Episodi 42 肌と風
「ヘロ、大丈夫かぁ~?」
「うん……あ、うん、大丈夫だから、ジゼルも、気にしないでよ」
頭を片手で押さえるヘロの顔を、アンゼルモとジゼルが気遣うように覗き込んでくる。ジゼルはヘロの服の袖をつまんで、その小さなしっとりとした手がヘロの肌に少し触れたから、触れられたところから熱を持ってかっと体が火照った。不意打ちはやめてほしかったし、起きるまで列車の中で見ていた夢がヘロには刺激が強くて、よけいに頭がくらくらしていた。
おそらくは、あれはアポロの記憶だった。アポロはまだ現世にいるのに、その記憶を見るだなんて不思議な話だ。ヘロは、アポロの飄々とした麦のようにしなやかなたたずまいを思い出していた。余裕のある大人――それがヘロが見た、アポロの印象だった。けれどアポロは、どろどろと渦巻くような、子供の癇癪をこじらせたような、そして好きな子への愛情を腐らせてしまったかのような、甘い匂いだけの残る毒をその内に秘めていた。ヘロにはアポロの考え方も、アフロディテへの想いも、一つも共感はできなかった。妹を、そういう意味で愛するって、こういうことなのかとぞっとさえした。ゴーシェがターシャに抱いているのも、そう? でも、ヘロはゴーシェは違うと思いたかった。ゴーシェのそれは、家族の域を越えていないと。でも何を信じていいのかはわからない。ヘロはゴーシェの友達でありたい。ゴーシェの幸せを願っていたい。
……今、悶々と考えるべき事じゃないな、とヘロは頭を振る。ジゼルがヘロから手を離さなかったので、そっとその手を取って、やんわりと離させた。触れれば、ひんやりとしたその肌が気持ちよくて、なめらかで、もっと触れていたいという疚しい気持ちがむくむくと湧き上がってきた。手をつないでいるだけなのに、胸の奥で花の蕾が朝を知ってゆっくりと花開いていくみたいだった。一枚一枚、花弁が開いていく。そのわずかな、それでいて長く感じられる時が心地よくて――ヘロは、それが愛しいということなのだと理解しかけていた――、でもヘロは、これ以上つないでたら離せなくなると、一瞬の間に本能的に察した。だからそっと自分から離した。これまでも何度も手はつないだのに、気持ちを自覚しただけでこれだから困る。指先が離れるその瞬間まで名残惜しくて、指先からびりびりと肩までしびれるような心地だった。温もりをなくした指を見つめる。サタンの星で飲んだお酒の甘い匂いが、ふわりと鼻腔に蘇ってきたような錯覚がしている。
『ヘロ、ヘロ』
「えっ、何」
メルディが、ぴと、と頬に貼りついて囁いてくる。
『手を退けられてジゼルが寂しそうだぞ』
「あっ」
ヘロが声をあげたので、先に駅に降り立ったアンゼルモがびくっと肩をあげた。
「なんだよ、ヘロ。なんか情緒不安定だなあ」
「あ、いや、別に……」
ヘロもあわてて列車を降りた。
「あの、ジゼル!」
「えっ」
「あっごめん」
「えっ? えっ、何が……?」
「声でかいよ、ヘロ」
「ええ……」
「あー、見てたら鼻むずむずするからおいら空見とこう」
「ええー……」
ヘロは戸惑うように目を揺らすジゼルを見つめた。ジゼルはヘロを見上げてくる。ヘロは自分の背が低いことを自覚している。それなのにジゼルはヘロより小さくて――今更、その身長差になんだかぐっとくる。
「その、別に触られるのがいやとかじゃなくて、じゃなくて、俺今ちょっとおかしいから、今は触らないでほしい、しばらく。大丈夫になったら、言うから」
『何の宣言かの』
メルディは呆れたように言って、空を舞った。
「え……うん、わかった」
