王子様と出会って、
ダリアの屋敷から自分の屋敷へと戻り、薄暗くなり始めた夕暮れ時の庭を歩く。ダリアからもらった蛍石は暗がりに反応してぼんやりと光を帯びていた。
「まぁお嬢様、それは?」
道具の片付けをしていたらしいノーマがサフィニアの持つ蛍石に気づいて問いかけてくる。
「ダリアからいただいたの。サムシングフォーにかけて、暗闇でも光を失わないように輝くものをって」
「ああ、ダリア様が……」
納得した顔でノーマが頷いた。じぃっと蛍石を見下ろして、やがてノーマはおずおずと口を開いた。
「……それならお嬢様、私からも何かひとつ、差し上げても良いでしょうか」
「まぁ、ノーマも? もちろんよ、嬉しいわ」
サフィニアが嬉しそうに笑うと、ノーマもほっと胸を撫で下ろすように微笑み返した。サフィニアはあまり気にしないが、たかが使用人とこうして親しく話すことすら、普通の令嬢ではありえない。呪われているせいだろうか、それともサフィニアのもともとの気質なのだろうか――おそらく後者なのだと誰もが思っている。だからこそ、サフィニアは家族にも屋敷の使用人たちにも愛されていた。
「お式までに用意しますから、必ずもらってくださいね」
念を押すノーマに、サフィニアはもう一度「もちろんよ」と頷いた。メイトランド伯爵のもとへ嫁げば、ノーマにも会えなくなる。侍女ならば連れていくこともできただろうが、ノーマは庭師だ――しかも見習いの。とても連れてはいけない。
「なんの話?」
不思議そうに首を傾げながらダニーが二人に話しかけてきた。あちこち服が土で汚れているのでノーマの手伝いをさせられていたのだろう。
「ダニー……立ち聞きなんて紳士的じゃないわ」
ノーマがじとりとダニーを睨みつけるけれど、そんなものはいつものことだとダニーは素知らぬ顔をしている。
「ノーマがね、私の結婚式のときに贈り物をしてくれるって話をしていたの」
一見険悪そうなノーマとダニーのやりとりはサフィニアにとっても日常のことだった。サフィニアはダリアからもらったイヤリングを見せてダニーに説明する。
「贈り物?」
「そう、サムシングフォーにかけて。私は呪われているから、四つじゃ足りないでしょうってダリアが始めたんだけど」
皆は心配性ね、とサフィニアは微苦笑するけれど、ダリアの意見にはダニーも賛成だった。サフィニアが結婚することは嫌だけれど、不幸になるのはもっと嫌だ。呪いがとけないままなのも、もちろん嫌だった。
「なら、俺も贈ってもいい?」
「ちょっと、変な物贈るつもりじゃないでしょうね」
あんた何を言い出すの、とノーマは眉を顰める。幼い頃からの付き合いだ、ダニーの趣味なんて当然熟知している。少なくともご令嬢にプレゼントできるようなものを彼が選べるとノーマには思えなかった。
「変な物ってなんだよ。こういうのは多い方が効き目ありそうじゃん」
「そりゃそうだけど……お嬢様にお見せする前にあたしが確認するから」
なんでだよ、といつものように口論する二人を微笑ましく眺めながら、サフィニアは東の空に浮かび始めた星を見上げた。空は赤から青へ、青から藍へ、闇の色に染められていく。
「お嬢様、大事な婚礼を前に風邪でも召されたらたいへんです。早く屋敷に入りましょう」
すっかり冷たい夜風が吹くようになっていたことに気づいたノーマがサフィニアを急かした。空を見上げたままサフィニアは、そうね、と相変わらずぼんやりしたまま答える。ノーマはこんなときいつも思うのだ。お嬢様は、まるであたしたちとは違う世界を見ているようだ、と。重なり合っているけれど、違う世界。だから、お嬢様があたしたちを愛することはないのだ、と。
屋敷に入ると家令がサフィニアに一通の手紙を差し出した。
「本日お嬢様宛てに届いておりましたよ」
「まぁ、リグリー先生からだわ」
素っ気ない封筒に、少し癖のある字は見慣れたものである。招待状などと違って厚みがあるのは、便箋を何枚も使っているからだ。
嬉しそうに手紙を受け取ったサフィニアに、ノーマは顔を曇らせる。
「お嬢様、ご婚約者がいる身で男性と手紙のやりとりをするって……大丈夫なんですか?」
「大丈夫もなにも、リグリー先生とは呪いのことしかやり取りはないのよ?」
伯爵に邪推されるようなことは一切ない。男女のあまやかなものなのではないのだから、何を心配する必要があるというのか。
「それはもちろん、まさか学者なんかと恋のやりとりをしていらっしゃるとは思いませんけども、殿方によっては不快に感じる方もおられますし」
「……そう、そう……かしら」
届いたばかりの手紙を見下ろして、サフィニアはどこか寂しげに呟いた。
「結婚後も続けるわけにはいかないのですから、もうおやめになったほうがよいと思いますよ」
結婚後。続けるも何も、呪いがとけなければサフィニアは永遠に夢の中だ。呪いがとければもちろん、リグリーとのやりとりは必要なくなる。
「……そうね」
――御機嫌よう、小さな姫君。君の呪いの具合はいかがかな?
