しあわせに暮らしました。


「――サフィニア」

 明日には式だというときに、サフィニアは庭でダニーに呼び止められた。近頃は何かと忙しくてあまり彼と話す機会がなかったのだ。

「まぁ、ダニー。なんだか久しぶりね」

「……サフィニアは忙しそうだから。あのさ、これ」

 ダニーがもごもごと口籠もりながら、短剣を差し出した。シンプルな、それでいてサフィニアの手にも馴染むほどの大きさのものだ。

「これは?」

「何か贈り物するって、約束しただろ」

 短剣を受け取ってサフィニアが首を傾げると、ダニーは憮然として唇を尖らせた。短剣の柄は模様が彫られている。

「なにかひとつ、守るものを。どんな悪意からもサフィニアを守りますように」

 短剣を握るサフィニアの手に自分の手をそっと重ねて、ダニーは祈るように告げた。

「たとえ伯爵が守ってくれなくても、これで最低限は身を守れるだろ」

 ふん、とダニーがぼそりと呟いた声はサフィニアの耳には届かなかった。

 ありがとう、とサフィニアは素直にお礼を言って大事そうに短剣を握りしめる。これくらいの大きさならドレスの下に隠して式のときにも身につけられるだろう。

 サフィニアは贈り物のことなどすっかり忘れていたのだが、ダニーは覚えていてくれたのだ。昔からダニーはサフィニアよりしっかりしていて、何度も助けられている。

「……今のは?」

 屋敷に入った途端に伯爵に声をかけられて、サフィニアは目を丸くした。

「今の、とは?」

「先ほどの少年は」

 伯爵は今しがたサフィニアが入ってきたばかりの玄関を見つめて付け加えた。その目線の先を追うようにサフィニアも先ほどのことを思い出して「ああ」と頷いた。

「ダニーのことですか。彼はうちの使用人で……。お守りをもらったんです」

「お守り?」

 訝しげに伯爵はサフィニアの持つ短剣を見下ろした。確かにお守りと言えなくもないが、サフィニアのような少女が持つにはいささか物騒だ。

「ええ。旦那様は、サムシングフォーはご存知ですか?」

 サフィニアの問いに伯爵は「もちろん」と笑った。

「呪いの類いは専門分野だけど? それは新しくも古くも青くもないね。彼に借りるのもおかしいし」

「ふふ、皆心配性で。私は呪われているから四つでは足りないんですって」

 他にもあるんですよ、とサフィニアはくすくすと笑った。説明不足ではあるが伯爵はそれだけでおおよそのことを理解できた。

「なるほど? のろいに対してまじないでどうにかしようと……そこまで考えてなさそうだけど。確かに効果はあるかもね。本来どちらも同じものだ」

 望みの方向性でそれは呪いにもなる。正か負か。それだけの違いだ。人にとっては祈りでも、他の人間には呪いになるかもしれない。

「あら、呪いがとけてしまったら旦那様は困ってしまうのでは?」

「……なぜ?」

 サフィニアが不思議そうに首を傾げるのに、伯爵は張り付いたままの笑顔で問い返した。

「呪いの研究のために私と結婚なさるのでは?」

「……さすがにそこまで人生を研究に捧げたつもりはないな」

 苦笑まじりのその言葉に、サフィニアは何度も瞬きを繰り返した。あれ、でも。それではおかしい。

「それは、どういう――」

「そうだな、それなら私からも君にまじないをあげようか」

 伯爵は流れるような仕草で、サフィニアの短剣を持っていない左手を恭しく持ち上げた。その細い指先にかすかな口づけを落とす。

「なにかひとつ、変わったものを」

 変わったものをプレゼントするなんて、本当に伯爵は噂通りの変わり者だ、と思ったところでサフィニアはすぐに答えに行き着いた。

「まぁ、それは貴方のことでしょう? 旦那様」

 伯爵から贈られる、変わったもの。変わったものといえばメイトランド伯爵その人以上に変わったものなどあるだろうか。

「間違ってはいないだろう? 私は君のものに。君は私のものに。結婚とはそういうものだ」

 告げるが早いか行動するのが早いか。伯爵はそう言いながらぱくりとサフィニアの人差し指に甘く噛み付いた。驚いたサフィニアが手を引っ込めると、素直に伯爵は解放する。

 手を食べるなんて、伯爵は本当に変わっている。どくどくとこれまでになく驚く心臓を抑えるように胸で短剣を抱き込んで、サフィニアは言葉を探した。けれど頭がうまく回らなくて何も言えない。

 伯爵は魔法使いなんだろうか? 今なにか、サフィニアに魔法でもかけたのだろうか?

