた。日下には聞こえていないのか全く動じる気配さえない。

 机の右端にマグカップを置くと、山のような雑務が目に入った。大谷はもう一度大きく息を吐く。

 去年までの保健委員長なら手伝ってくれていた事務作業。今年は違う。

 今年度、委員長になった深山准みやまじゅんなる。しかし、親の敵かと思うくらい大谷に厳しい。

 保健委員の仕事はきっちりやってくれる深山だが、大谷の頼みごとは一度だって聞いてくれたことがない。もっとも、教師の仕事の範疇にあったものを今まで手伝わせてたことに問題があるのだが。


「八つ当たりだろ、あれは」


 小さく呟いて、ふふっと大谷が笑った。



「相手が受け止めてくれるか、じゃないですか?」


 日下がパタンと本を閉じた。

 一瞬、大谷は何のことかわからなかったが少し思案するとポンと手を叩き、日下を見やった。


「ああ、さっきの答えね」


 読書しながら大谷の言ったことを考えていたのだろうか。器用なことだ、と大谷は思う。

 口では悪態をつきながらもきちんと人と向き合う姿勢が日下になければ、たぶん長くは付き合えていないだろう。それに気づくには、相手にもそれなりの忍耐力が必要だという前提のもとで。

 かつてこの学校にいた、忍耐力が一番強いであろう、櫻井麻琴さくらい まこと。その女生徒を思い浮かべ、また大谷の口角が上がる。


「人としての経験値はこちらが上ですからね、躊躇はしますよ、僕も。引かれはしないかと探り探りです」

「お前でもそういうこと考えるのね」

「自分の気持ちだけで突っ走って壊してしまいたくありませんからね。誰かさんのように」

「いいこと言うなと思って聞いてれば、最後で落とさなくていいんだよ」

「相手のことを思えばこそ、ですよ」


 そう言って笑う日下は本当に幸せそうに相好を崩した。

 ――あと一年はこんな調子かもな、いやしばらく続くかな。


「ノロケんな」

「何も言ってません」

「顔が語ってんだよ」


 そんな日下の笑顔を引き出せた人間は一人しかいない。


                   *


 昨日からの冷え込みが、今日の朝には更に増したクリスマスイブ。

 このままだとホワイトクリスマスになるんじゃないだろうか。

 息が白いのを再確認したくないのと少しでも温まるよう、マフラー越しに大谷は息を吐く。もはや役割を果たせていないマフラーはほんのりとだけ温度が上がる。

 視線を左隣に向けると、自分の肩より下の女性がふわりと白いチュールスカートをなびかせ歩いている。

 今日の彼女は心なしか大人っぽい。

 頬はほんのりピンク掛かっていて、唇も薄く色づいている。

 ――メイクなんてしなくても十分かわいいのに。

 それでも自分の為にしてくれたことだとわかっているから、自然と頬がゆるんでしまう。


「さっきから何を笑ってるんですか? 大谷先生」

「ん? 秘密」


 大谷を怪しむように睨む女性は小薗柚月こぞの ゆづき

 去年までは大谷が顧問を務める保健委員会の委員長だった。


「でさ、いつまでオレは“先生”なの?」

「“先生”なのは変わりないじゃないですか」

「名前で呼んでみ」

「……おーたにさん」

「委員長って大事なとこですっとぼけるよね」

「しず……じゃない、せい……?」

「それは天然? わざと? でもまぁ、いいか。その人だけって特別感あるよね」


 自分に触れそうで触れない距離にある柚月の手を取り、軽く指を絡めた。

 柚月が下を向くと肩より少し長い髪はいつもスルスルと肩から落ちて、表情が見えなくなる。

 そうすることは初めてではないのに、柚月は決まって下を向く。

 恥ずかしがる彼女のリアクションがかわいくてつい、からかわずにはいられない。もれなく怒りもついてくるが、それも見たくて続けてしまう。


「ゆづ」


 柚月が大谷の声に反応した。しかし自分が呼ばれたとは思わなかったのか、きょとんとして大谷を見つめる。


「クリスマスプレゼント何がいい?」

「そういうのは普通あらかじめ決めておいて、サプライズするものなんじゃないですか」


 子どもっぽいと自分で思うようになったのか、頬を膨らませることは少なくなった。

 それでも感情を抑えきれていないところがまだまだ子どもだ。


「買ったものが相手の好みに合わなかったら、やじゃん。オレそういう無駄なことしない主義なの」


 柚月が頬を膨らませようとして、慌てて口を真一文字に結ぶ。

