第五章 惑星ウラノス

Interludi

 惑星プルートの中央にそびえる城には、四つの塔がある。そのそれぞれが、プルートの衛星にちなみ、デルフ、アルバ、ユーリア、フィラミスと名付けられていた。デルフの塔は主に会議や執政を行う場である。アルバの塔には広大で美しい室内庭園があり、皇族が生活している。ユーリアは舞踏会場や儀式の間がある。最後のフィラミスの塔は最も背が高く、その使い道は皇室でも最上級の要人しか知らない。古くは、罪を犯した皇帝の正妃の幽閉場所だったとか、大罪を犯した過去の巡礼者の幽閉の場だったとか――そんな真偽のほどはわからない噂がまことしやかに囁かれていた。他の塔の屋根が全て橙色であるのに対し、フィラミスの塔の屋根だけが、空色だった。

 その塔の窓辺に、近頃美しい少女の姿が見えるという。噂は城下町中に流れ始めていた。子供たちが口をそろえて言うのである。金色の髪をしたおひめさまがいたの! あらいやだわ、この子ったら。うちの姫殿下は黒髪に青い目、キリィリエ様だけでしょう? でもいたんだもの! まあ、お前ったら、嘘はいけません!

 焼きたての菓子の入った茶色い袋を片腕に抱え、街を横切っていた眼鏡の男は、そんな親子の会話にふと足を止めた。男は銀色にも似た暗い金髪を持っていた。前髪も含め、髪は短く切りそろえている。目は赤茶色をしている。

 しばらく男は顎に手を当てて考え事をしていたが、再び歩き始めた。その足は皇宮へと運ばれる。勝手知ったる様子で男は門番に軽く手をあげ、その敬礼を流しながら中に入った。よく整頓された自室に菓子の袋を置き、一つを指でつまんでよく咀嚼する。机の上に置いていた沢山の資料の山から一つを取り出し、片腕に抱えて部屋を出る。

 そのまま男は、アルバの塔へと足を運んだ。いくつも並ぶ部屋の扉の中から、一つを選んで立ち止まる。そこは皇太子フォスフォフィラレイアの私室だった。扉を手の甲で打ち鳴らそうとして――男は手を止めた。そのまま、さらに廊下の奥へと進む。

 最奥には、ひと際美しい闘牛の装飾がなされた扉がそびえている。男は今度こそ、扉を控えめに打ち鳴らした。中からは、女性の声がした。男は静かに扉を開け、中に入った。

「ルドルフ。何の用」

 男――ルドルフ・タスラーは深く腰を曲げ、辞宜をした。顔をあげれば、濃い空色の瞳と黒曜石のような艶のある長髪を垂らした姫がいる。

「……さしでがましいとは存じているのですが」

「よい。言え」

「マルスからの客人は、どうもあの窓からたびたび国民に姿を見られているようです。それが意図的か、そうでないのかは定かではありませんが」

「そんなこと。噂は否定的なものばかりか?」

「いえ、今のところは子供にその姿を見られているのみ、大人はあまりその話をまともに受け取っていないように見受けられます。ですが、国民全体にその姿が周知されるのも時間の問題ではないかと。どうされますか」

「……お前、どうしてそれを、次期国王フォスではなく、余に話しに来たの」

「勝手ながら、あの客人と姫殿下が懇意のようにお見受けいたしましたので。そもそもが、彼女をこの地に呼び寄せたのは姫殿下だったかと」

「実際に連れてきたのはフォスよ。……まあ、いいわ。ターシャには余から言っておく。フォスから何か聞かれたら、特に隠す必要はないわ。余が把握しているということは伝えて」

「かしこまりました。……今からフィラミスへ行かれますか?」

「ええ」

「では、人払いをしておきます」

「お前はとても優秀で好きだわ」

「もったいないお言葉」

 ルドルフは、淡々として言った。キリィリエ第一皇女は、薄紫色のパルレドレスの裾を翻し、優雅に回廊を渡っていく。

 フィラミスの塔へ続く、千二百八十段もの石段に足をかけたところで、ルドルフの前で隠すものでもないと、キリィリエは手に持っていた小さな裁縫箱から針を取り出した。金の針には、水色に透けて輝く細い色がかかっている。実はこの繊細な針にも、玻璃の粒が混じっているのだった。

 針を指先でつまみ、空で揺らす。まるで文字をそこに記すかのように。キリィリエがぶつぶつとこもった声で言葉を紡ぐ。するとキリィリエの体を魔法文字の輪が囲んだ。紫色の魔法陣は、発光し、キリィリエをその光で包み込み――ルドルフの前から消滅する。