そうやって始まる手紙を、心待ちにしていたのだと今更ながらに気がついた。呪いを憐れむ人は多けれど、それを気にせずむしろ冗談めかして話してくれる人はいなかったのだ。だって、サフィニアは愛されていたから。愛してくれる人々は皆、呪いを憂いていた。
ウェディングドレスには純白のレースをふんだんに使い、金糸と銀糸で緻密な刺繍が施された。母から受け継いだウェディングベールは今もなお繊細な形を保ったまま、新たな花嫁を飾るためにどこか誇らしげである。
ほぼ完成したドレスはうつくしかった。この数ヶ月で準備は驚くほど順調に進んでいた。
「お嬢様!」
慌てた様子の侍女が駆け込んできたのは、そんなときである。
「メイトランド伯爵が、当家にいらっしゃるそうです……!」
舞い込んできた突然の知らせに、ノースモア家の人々は慌てふためいた。ただひとり、サフィニアを除いて。
「まぁ、どうして? 式はまだ先のはずだけれど」
変人伯爵の考えることなど、常識的なノースモアの人間にわかるはずもない。伯爵は既に出立していて、明後日には到着するという。
「こちらに向かっているのだからしょうがない。急いで準備を!」
サフィニアの父は疲れた表情でてきぱきと指示を出し始め、母も料理人とあれこれと打ち合わせをしている。のんびりとした屋敷は一瞬にして騒がしくなった。サフィニアの婚約が決まったとき以上の騒ぎだ。
「まったく! やっぱり変人はどうやっても変人ですね! こんなに突然訪問するなんて!」
ノーマが声高に文句を言いながら庭の剪定をしている。サフィニアはその姿を見ながらそこは切っていいところなのかしら、このままだと木が素っ裸になってしまわないかしら、とどこかズレた心配をしていた。
「確かに突然で驚いたけれど、婚約期間は短いし、結婚したら私は眠りこけてしまうわけだし、少しでも交流を持とうと考えてくださるのは当然かと思うけれど……」
少しでも未来の妻となるサフィニアを知ろうとしてくれているのなら、それはそれで紳士的だと言えなくはないと思う。この際手段は置いておくとして。
「呪いがとけないことを前提にしないでください!」
剪定鋏を握ったままノーマが振り返る。危ないわよ、とサフィニアは平然としながら注意した。
「だって……ねぇ、ノーマ。真実の愛って一カ月や二カ月程度で見つかるものなのかしら?」
「そ、それは……」
サフィニアの問いに、ノーマは口籠もりやがて目を落とした。
愛されることは知れども、愛することは知らない。そんなサフィニアが真実の愛を見つけるのに、一、二カ月程度では足りないように思える。サフィニアは冷静にそのことに気づいていた。
「……確かに、難しいかもしれません。呪いはとけないかもしれません。けれどお嬢様。どうか、最後の一瞬まで諦めないでください」
どうか、お願いです。ノーマの一生のお願いですから。
今にも泣き出しそうなノーマに懇願され、サフィニアは困ったように笑った。その顔は諦念を滲ませている。
だって、ねぇ。
……呪いは、必ずとかなければならないの?