ジゼルは途方に暮れたように目を泳がせた後、小首をかしげながらも頷いた。その仕草にヘロは叫びたいのを堪えて、腹を押さえて体を折った。
あああああ。
「百面相のヘロはほっとこ。ほら行こうよジゼル」
アンゼルモがジゼルに声をかける。視界からジゼルが消えて、ようやくヘロは息をついた。そして、叫んだ。
「あー!」
「早く来いってば!」
アンゼルモはしびれを切らした。
惑星ウラノスは、牢獄の星だ。星の大地のほとんどを巨大な迷宮が占めている。住民はほんのわずかな余り地に小さな家を建て、寄り添いあって暮らしている。この星で生まれた者のほとんどは、他の星に移り住む。残るのは、迷宮を管理する者の一族ばかりだ。
迷宮は、英雄ウラノスが神話戦争より以前に作らせた人工的な建造物だと言われている。入れば一本道だというのに、通路が常に方向転換をし、中に閉じ込められた者たちは常に中心の側をぐるぐると通り続け、決して出ることができない。脱出のためには行きと同じ道を通らなければならないが、通路が何度も組み変わるから、結局は同じように戻ることができないのだ。
だからこそ、この迷宮は、罪人の収容所――すなわち牢獄として使用される。教育機関で教授される魔法・魔術のどれを持ってしても、内部から外に出ることも、外部から中の者を連れ去ることもできない。ただ皇室だけが、罪人を時折外に出す術を持っている。皇室が釈放を決めない限り、罪人はこの迷宮の中でさ迷い歩き続けることになる。
学校でその仕組みを鳥瞰図を元に習った時、ヘロは背筋が凍る思いがした。一見すれば実に単純で攻略も簡単そうに見える構造なのに、内部がどう通路の方向を変化させるのか図解で示されただけで、そこから抜け出すことがどれほど困難か理解できた。でもあれは、トゥーレが面白いことを言ったんだっけ、とヘロは懐かしく思い出す。
『先生、例えばですよ。すっごく長い縄とか持って中に入って、外で縄の端っこ誰かに持ってもらっておいて、帰りは縄を辿って戻るとかは駄目なんですか?』
たしかその答えは、教えてもらえなかった。縄を持ってはいけない決まりになっていると先生が何度も同じ言葉を繰り返して、その授業は終わった。ヘロは、トゥーレの案は案外うまい方法なのかもしれないと思った。とはいえ、確かに牢屋守りがいるのであれば、縄を堂々と持って行くのは難しそうだ。ヘロは迷宮の入り口を守るように立つ、鎧を着た屈強な男たちを見て、肩をすくめた。
「んで、そのゲルダって人がこの中にいるんだよなあ?」
アンゼルモが、頭の後ろで手を組んで、首を傾げる。
「ああ。そう言ってたよな、ノイデが」
「うん……」
三人で、門を見つめる。沈黙。少し肌寒い風が吹いて、軟らかい花の香りを運んできた。誘われるように、ヘロは風の来る先を見やった。アンゼルモも、ジゼルも同じようにそちらを見た。多分、考えたことは同じだった。
石造りの駅を出て、真っ先に視界に飛び込んできたのが、紫色の花の絨毯だ。少しだけその首を曲げ、花という頭を重たげに俯く小さな花が、群生して、地面の至る所に紫色を滲ませていた。その菫の花の香りが、肌にも服にも髪にも染みついたような気がしている。控えめで、心が落ち着くようないい匂いだった。それからずっと、鼻腔に菫の匂いが漂っている。
はっと目を奪う鮮やかな紫。よくよく見れば、花の一つ一つに色合いの違いがあって、青が強い株も赤みが強い株も、色が濃いものも青いものもある。だからそれらが重なり合うと、紫色の糸を編んだ本物の絨毯のようでもあった。菫の花畑を見つめていると、目の奥がちかちかとして、景色が眩しく感じられた。そして振り返れば、明るい檸檬色の髪を風に揺らすジゼルがいて、その簾のような前髪の奥に、同じ鮮やかで艶やかな紫色の目があるのだった。この瞳がどれだけ綺麗か――知ってしまったら、もう惹きつけられて離れられないとヘロは思った。少し疚しい気持ちさえ芽生えてしまう。