「では奥方殿、また」

 くすくすと楽しげに笑いながら伯爵はさっと部屋へと戻っていく。未だに落ち着かない心臓にサフィニアは困惑しながら、ほぅと長く息を吐き出した。

 もしかしたら呪いがとけないまま、眠りこけてしまうほうが安全かもしれない。このまま伯爵と一緒に暮らすようなったらサフィニアの心臓はいつか壊れてしまいそうだ。





 そのまま部屋に戻って少し経った頃、サフィニアが部屋でぼんやりとしていると扉を叩く音がした。

「は、はい?」

「お嬢様、今よろしいですか?」

 それは、ノーマの声だった。突然の訪問者に驚いていたサフィニアもほっとしながらどうぞ、と答える。

「失礼します。以前約束していたものを持ってきたんですけど……どうしたんですか?」

 部屋に入ってきたノーマがサフィニアの顔を見るなり眉を寄せた。問いかけられたサフィニアは訳が分からずに目を丸くする。

「何が?」

「顔が赤いですけど……熱でもあります?」

 そっと歩み寄ってきたノーマはサフィニアの頬や額に触れてみるが、熱はない。

「ちょ、ちょっと火照っただけだと思うの。それでノーマの用件は……サムシングフォーの?」

「四つじゃありませんけどね。そうです」

 ノーマは手に持っていた小さな包みをサフィニアの手のひらにおいた。青い小袋はサフィニアの瞳の色と同じだ。

「これは?」

「お嬢様の名前と同じ、サフィニアの花の種です」

 袋の中に入っていますよ、とノーマは微笑んで、サフィニアの両手でその袋を包み込んだ。サフィニアの手に自分の手を重ね、そして額に押し当てる。

「なにかひとつ、芽吹くものを。あなたのこれからはじまる愛が、確かに花開きますように」

 まるでその仕草そのものが、愛を誓うようだった。

 サフィニアはいつだって愛されている。両親に、兄姉に、友人に、屋敷の使用人たちに。それの溢れるほどの愛は、サフィニアを守り続けている。

「……ありがとう、ノーマ」

 噛みしめるようにサフィニアが告げると、ノーマは嬉しそうに微笑む。

「ちゃんと、お式で持っていてくださいね」

「もちろんよ。全部ちゃんと身につけておくわ」


 ――時々、サフィニアは思うのだ。

 魔女は、愛し方を知らないサフィニアを呪ったのではなく、サフィニアが誰も愛せないように呪いをかけたのではないかと。

 そうでもなければ、なぜサフィニアはこんなにも何かを愛せないのだろう。愛されているのに。その分だけ、愛し返したいのに。


 ぼんやりとした顔のサフィニアは、そんな娘を心配する両親のあたふたした様子にも気づかずに夕飯を終えた。とぼとぼと部屋に戻るサフィニアの背中は迷子のように心細げだ。窓の外に見える月すらサフィニアの心を慰めてはくれない。

「浮かない顔だな、奥方殿」

 いつの間にいたのだろう。サフィニアの隣で伯爵はサフィニアを見下ろしていた。

「……リグリー先生」

 サフィニアが伯爵をそう呼んだのは無意識だった。

 伯爵は何も言わず、ただ紫の瞳でサフィニアを見つめる。その目を見上げながら、サフィニアは「どうして」と独り言のように呟いた。

「……私は、どうしてこんなに愛し方がわからないんでしょう。こんなにも愛されて、それは確かにわかるのに、それと同じだけ返すことができないなんて」

 欠陥品のようだわ、とサフィニアは目を落とした。

 愛されている。こんなにも、愛されているのに、同じように愛することができない。

「……愛を返すと考えている時点で、君は最初の一歩を踏み間違えている。愛は愛されたから返すものではない。いとおしい存在へ与えるものだ。手紙のように送って送り返してなんてやり取りをするものじゃないよ」