変人と有名なメイトランド伯爵こと、エルヴィス・メイトランドがやってきたのは澄んだ青空のうつくしい日のことであった。サフィニアは空を飛ぶ小鳥に見惚れて窓から身を乗り出していたところで、かの伯爵を乗せた馬車に気づいたのだ。
馬車から降りたった青年は、二十五、六歳といったところだろうか。鈍い銀の髪がまるで冬の曇り空のようだとサフィニアは思った。
夜会で変な柄の服を着ていただとか、珍妙な髪型をしていただとか、とにかく奇怪な噂の絶えない人物ではあるが、そんな前情報を抜きしてもごくごく普通の青年に見えた。いったいどうしてそんな噂がたったのか不思議なほどである。
何と言っても一応は自分の夫となる人だ。屋敷の二階の窓からだから気づくことはあるまい、とついつい穴が開くほど伯爵を凝視していたからだろう。その、伯爵の紫の目がサフィニアをとらえた。
「御機嫌よう、レディ・サフィニア。あまり窓から身を乗り出さないほうがいい。たとえ君が羽根のように軽かったとしても、君が落ちてきたら私には受け止められないだろうからね」
それは声を張り上げたわけでもないのに、しっかりと響く不思議な声だった。サフィニアはしっかり見られていたのだということと、自分がサフィニアであると気づかれていたことに驚いた。今日の空と同じく澄んだ青い目をまあるくして「まぁ」と呟く。
「御機嫌よう、メイトランド伯爵。よく私がサフィニアだとお分かりになりましたね?」
「簡単なことだろう。君には姉君がいるが既に嫁いでいる。ノースモア家でそのような貴婦人らしいドレスを着た令嬢となればサフィニア・ノースモアしかありえない。……はじめまして? 婚約者どの」
なるほど伯爵は頭が良いらしい。それに随分と口も達者だ。よくもまぁそんなにすらすらと言葉が浮かぶものだ。
「そんなに穴が開くほど見つめなくても私は火を吹いたりしないし空を飛ぶこともないが?」
「あら、申し訳ありません。想像よりもずっと素敵な方だったので驚いてしまって」
正直に答えたサフィニアに、伯爵は笑った。
「なるほど、私の未来の奥方はお世辞がうまいらしい」
まぁ、とサフィニアが目を丸くする。お世辞だなんて。
心外だ、サフィニアはお世辞なんて言わないし素直に思ったことしか口にしない。そう反論しようとしたところで、背後の扉のほうから「お嬢様!?」と慌てた侍女の声がした。
「あああ危のうございます! 早く窓から離れてくださいませ!」
侍女からすればサフィニアが窓から随分と大胆に身を乗り出しているように見えただろう。想像力豊かな者ならば、呪いを嘆いたか急な結婚を憂いて身投げしようとしているようにも見えたかもしれない。
「あら、大丈夫よ落っこちたりしないわ」
「そんな暢気になさらずに!」
ぐいぐいと侍女に腕を引かれてサフィニアは仕方なく窓から離れる。最後に伯爵を見下ろすと、彼は意味深な笑みを浮かべたままこちらを見上げていた。
何故か伯爵はそのままサフィニアの住む屋敷に滞在することとなった。
伯爵自身は近くに友人の屋敷があるのでそちらに――と言っていたのだが、お行儀よくしていた伯爵にサフィニアの父はすっかり気を許してしまって、いやいやぜひうちに、と話をまとめてしまったからである。父はいったいどんな化け物がやってくると思っていたのだろうか。やって来たのが予想より遥かにまともな青年だったから警戒心が吹き飛んでしまったらしい。
「君は見る限り健康体で、呪いにかかっているとはとても思えないな」
サフィニアのために日当たりのいい場所に置かれた長椅子に腰かけながらサフィニアが読書を堪能していると、いつの間にやってきたのだろう――伯爵がまじまじとサフィニアを観察していた。
ふわふわとした亜麻色の髪。澄んだ青空のような瞳。ふっくらとした頬は薄紅色で、唇は摘みたての薔薇のように瑞々しい。細すぎることもなく、かといって太りすぎているわけではない、少女らしい身体つきはとても不健康には見えない。
「それは当然かと思いますわ。呪いにかかっている本人も、自覚はないんですもの」
三歳で魔女に呪われて、まもなく十七歳になるという今の今まで、サフィニアは呪われている、という自覚はない。
「呪いはとけそうかね?」
「いいえ、さっぱり。申し訳ありませんけど」
「君はこんなに愛されているのに。……愛され過ぎているからこそ、呪われたわけだが」
伯爵は苦笑して、サフィニアの向かいに腰を下ろした。鈍い銀の髪は日の下でわずかにきらきらと輝いていて綺麗だ、とサフィニアは思う。
「……伯爵は、どなたかを愛したことはございますの?」
まるで愛とは何か、と語り出しそうな伯爵にサフィニアは問いかけた。そんなサフィニアににっこりと伯爵は微笑んだ。
