Episodi 43 骨と青

 菫畑を抜けると、灰茶色の丸太を積み上げて作られた家々が見えた。その手前に浜辺があって、波がひいては寄せ、紫色や緑色の海藻を散らかしていく。砂浜には木船が幾つか縄で繋ぎ留められていた。集落に向かうには、砂浜を越える必要がありそうだった。

「これも……海?」

『海だの』

 ジゼルの戸惑いの滲んだ呟きに、メルディが応える。アンゼルモが「は? これ海なの?」と叫んだ。

 そういえば、もう二回も海を見たな、とヘロは感慨に浸った。アポロの星には海がなかった。アフロディテの星は星そのものが海だった。そして、ヘルメスの星では、あんな形で海を初めて知ることになった。

「……ここも、海底は玻璃なんだろうか」

 ぽつりとつぶやけば、メルディは『そうだろうな』と応える。

「なんで、海の側に砂があるんだろう?」

『それは、水が岩を砕いて砂になったのではないか?』

「石が砂になるの?」

『おそらくの、そなたの知っている……あの故郷アポロにあった砂とこれはまた違うものと我は思うぞ』

「ふうん……」

 砂を掬ったり撫でたりしてみると、心なしか水色のきらめきが混じっているように見えた。他にも赤や紫、黄色、緑。それらの小さな粒が積み重なって白く見えるのだから不思議だ。

「アンゼルモ? 危ないよ!」

 ジゼルが小さな声を振り絞っていたので顔を上げれば、服の裾をたくし上げてアンゼルモが恐る恐ると言った体で海の中に足を進めていた。

「ん? んん……これ、地面? どこまでつながってんだろ……もしかして結構遠くまで行けちゃう?」

「お前、もう脛まで濡れてるじゃん。地面ていうか、水底が下り坂みたいになっているんじゃないの。そのまま行ったら溺れそうだけど」

 ヘロが声をかけると、アンゼルモは振り返って「まじ?」と眉尻を下げた。

 ヘロはため息をついて、自分も服の裾を折り曲げ、アンゼルモの側まで歩いた。塩の香りがする水が足の甲まで浸して、少しずつその水面がくるぶし、脛まで上ってくる。冷たい。

「あぶないよー……」

 ジゼルの心配そうな声も追いかけてくる。

「アンジー、何がしたいの」

 服をつまんで声をかければ、アンゼルモは青い水面を見渡しながらぼんやりとして応えた。

「いや……おいらさ、ふるさとでずっと思ってたんだ。海の向こうって何があるんだろうなって。おいらの星はこんな地面、海には無かったから……木の根が這っていない場所には行けなかった。水底へ落ちていったらもう二度と戻っては来られないから。でもずうっとこの先を歩いて行ったら、どこへつくんだろうなって。それはずっと思ってたんだ。同じこと考えたやつらは海の底に溺れて死んでしまったけどね」

 ヘロは、先に進んでもいつかは同じ場所にたどり着いちゃうんだよと言おうとして、口をつぐんだ。世界が丸いことはヘロにとっては当たり前のことだった。けれど、アンゼルモは同じ教育を受けていないのだ。アンゼルモの抱く夢の形を変えたくないなと、不意にそんな思いがよぎった。

「死ぬかもしれないのに、そんなに向こう側って……知りたいもん?」

「運よく死なないかもしれないしさ、遠い向こうにはもっと食べ物がたくさんあって、豊かに暮らせる場所があるかもしれないじゃんか」

 アンゼルモはにっと笑った。ヘロは歪んでしまった顔を見られないように背けた。

 向こう側なんてない。ないよ。

 世界は丸くて、水底には玻璃があって、星はただの玻璃の塊で、英雄はただの詐欺師で、英雄がだめになった理由はただの恋で、女神はただの人間なんかに消された。真実を知った俺たちは大罪人扱い。希望の場所なんてどこにもない……そう思うと、胸が締め付けられて息が苦しい。そうだ、俺たちは今逃げようだなんて思っているけど、逃げているつもりでウラノスの迷宮のような場所をぐるぐる回っているだけかもしれない。多分世界ってそんな風にできている。

『ばかではないかの』

 ヘロを責めるようにメルディが言って、頬にピタリと貼りついた。その冷たさが、それ以上無駄な憂鬱に溺れる必要なんかないと伝えてくる。

「ねえ、濡れちゃうよ」

 ジゼルが浜辺から呼びかけてくる。しばらくして、波がざぱんと寄せ、ヘロとアンゼルモを頭からびっしょり濡らしてしまった。二人は目を見開き見つめ合ったあと、苦笑し合った。