 伯爵はサフィニアの肩に自分の上着をかける。屋敷の中とはいえ夜の廊下は冷える。上着から感じるぬくもりに、サフィニアは自分の身体が冷えていたのだと気づいた。

「君の場合、いつだって与えられ続けてきたから自分から与える余裕がなかっただけだろう。愛に報いたいと思う君に欠けたものなどひとつもない」

 大きな手がサフィニアの頬を撫でる。くすぐったくてあたたかくて、サフィニアはほっと息を吐き出した。

「今日はもうおやすみ。明日花嫁が浮かない顔をしていると私が何かやったんじゃないかと疑われてしまいそうだ」

「リグリー先生は紳士です」

 きっぱりとサフィニアが言い切ると、伯爵は楽しげに首を傾けた。

「へぇ? ではメイトランド伯爵は?」

「……旦那様は、少し意地悪です」

「よくわかっていらっしゃる。ほら、部屋まで送ろう」

 くすりと笑って伯爵が差し出してきた手にサフィニアは自分の手を重ねた。まるで明日の予行練習のようだ。

 触れているところがあたたかい。じわりじわりと伝わってくる熱は、サフィニアのものか伯爵のものか。

「……旦那様。私の呪いがとけなければ、どうしますか?」

 なぜそんなことを聞いたのか自分でもわからなかった。けれどサフィニアは気づけば口を開いていた。

「どうもこうも」

 伯爵は動じた様子もない。その瞳はただ前を見ている。まっすぐすぎるくらいのその目を、サフィニアは魅入られるように見つめた。

「何年何十年かけても、呪いをとく術を見つけるよ」

 私は呪いの専門家だからね、と笑う。

 呪いなんてとけなくても――そう思っていたはずなのに、伯爵の言葉が頼もしいとサフィニアは微笑む。

「安心しなさい。そんなことにはならないだろうから」

「まぁ、どうして?」

「さて、それは明日のお楽しみかな」

 伯爵はいつもの意地悪そうな笑みを浮かべて、サフィニアの額にキスをする。気づけばもうサフィニアの自室の前まで来ていた。

「おやすみ、奥方殿」



 真っ白な新しいウェディングドレス。ドレスを飾るレースは触れたら壊れてしまいそうなほどに繊細で、胸元の刺繍は金と銀の糸で模様を描いている。サフィニアの亜麻色の髪を覆うベールは母から受け継いだものであり、純白の手袋をした細い手首にはシルバーとサファイアで出来たブレスレットがある。絹のハンカチは姉から借りたもので、ノーマからもらったサフィニアの種と一緒にこっそりと忍ばせている。ドレスの下には、物騒かもしれないがダニーからもらった短剣もある。耳元は蛍石で出来たイヤリングが時折思い出したようにキラキラと輝いていた。

 祝福に包まれて、サフィニアは今日という日を迎えた。

 サフィニアのうつくしい花嫁姿に父も母も涙ぐみ、兄にいたってはやはり嫁なんかにいかなくてもと言い出して姉に叱られていた。使用人の皆も口々に綺麗ですよお嬢様、と微笑んでいる。

 もう間も無く、やってきた神父の前で伯爵とともに愛を誓う。未だサフィニアは愛という感情を掴めずにいるのに。

 伯爵はうつくしかった。この人をどうして変人なんて言えるだろうと思うほどにうつくしい花婿だった。鈍い銀の髪は太陽の下でやさしく輝いていて、地上に星が落ちてきたみたいだとサフィニアは思った。紫水晶アメジストのような瞳に見つめられると、どこかそわそわして落ち着かなくなる。

「さぁ、花嫁殿。さいごにひとつ、あなたに変わったものを」

 くすりと笑いながら伯爵は手を差し出す。思わずサフィニアも笑ってしまって、その手を取った。

「旦那様と一緒にいたら、きっと毎日が楽しくて仕方ないのでしょうね」

 だって、伯爵がやってきてからずっとサフィニアは楽しくて仕方ないのだ。退屈なんて無縁で、時間がいくらあっても足りない。

「明日からそうなる」

「まぁ、それは楽しみです」

 私は眠りこけているかもしれませんけれど、という言葉は飲み込んだ。この場に、今日という日に、それは相応しくない。

「サフィニア」

 耳をくすぐるような伯爵の声に、サフィニアは息を飲んだ。

「君が私の花嫁でうれしい」

 まるで少年のように笑って、伯爵は告げた。途端に落ち着いていたはずのサフィニアそわそわがまた湧き上がる。だって、旦那様が突然そんなこと言うから。心臓がダンスをした後のようにどくどくしている。触れ合う手が熱くて、胸が苦しくて、サフィニアははく、と唇を震わせた。

 ――うれしい。

 サフィニアだってうれしい。

 結婚する相手が伯爵で。伯爵が、リグリー先生で。うれしい、すごくうれしい。

 ああ、呪いなんてなければよかった。

 ああ、でも呪いがなければ出会えなかった。

 死が二人をわかつその日まで、伯爵と一緒に笑いあえたらいいのに。

 こんなこと思うのは初めてだった。


「……どうしましょう、旦那様」


 そこでサフィニアの頭にはひとつの答えが落ちてきた。

「どうした?」

 もう神父のもとへ行かなければというときに、サフィニアが突然立ち止まるので伯爵は不思議そうに見下ろした。

 サフィニアはうるんだ瞳で伯爵を見上げる。

「私、あなたのことがいとしくてしかたないみたいです」

 いとしくて、こいしくて――言葉はどんなものでもいい。

 じわりじわりと胸に染み込んでくる熱は、これは、もしかすると愛だろうか。

「……私、あなたのことを愛しているみたい」

 しっかりと言葉にしてみると、驚くほどあっさりとサフィニアの胸に落ちていく。すとん、とまるでそれはいつもそこにあったかのように馴染んでいた。

「それは良かった。明日の朝にいつまでも目覚めない花嫁の姿に嘆くことにはならずにすみそうだ」

 ふ、と笑う伯爵に、サフィニアの緊張もほどけていく。でも、でも、とサフィニアの不安は完璧には消え去ることはできなかった。

「でも、こんな、こんな簡単なことで呪いはとけるものです?」

「それなら心配はいらない」

 困惑するサフィニアに、伯爵は自信ありげに笑った。


「姫君にかけられた呪いは、愛する者の口づけでとけると決まっている」


 ――誓いのキスのろいがとけるまで、あと少し。



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