――この菫が綺麗な星の中に、閉じ込めてしまえたら? そしたら誰も手を出せないし、誰にも盗られないで済むんじゃないかな。それで、俺もここでこの迷宮を守ったら。
そんな薄暗い感情が頭をもたげて、ヘロは頭を振った。閉じ込めて、その入り口を守って? それでどうするって言うんだ。どうもジャクリーヌに対しての気持ちと違って、ジゼルには執着心が抑えても抑えても湧き上がってくる。自分でも、呆れてしまう。それに、ここに仮に閉じ込められたとしても、皇室は手を出せる場所なのだから意味がない。
それに――ヘロはジゼルの髪に触れたい衝動を抑え込んで、自嘲した。ガイアの言ったことが本当なら、ジゼルのこの姿は、ヘロが綺麗だと思う髪の淡い色も、蠱惑的な瞳の色も、全部元は英雄ウラノスの物だということになる。ジゼルは、ウラノスの容姿をまねて生まれてきたのだから。心の奥がチリ、と熱を持った。これが、これ、この気持ち、名前を知っている。でも今まで知らなかった。多分、これが。
「はあ……」
「た、溜め息多いね……? ヘロ、具合悪い?」
ジゼルがヘロをのぞき込む。今はその上目遣いが毒というか、とにかく、心臓がおかしなことになるから良くないのだ。けれどヘロは、そうは言っても、菫色の綺麗な目から目が反らせないのだからどうしようもない。
ジゼルは、ヘロに触れようとして、空で手を止め、そっと下ろした。少し胸が痛んだ。横から注がれるアンゼルモの視線も痛い。ヘロはアンゼルモにちらと視線をやって、逸らした。
「……わかってる、わかってるって。ここに来た目的忘れてねえから」
「いちゃつくのはいいんだけどさあ、おいらもいるから仲間はずれにはしないでくれよねえ」
アンゼルモは口元をもにょもにょと動かし、にやけを堪えているような顔で言った。ヘロは顔ごと更に背けた。
「その一、先代巡礼者ザウストのご子息に会って、地図のことを聞く。その二、ゲルダに会って話を聞く」
「まあ、その二番目のやつはおいらには関係ないんだけどな? ジゼルにも関係ないよな」
「え、あの……でもゲルダは、私の養母……養父? だから」
「ああ、言ってたね……でもさ、何やったんだか知んないけど、ここに入れられたってことは勝手に会うのも、どうか……なんじゃないの?」
「それだったら、わざわざ俺たちの移動中に、伝えてくるか? 別に急ぎの要件じゃないなら、言う必要ねえだろ。サタンに戻ってからでも良かったはずだ。なのにノイデがそれを教えてきたんだからさ」
ヘロは、列車での移動中、不意に目の前に現れた紫色の魔法陣を思い出した。陣からはノイデの声だけが届いた。曰く、アポロの星に潜住していたゲルダという男が、罪人として牢に入れられたこと。
『そうか……なら無事、竪琴は回収できたんだな』
『ああ。今はアンゼルモに持ってもらってる。俺が両方持ってたら何かと違和感あって、人目につくかとも思ってさ』
『ああ、いいんじゃないか。それで、お前たち、次はどこへ行くんだ』
『惑星ウラノスへ。地図のことだけど……ねえ、これここで言って大丈夫なのかよ』
『何がだ』
『いや、その……大丈夫かな。英雄同士の変な魔法で実は聞かれてたりとか見られてたりとかないよな』
『……はあ、そんなことか。仮にあったとして、あくまでお前は皇室の代わりに俺に目付されているという立場だ。不審な行動は許されない』