 ルドルフは、それを確認して、てきぱきと辺りの人払いを始めた。ルドルフは皇室の忠実な犬である。誰よりも気高く、誰よりも華やかで美しい姫の唯一の友。



 微睡を抜ける。この転移魔法はキリィリエがキリィリエである前から何百年も使い続けてきたそれだが、転移中に訪れる微睡と聞こえてくる誰かの声――あるいは、銀河の記憶――にはまだ慣れない。それでも自分に害はないから使い続けている。けれど今日のキリィリエは、転移が済み、目的の場所へとたどり着いた時もぼうっとしていた。なんだか今日の移動中の夢は、やけに鮮明だったのである。なぜ――? あれは、アポロの声に似ていた。でも、まさか。

「……用があるなら早く要件を言って。いつまで突っ立っているつもり?」

 涼やかな声がして、キリィリエははっと顔をあげた。浅黒い肌に金色の髪、藍と緑の瞳を持った少女が、塔の窓枠に腰かけ、光を背にこちらを見ている。影になってその表情は俄によくわからないが、緑の目だけは光って見えた。

「ごめんなさいね、ターシャ。でも、あなたまたそこから外を見ていたの? しばらく外に顔を出さないでと私は頼んだはずだ。たった十四日も待てない?」

「この部屋、まるで独房みたい。何もなくて暇なの」

「そうね、元は独房ですもの。それに、あなた、あながち間違ってもいないでしょう? あなたは実兄を犠牲にして、私についたのだから」

「……私の家族の話は今関係ないよね」

 キリィリエは微笑みを浮かべた。この、英雄マルスの生まれ変わりの少女は、兄を苦手とする風を装っていながら、兄の話題を出されるとこうしてわかりやすく敵意を浮かべてくる。緑の目が色濃くなる。実に扱いやすい、とキリィリエは思う。

「用はそれだけ?」

「もちろん。でも大事な事よ。あなたは惑星マルスの復興のために必要なのだから。前々から皇室がその重要人物を保護していただなんて知られたら体裁が悪いでしょう?」

「……復興なんてどうでもいい。……それより、いったいいつまでかかっているのさ。女神と勇者を野放しにすることで、ウラノスの地図をさっさと回収する算段だったのではないの」

「もうそろそろよ」

 キリィリエは艶美に笑った。

「ノイデ・トラッドは扱いやすいわ。彼らの動向を私に詳細に伝えてくれるの。次はウラノスの星へ向かうようね。まさか……とは思うけれど、灯台下暗しだったわ」

「それで、うまく行きそうなの? というか、君があの地図にそんなにも執着する意味が分からないけれど。だってあれはウラノスと女神にしか扱えない。あったところで……生まれ変わりの私達には何の意味もないだろうに」

「あら、あなたなら分かってくれると思ったのに」

 ふふ、と声を漏らして、キリィリエは目を伏せ、髪の先を己の白くて細い指にくるくると巻き付けた。

「あなたがガイアの生まれ変わりに会いたくて、私と組んだのと一緒。私はねえ、もう【プルート】に翻弄されるのにうんざり。さっさと諦められるように、ウラノスがどれほどアルテミスを愛していたのか、この眼で見て傷つきたいだけ」

「……お互い難儀だね。私達、ただの器なのに」

「そうねえ。でも、人間なんて感情も知識も思考もすべて記憶の集合体なのだから、英雄の記憶がある限り私たちは英雄でしかないのよ。たとえ他の誰かを愛したくてもね」

「……君が、愛のために全部終わらせたがってるだなんて意外。プルートほどウラノスに執着してた子なんていなかったと思うけど」

「同じ言葉をそっくり返すわ。私のそれは。でもあなたはガイアに抱かれた記憶があるのだから、その子を腕に抱いた記憶だってあるのだから、もっとしんどいでしょう? ふふ、しかも本当に愛したい人は血がつながっていて、英雄の生まれ変わりだなんてどんな業だろう。あなたきっと、女神に呪われてるのね」

「うるさい」

 くすくすと笑い続けるキリィリエを、ターシャは睨みつけた。

「あと……での言葉を急に持ち出すのはやめて。この私はその言葉になじみがないの。記憶の底から意味を掘り起こすのに時間がかかる」

「あらごめんなさいね。私なんか何度も生まれ変わってるものだから、むしろこの星々の言葉のほうがややこしいのよ。生まれ変わるたびにプルートの記憶を反芻するんですもの。馬鹿でも空で言えるほど覚えちゃう」

