紅の瀬

歌峰由子

第1話



『龍淵に色ながら散るくれなゐの、沈む水面に鹿の音ぞ響く』


 詠み人知らずとなっているその歌を、小百合は何故か気に入っている。


 神代よりこの地に門を構える名家の娘として生まれた小百合は、和歌、琴、茶道や華道、仕舞など教育を受けて育った。


 格別にどれを好んだわけでもない。和歌の世界に愛着があるわけでもないが、なぜかこの歌だけはくっきりと脳裏に画を描けた。有名な歌集にあった歌でもなければ、詠まれた年代も不明だ。歌の巧拙で言えば、巧い歌ではないのだろう。


「不思議ですこと。まさかここで、その景色に出会えようとは思いませんでした」


 京小紋の袖をついとつまみ、小百合はたおやかな白い指先で石橋の欄干を撫ぜた。


 橋の左右には見事な楓の樹が、枝先から葉を紅に染めて、はらり、はらりと宙に舞わせている。木々の足元をさやさやと流れるのは、どこまでも深く蒼く澄んだ清流だ。人里離れた深山幽谷の只中に、ひっそりと建つ屋敷の傍らに清流は流れていた。


 緋色に燃えるような山々に囲まれ、瀬に寄り添うように建つ屋敷の、今の主が小百合に歩み寄って来た。


「確かに、まるでここで詠んだような歌ですね。私もこの風景は気に入っています」


 小百合に並び、ゆったりと足元の蒼淵を見下ろすのは小百合にとっては義理の息子――というのも相応しくないであろうか、夫が外でこしらえた、いわば妾腹の青年だ。立場上、今まで深く関わることもなかった相手の屋敷に、小百合は訪ねて来ている。


「鹿笛も聴こえますか」


 奥の葉の緑から黄金色、鮮やかな紅と色を移ろわせる楓の大樹を見上げれば、その向こうには深い深い山々が壁を作っている。夜に啼く牡鹿の声は、さぞや哀切に響くだろう。


「ええ、彼らにとっては恋の季節ですからね」


 秋の夜長に独り聴く鹿の音は、孤独と悲哀の象徴だ。しかしそんな象意など知らぬかのように、隣の青年はのんびりと笑っていた。才知に優れ、我が子である嫡子よりも教養深いと囁かれている彼が、知らぬわけなどないのに。


「……貴方はこれで満足しておられると?」


 確かに美しい場所だ。だが、ここは実質、彼を家から隔離するための幽閉場所だ。こんな何も無い場所に屋敷を与えられ、ほんの数人の家人と暮らすことは、彼の持つ才知の全てを腐らせるということに他ならない。


「さあ、満足かと問われれば、迷いますが……この美しい場所は純粋に好きですよ」


 うっとりと目を細める青年は、秋水に満たされた蒼い蒼い淵を眺めている。楓からこぼれた紅葉が一枚、瀬の流れに飲まれて淵へと吸い込まれていった。


 まるで、沈む紅葉をうらやむように、目を細めて青年が呟く。


 ――浮世の水面もまるで紅の瀬、地獄絵図の只中でしょう。ならば、清らかな淵に沈むのも悪くないですよ。




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短歌は自分でひねりました…ところ、短歌作るだけで三十分使ったためこの短さ。龍淵と鹿の音が秋の季語です。雰囲気モノさーせん。和風縛り難しい。

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紅の瀬 歌峰由子 @althlod

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