 おそらく、「自分の為に選んでくれたってことがいいのに!」とでも心の中で叫んでいるのだろう。加えて「養護教諭のくせに!」も入ってくるだろうか。


「日下先生と麻琴、婚約したそうですよ」

「ああ。で、櫻井ちゃんがハタチになるまで結婚は待つんでしょ。バカじゃないのあいつ」

「日下先生なりの誠意じゃないですか」


 日下をフォローしているように見えて、柚月も焦れったく感じてはいるらしい。


「もう教師と生徒じゃないんだから、そんな固いこと考えなくてもいいじゃんって、こないだ和にも言ったんだけどね」

「……先生って結構アバウトに生きてますよね」

「一度きりの人生、思った通りに生きないと後悔するよ? 委員長」

「先生だってまだ抜けてないじゃないですか」

「二年もそう呼んでれば勝手に口から出てくるの」

「私だってそうです」

「じゃあここから先、お互いを名前で呼ばなかったら罰金1回100円ね」

「そんなゲームみたいにするのやめましょうよ、先生。……あ」

「はい100円。まいどどーもありがとーございまーす」


 大谷がおどけた口調で柚月に右の手のひらを上にして見せた。

 柚月が「嘘!」と目を丸くするが、大谷がその手を一向に引っ込める気配もないので渋々100円玉を乗せた。

 それをぐっと握り込んで大谷がニッと笑う。柚月は悔しそうに唇を少し噛んだ。

 そこからしばらく、クリスマスソングのMIXだけが耳に入ってきた。

 大型電気店から流れてくる『クリスマス・イブ』のサビの途中で、次のドラッグストアの『All I want for Christmas is you』がフェードインして、カラオケBOXから聞こえる『Last Christmas』がフェードアウトしていく。


「二人とも話さなくなったら意味ないじゃないですか」


 しびれを切らして柚月が大谷に噛み付いてきた。けれども、大谷と視線は合わない。


「ねぇ、委員長」

「あ、罰金」


 ここぞとばかりに柚月が指摘した。大谷は前を向いたまま言葉を続ける。


「オレ、転勤することになった」

「え」


 深い緑のツーシートの車が、ガードレール越しに二人の傍を通り過ぎていった。

 かなりスピードは出ていたはずなのに、スローモーションに見えたのは気のせいか。

 冬なのに屋根が開いていた車内に、クリスマスカラーな花束が乗せられているのが大谷には見えた。


「って言ったらついてきてくれる?」

「冗談なんですか。本当なんですか」

「ほんと」


 茶化したのは保険だったが、嘘もつけなくて結局正直に答えた。


「私まだ大学1年生なんですけど」

「うん」

「勉強したくて大学に入ったんですけど」

「カウンセラーになりたいんでしょ。知ってるよ」

「……なんでこのタイミングなんですか」

「まだ内示だから断ることもできるけどね。でもそうなると、このまま教師続けるのは難しいかもな」


 繋がれた手はそのままだけれど、先程までの高揚感は柚月の指先から伝わってこなくなった。


「ゆづ」


 大谷がもう一度彼女の名前を呼んだ。

 柚月の手がピクッと震えた。


「遠くなっても平気?」

「……遠距離恋愛になるってことですよね?」


 柚月の声がほんの少し湿っている。


「そう。ゆづはしっかりしてて、ちゃんと自分持ってるから大丈夫だよね」


 大谷が柚月の手に優しく力を込めた。自分の希望も一緒に込めて。


「先生と一緒にいるようになってからは弱くなったもん」

「あらあら。困った人だね、ゆづさんは。じゃあ」


 大谷が歩みを止めて柚月の手を離した。

 その場で柚月に向き直ると、彼女の体がすっと硬くなる。大谷はそれをほぐすように、ずっとポケットに入れたままの右手をゆっくりと外に出した。


「これでちょっとは強くなれる?」


 ぐいっと半ば強引に柚月の左手を取り、薬指に小さなわっかを通した。


「これはちょっとした約束」


 そう言って大谷が柚月から手を離した。

 柚月はその姿勢のまま、薬指にはめられたシンプルな指輪を眺める。


「仕事とゆづを両天秤に掛けることはしたくないけど、これでも悩んだの。資格があるから転職はできると思うけど、ゆづのために仕事を変えたとしてさ。この先自分が後悔しないかなって思ったんだ。なんだかんだ今の仕事気に入ってるから、転職して上手くいかないことの理由をゆづのせいにしたくないのよ。わかる?」