『あっそ。まあ、とにかくウラノスの星に、あてがあったからそこに行ってみるってこと。あとさ、あとでアポロにもいったん戻ろうと思ってる。地図の方が優先だけど』
『なぜだ?』
『………ゲルダ――いや、あんたは知ってるよな。アポロに、聞きたいことがあって』
『ああ、あいつなら、今はウラノスの迷宮に投獄された。一緒に言おうと思っていたが、ちょうどよかったな』
『……は? でも、ゲルダは、英雄その人だろ。なのになんで皇室はゲルダを投獄したんだよ』
『いや……英雄だから、じゃないか? でも俺にははっきりとしたことはわからないから』
『皇室にも、生まれ変わりがいるってこと? ……答えないってことは、肯定だよな』
『……まあ、とにかく、そういうことだ。伝えたからな』
随分と、抑揚のない声でノイデはそう言って、通信を切った。
ヘロは、ノイデを信用していいのかどうか、悩み始めていた。レプリタの言葉だけですべてを判断したいわけではなかった。だからノイデとは、きちんと話をしたい。でもその前に、アポロにも聞かなければいけないことがある。
「ジゼル」
ジゼルの耳元で、ヘロは声を潜めた。ジゼルはわずかに跳ねた。
「え……何」
「び、びっくりした……な、なあに」
「あ、いや……あのさ、俺ゲルダに会って聞きたいことがあるんだ。だから協力、頼めないかな。勇者のくせに魔道士に頼りきりで、情けねえとこもあるけど」
「ええ……? そんなことは考えなくていいのに……。私にできることがあるの?」
「うん。むしろ、お前じゃないとできねえんじゃないかって」
ジゼルは首をかしげる。ヘロは、ふう、と小さく息を吐いた後、ジゼルの目をまっすぐに見つめた。紫色の目に、ヘロの姿が映っていた。
「皇室だけは、あの迷宮に魔法か魔術で干渉できるだろ? 他のやつにはできねえのに。ってことはさ……その、九進法ってやつ? それで魔術を組み立ててるんじゃないかって思ったんだよ」
ジゼルは目を見開いた。
「あ……そ、そう、そうだ。それなら、私にもできる」
「うん……お前に転移魔法とか、使えるのかわからねえけど……もしできるなら、俺をこの中にいるゲルダのところに送ってほしい。この迷宮、同じ迷宮に迷い込んだ罪人同士をお互いに探すのも容易じゃないらしいんだ。さすがにどこにいるのかわからねえのに時間を無駄にもできないし」
苦虫を噛み潰したような気持ちでヘロは視線を逸らす。ジゼルは、ずっとヘロを見つめていた。
「ヘロは……なんというか、結構不真面目だよね」
「………悪かったな」
「ふふ。いいよ。私ももう共犯だから」
むしろ、私のせいでヘロはそうなったんだもんね、とジゼルは言って、目を閉じた。
「うん、やってみる。だって、聞きたいことがあるんでしょ?」
「うん」
ヘロも頷いた。
「だからさあ、仲間外れやめてよってば」
アンゼルモが、そうは言いながら少し離れたところから声をかけてくる。空気を読んで自分から距離を開けておいて――それがアンゼルモの気遣いで、アンゼルモが寄る辺なく生きてきたからこその優しい気配りなのだろうと思うと、ヘロは少しだけやるせない気持ちにもなった。
「ごめん。うまく行ったら後で説明するから」
「何それ。まあいいけどさあ。ほら、行こう行こう。この星の長ってやつに会うんだろー?」
「うん」
「……この星の長は、どんな人なんだろうね」
ジゼルが、少し不安そうな声を出して、杖を抱え直した。
その姿に、後ろから抱きしめたい衝動をどうにか抑えて、ヘロは頭を振り、先を歩くアンゼルモを追いかけた。
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