「何が楽しいんだか……」

 笑みを浮かべ続けるキリィリエを、ターシャは不快そうに見下ろす。

「とにかく……いい加減にしないと、」

 キリィリエは、すっとターシャと間合いを詰め、優しくその手を取り、ゆっくりとターシャを床に下した。そして、ふわりと抱きしめる。パルレドレスの裾がターシャの体を包み込んだ。

「……殺すわよ? ヘルメスに会う前に」

 ターシャの首に、ぷつりと鮮烈な痛みが走った。ターシャは目を閉じて歯を食いしばった。キリィリエはターシャからそっと離れる。花の香水の残り香が、ターシャを気持ち悪い気分にさせた。

 キリィリエは、先が赤く染まった針を、つまらなさそうに見ると、玻璃の糸を引き抜いて床に捨てた。

 ターシャの裸足の足元に、また一つ、針が転がって趾先にぶつかる。ターシャの足元には、数え切れないほどの針が散らばっていた。どれもこれも、乾いた血の染みがついている。

「ヘルメスに会いたいんじゃない」

「でも彼はヘルメスだからあなたに執着してるんじゃない? だから信じられないと私に泣きついたのは誰?」

「あれは……っ、君がわざわざ、頼んでもないのに、筆が巡礼者を選んだようだと私に知らせてきたから……!」

「随分な言い草。でも、教えてもらってよかったでしょう?」

 キリィリエは首をかしげる。ターシャは俯いて、歯を食いしばった。

「あなたは知りたいだろうと思ったから、教えてあげたのに。ひとりぼっちのおばかさん」

 キリィリエは、新しく取り出した針に糸を通した。鼻歌を歌いながら、陣を組み立てる。

「とにかく、次はないからね? 次、また報告があったら――」

 キリィリエは、振り返って妖艶に笑った。

「兄妹仲良く……いえ、別々の場所で殺してあげる。私はやるわよ? 誰の生まれ変わりか――わかってるでしょ?」

 陣に足を踏み入れ、キリィリエは再び紫の光に包まれた。ターシャがしゃがみ込んで、落ちた針を拾い上げているのが見えた。いっそ針山に閉じ込めた方がましだったかしらとキリィリエは考える。どうにも、勝ち気ぶってはいるがこのターシャという少女は、前世の心根から逃れられていない。気弱で、流されやすくて、優柔不断で、自分だけを責めて何かに悔いようとする。脅されても反抗的な態度を取ろうとして、取り切れていない。詰めが甘い。キリィリエにはそれが苛立たしく、同時に愛しくてならない。

 微睡に包まれる。今度はアポロの声も聞こえなかった。やっぱり偶然だったのだろうか? それとも誰か――ヘルメスかサタン辺り、英雄の生まれ変わりが同じ魔法でも使っただろうか。どうせなら、アフロディテの声を聞きたかったとキリィリエは思って――ふ、と自嘲した。キリィリエこそ、前世に囚われている。性格も性質も、キリィリエだけのものは何一つない。何度も転生したそれぞれの過去の記憶も積み重なって、どれが本物かわからない。ただ一つ鮮明で信じられるものは自分がプルートであるということだけなのだった。

 ……それでも、キリィリエはようやく見つけたから。

 やっとキリィリエだけのものを見つけたのだ。それは愛というもので、プルートを狂わせた恋というもので、業から逃れられない自分に苦笑がこみあげてくるけれど、愛なんて不確かで形にすらできないものだけれど。

 それでも、その人だけを想ってみたいから。

 キリィリエは、すべてを早く終わらせたいのである。

 微睡から覚める。赤い絨毯の敷かれた黄金の間。ユーリアの塔の最奥にある、ただ一つの台座のほかに何もない広間。

 台座の上に立てかけられたものを、リューリシエシャンデリアの明かりが照らしている。血のように赤い絨毯に、血よりもずっと優しい赤の光を落としている。

 それは、したガイアの筆だった。夕焼け色の繭の中で、今は眠っている。意味することは、筆がようやく子供を選んだということ。ガイアが死んでから、ただの一度もその主を選ばなかった筆が、プルートに反旗を翻している。――その子もまとめて消せば、やっと英雄の業は終わる。

 キリィリエが生まれて、物心がついたころ、同時にプルートとしての記憶を取り戻したころ、筆は繭化した。七十一年毎の周期と無関係に、実に唐突に。

 だから、キリィリエは、きっと筆に選ばれた子供がその瞬間この星々に生まれ落ちたのだと信じている。きっとガイア。ずっと、待っていた。ただ一人の共犯者を待っていた。もしかしたら、私のことなんて気にかけてもいないかもしれないけれど。

「……待ってるよ、ガイア」

 キリィリエは、そっと繭に触れた。

「私、何やってるんだろうね……あは、は」






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