「わかります」


 未だ固まったままの柚月の目から雫が零れた。

 大谷はガードレールに背を預けると、ぽろぽろと止まらなくなる涙を拭う柚月の体を右手で引き寄せた。バランスを崩した柚月が大谷の胸にドンと倒れ込むと、続いてチュールスカートもふわりと波打つ。


「もやもや抱えたまま、ゆづと一緒にいるのは嫌だから」

「先生らしいですね。なんだか高2の終わりにおあずけ食らったことを思い出しました」

「離れるって言っても、新幹線ですぐだから。会いに来て」

「そこは“会いに行くよ”でしょ?」


 ふふっとやっと柚月が笑ったのを見て、彼女の背中に回した両手に更に力を込めた。



「なーに見てんの、成瀬なるせサン。いくら羨ましいからって、そんなじーっと見てちゃ失礼でしょ」

「う、羨ましいわけじゃないもん」


 往来でこんなことをしているのだ、目立つのは仕方ない。

 声を聞いて、腕の中の柚月が逃げようとしているが、拘束を強くして逃げられないようにする。

 会話している男の方と目が合うと、男は軽く会釈をした。大谷もつられて軽く頷いた。


「リクエストにお答えして、俺もやりましょうか?」

「恥ずかしいからやだ! ほら、早くしないとカラオケの部屋埋まっちゃう」

「はいはい。照れ屋ねアナタは」

「うるさいよ新倉にいくら


 その瞬間、低い呻き声と何か固いものが落ちる音がした。

 女とぶつかった女の子が少しよろめきながら小さな紙袋を拾い上げる。


「すみません! 中身大丈夫でしたか?」


 男との会話に夢中になっていた女は、前方から走ってきた女の子に気づかなかったらしい。

 女の子の持つ紙袋の中身を心配している。


「中身タンブラーやし、割れ物ちゃうんで大丈夫ですよ。気にせんといてください」

「そうですか、良かった」


 大きな身振り手振りの関西弁でぶつかった相手にニコニコと話す女の子。

 その様子に安心した女はもう一度丁寧に礼をすると、男の後を追い掛けていった。


「ちゃんと前見て歩きなさいって言うてるやろ? 何してんの、自分」

「先、先、行く……才人さいとの方が悪いんやろ!」


 先を歩いていたらしい同じ制服を来た男の子がゆっくりと歩いてきた。

 女の子は相手の名前の前に少し間を置いている。そして照れくささを隠すために怒ったように叫ぶ。

 呼び慣れないのだろうとわかって、なんだか微笑ましい。


「もうしゃあないな、ほらこれで迷子ならんやろ」


 ぶっきらぼうに、でも優しく女の子の前に手を差し出す男の子。


「迷子ちゃうし、子ども扱いすんな!」

「アホなこと言うてんと行くで、あおい


 男の子は喚いている女の子を慣れた手つきで引っ張って行った。



「ねぇ、先生」

「なに、委員長」

「先生って呼ばなくなったらもう“委員長”って言いませんか?」


 目の前で起こったことに目を奪われていたので、つい昔の癖が出てしまった。


「さぁどうでしょね? 口癖みたいになってるしね」


 大谷が腕の拘束を解くと柚月の目が少しだけ潤んでいるように見えた。


「せい、さん」


 小さな声だったが、大谷にはしっかりと聞こえた。


「はぁい」


 優しく、ちょっとだけ茶化した声で返事をすると、痛くもない軽いパンチが胸に目掛けて飛んできた。


「もうしばらく練習させてください」

「そのうち“さん”も外せるようにね」

「それは第二段階で!」

「オレがおじいちゃんになるまでとかやめてね」

「……!」

「何驚いてんの」

「別に」


“立ち別れ因幡いなばの山の峰にふる 待つとし聞かば今帰り来む”


「ちょっと離れはするけど、ゆづが呼べばいつでも必ず会いに行くよ」

「ほんとに?」

「交通費はお願いね」


 今度は強いパンチが大谷へ繰り出されたが、それを大谷は軽々と受け止めた。


 和と違ってオレは、好意の加減なんて到底できそうもない。だって好きな女のいろんな顔見たいと思うでしょ?


“立ち別れ――”

 再会を願うおまじないのうただ、と和に聞いたことがある。

 あいつの言うことに従うのは少し癪だが、たまにはそれに流されてみるのもいいか。


 雨とは違う、じんわりと染みる雪の冷たさを頬に感じると、大谷は繋いだ柚月の左手をポケットの中へ入れた。


Assortment of Christmas end.

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Assortment of Christmas 瑛依凪 @hinaki_nxt

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