「うえー、なんかべたべたする」

「塩水だからじゃねえの」

「体洗いたいね」

「雨降らないかな」

「雨は降りそうにないよ! 空真っ青だもの!」

 二人の軽口の応酬に、呆れたような声でジゼルが眉根を寄せる。

「……魔法でどうにかなんない?」

 背中を曲げ、上目遣いで尋ねてみると、ジゼルはわかりやすく膨れ面をした。

「二人が風邪ひくからだめ!」

「それも魔法で乾かせばいいじゃん」

「もう……」

 ジゼルの拗ねたような顔が可愛くて、ヘロは笑った。三人で砂に足跡をつける。しばらくして、「あー、いけないんだー!」という幼い声が聞こえた。

 そちらを見やれば、小さな子供が遠くの方にいて、ヘロたちを指さしてしかめ面をしていた。

「何が?」

 アンゼルモが子供の側に駆けよる。子供はますます眉をひそめた。

「靴脱がなきゃダメなんだよ! お兄ちゃんたち罰当たり!」

「靴? え、じゃあ脱ぐけど……」

 幼子に叱られて肩をすくめながら、三人で慌てて砂にまみれた靴を脱ぎ、裸足を下ろす。砂はさらさらとして案外肌触りが良かった。

「この浜辺は牢屋で死んだ罪人つみびとさんの骨でできてるんだから! 靴で踏んじゃダメなんだよ! お兄ちゃんたちおっきいのに知らないの!」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。しばらくして、胃が喉元までせりあがってくるような気持ちの悪さに苛まれた。それはジゼルも同じだったようで、口を押えて前かがみに俯いていた。

「は、はは……何言ってんの。人の骨がこんな砂になるわけないじゃん」

 アンゼルモも、青ざめた顔で空笑いを零す。

「なるんだよ! みんな言ってるもん! ここは罪人さんを埋めたから白い砂浜になったんだって!」

「……真偽はともかく、」

 ジゼルが、消え入りそうな声で言った。

「ここに人が埋められているなら、靴で歩くのはよくないわ。ほんと。家畜を埋めた場所だって土足で踏んだりはしないでしょう?」

「うん……」

 ヘロは頷くしかできなかった。アンゼルモはしばらくしゃがみ込んで、こみ上げてくるものをどうにか抑えたようだった。立ち上がった後は、まだ白んだ顔を無理やり笑顔にして、子供に優しく話しかけた。

「ごめんな、教えてくれてありがと。おいらたちよその星から来てここのことよくわかってないんだけど、村長さんとかいるなら案内してもらえない?」

「ん。いいよ」

 子供はこくりと頷く。

「村長さんじゃなくてもいいけど、とにかく時計城のことをよく知ってる人、よろしくな」

「ぼくよくわかんないから、ザクセシア様のとこに連れていくね! 村長さん!」

 子供はけろっとした顔ではきはきとそう言った。

「なんで時計城?」

 アンゼルモが小声でささやいてくる。

「いや……時計城はさ、神器が普通収められてるとこだから、そこに詳しい人ならザウストの息子さんと関係があるかなって」

「でも、ウラノスの地図ってやつだろ? ずっと見つかってないやつだろ? そんなとこ置かないんじゃない?」

「まあ……そうかも……」

「はやくー! おにいちゃんたちおそーい!」

 子供が地団太を踏む。二人は急いで子供を追いかけた。意外と足が速い。ジゼルがちゃんとついてこられているか振り返れば、大きな杖を抱え息を切らしながらもちゃんと追いかけてきていた。そのことにヘロはほっとして、ふっと柔らかい吐息が笑みと共に零れる。

「……手を引こうか? それとも、杖持ってやろうか」

「杖は……いい、持ってる、けど、手、お願い、きつ、い……」

 はあはあ、と苦し気に息をしながら、ジゼルの小さな手がヘロの服を掴んで、縋る。ぶわりと泉が沸き上がるように体が熱を持った。可愛いと思ってしまうのは意地悪だろうか。はいはい、とヘロは笑って、ジゼルの背中を指でそっと押しながら歩いた。ジゼルは必死で短い足を動かす。三人とも子供の足に追いつけなくて息を切らしてるだなんて、なんだかおもしろい。指先にかかる重みに意識を集中させて、ヘロは砂浜に想起されたこの星の歪んだ何か、気持ち悪さをやり過ごした。

 

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ウラノスの地図 星町憩 @orgelblue

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