「伯爵という呼び方はいただけないな。仮にも私と君は婚約していて、まもなく夫婦になるというのに」
「では、なんとお呼びすれば?」
首を傾げたサフィニアの真似をするように、伯爵も首を傾けた。まるで鏡のようだった。
「いっそ旦那様でもいい。少し気が早いが、君の呪いがとけなければ呼ばれないままになってしまうからね」
冗談めかして笑う伯爵に、サフィニアはなるほど一理あるかもしれないと思った。どうせもうすぐそう呼ぶようになるのなら、慣れるためにも今から呼び始めてもよいだろう。
「では旦那様。旦那様はどなたかを愛したことはございます?」
照れた様子もなく再び問いかけたサフィニアに、伯爵は目を丸くして、わずかに驚いたようだった。すぐにくすくすと笑いだして頬杖をつく。
「――愛。愛、ね。そりゃあ君より長く生きているのだから、当然誰かを愛したこともあるだろうさ」
「曖昧な言い方をされるんですね」
ご自身のことなのに、とサフィニアが不思議そうにしていると、伯爵は表情を変えずけろりと言い切った。
「曖昧なものだからね」
あれ、とサフィニアは違和感を覚えた。どこかで聞いたような話だ。誰かにも同じようなことを言われたような気がする。
――君にかけられた呪いは愛なんて随分と曖昧なものを絡めたものだね、と。
「……リグリー先生」
思い出した。リグリーとの手紙のやり取りのなかで似たことが書いてあったのだ。
「うん?」
ぽつりとリグリーの名を呟いたサフィニアに、まるで返事をするように伯爵は微笑みながら頭を傾けた。
「あ、いえ……呪いのことで手紙のやり取りをしていた方からも、似たことを言われたと思い出しまして」
「『君の呪いはたいへん面白い。魔女と呼ばれる者たちは今やすっかりと隠れ生きるようになり、ここ五十年は表に出てきた者がほとんどいない。そんななかで魔女に呪われた君は実に幸運で実に不運だ。本来呪いというものは日常の些細なことから死に至るものまで様々ではあるが、君にかれられた呪いは愛なんて随分と曖昧なものに絡めたものだね』」
伯爵の口からすらすらと出てくる手紙の内容に、サフィニアは言葉も出ないほどに驚いた。一言一句覚えているわけではないが、それは間違いなくサフィニアのもとに届いたリグリーの返事の内容と同じだったのだ。
どうして、とサフィニアが音もなく唇を震わせた。
「どうしても何も、私がフィリップ・リグリーだからね」
「え? ……え?」
サフィニアは自分の耳を疑った。空耳だろうか、なんて思うことははじめてかもしれない。
伯爵と話していると、驚かされてばかりだ。
「呪いの研究を実名でやるといろいろ面倒なことになると友人に助言されてね。隠しているわけではないが、私がフィリップ・リグリーと知る人間は多くないかな」
伯爵ともなるといろいろ制約があっていけない、と溜息を零している姿に、サフィニアはまだ目を白黒させている。
「で、では、伯爵は私のことをご存じだったんですね」
「ご存じも何も、君のことは有名だと思うがね。呼び方が戻っているよ奥方殿」
「そういう意味ではなく――」
フィリップ・リグリーとの手紙のやり取りは二年以上続いている。サフィニアはもともと筆まめだったし、リグリーからの返信もそう間をおかずに届いた。
「少し意地悪だったかな。まぁ、そうだね。名を偽っていたとはいえ君と手紙を送り合っていたのは私で間違いないよ。君も、私がフィリップ・リグリーだとすればこの結婚も納得いくのではないかね」
フィリップ・リグリーは呪いに関して数々の書籍を世に出している。呪われたサフィニアに興味を持つのは当然のことだ。サフィニアにとっては都合の良すぎる「呪いがとけなくてもかまわない」という条件もつまりはそういうことなのだろう。
「……私は実験にでも使われてしまうのかしら?」
実験となると痛いのだろうか。痛いのはあんまり嬉しくない。ああでも、決して冷めないという眠りのときに痛みを感じるのだろうか。
「人をマッドサイエンティストのように言わないでもらえるかな」
心外だ、と言いたげに苦笑いを浮かべる伯爵に、サフィニアは「あら」と微笑んだ。伯爵のことはよく知らないけれど、リグリー先生のことは知っている。
「でもリグリー先生なら毎日観察するくらいのことはなさるのではないかしら」
「それは否定しない」
素直にあっさりと認める伯爵にサフィニアは嫌な顔をしない。むしろサフィニアの呪いが解けてしまったら彼としてはつまらないのではないだろうか。だって伯爵がリグリー先生なら、呪いの研究の足しになる妻のほうがずっと役に立つような気がする。
寝ていても役に立てるなら、呪いが解けなくても心苦しくなる心配がない。
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