第9話



 峯田君はカーテンの隙間から差し込む日の光に目を開けました。

 仰向けになった峯田君の逞しい胸の上に馬場君の白皙の美貌がありました。すんなりした形の良い腕が腰に回っています。馬場君の琥珀色の長い睫が熱帯魚の尾鰭のように長い影を作っておりました。

 悪魔も眠るんだなあ。

 峯田君の下半身には馬場君の長い脚が絡みつき、大きな声では言えない部位同士が、これまた大きな声では言えない種類の粘液に濡れて、まだお互いを汚しておりました。


 昨日、馬場君に誘われた峯田君は大いに浮かれておりました。

 しかしそれも長くは続きませんでした。馬場君が海外に転勤するという話を聞いたからです。

 馬場君はこのところ親しくなった峯田君にきちんとお別れを告げるために峯田君を誘ってくれたのだと峯田君は悟りました。

 転属先を言ったまま、馬場君はしばらく気まずそうに黙っていました。

 賢しいこの悪魔はきっと峯田君がどんなにショックを受けるか気付いているのだ、と峯田君は思いました。ひょっとしたら峯田君の恋心にさえも。

 実際、酷くショックでした。目の前が暗くなりそうでした。もうこうして馬場君に会う事は出来ないのかと思うと胸が潰れそうでした。

 結局最後まで気を使われちまったなあ。

 浮かれてお店の予約までして、馬鹿みたいでした。

 おそらく馬場君は峯田君があまりにも自分と過ごしていて楽しそうなので、申し訳なくなったのでしょう。こちらから促してようやく話してくれたのはきっとそういう事なんだろうと思いました。

 悩みを聞いてやるつもりでいた朝の自分はなんて呑気だったのかと峯田君は苦笑しました。馬場君は峯田君を寂しがらせる事を憂いていたのに。

 この悪魔が自分を必要とする事などないのだ、という残酷な事実が壁のように立ちはだかっておりました。

 峯田君がどんなにあがいてもどうしようもありませんでした。

 しょうがねえよな。

 峯田君は胸の痛みを堪えて、馬場君に一体あの時自分に何を求めていたのか尋ねました。無意味な問いだとは思いましたが、仕方ありません。馬場君が峯田君を頼ろうとしたのは結局あの時だけだったのですから。もう会えなくなってしまうのなら、何か自分が出来る事を馬場君にしてやりたかったのです。

 この数か月間で馬場君が峯田君にくれたものを思えば、本当はもっと何か価値あるものを馬場君に捧げたかったのですが、たとえ馬場君が全てを峯田君に捧げる気があったとしても峯田君が必要としていなければ無意味です。


 けれど。


 馬場君は何もかも明かしてしまって取り乱していました。拒絶される事に怯え、取り繕うように笑い、早口で謝罪と言い訳をまくしたてていました。

 馬場君が席を立った時、峯田君は咄嗟に手を伸ばしてしまいました。

 自分が何をしようとしているのか、冷静になって考えると馬鹿げているようにも思えました。この美しい生き物相手に、ただの人間の男(それも相当に厳つい)が何を言うつもりだ、とも。

 けれど今、馬場君を逃がしてしまったら峯田君は一生後悔するような気がしました。

 何より離れたくありませんでした。

 赤い瞳が悲しみと後悔で押しつぶされそうになっているのを見て峯田君は腹を括りました。

 自分はこの何でも出来て何でも持っているはずの悪魔に何か自分にしか与えてやれないものを持っていて、この悪魔はそれを咽喉から手が出るほど欲しがっているのだと、そう考えざるをえませんでした。


 理由など分かりません。

 でも、そうなのです。


 理解した瞬間になんとも形容しがたい感情が峯田君の胸に渦巻きました。

 喜びと表現するにはあまりにも原始的で凶暴な感情でした。

 こんな時になんと言うべきなのか、峯田君も答えを持ちませんでした。しかし、もう悪魔だとか人間だとか、貸しだとか借りだとか、そんな事を考えている場合ではない事だけは分かりました。

 正直に言うしかありませんでした。


 なんでもするから一緒に居てくれ、と。


 その後、別人のような切羽詰まった表情で自分を抱え上げた馬場君に峯田君は驚きましたが、猛スピードで移動しながらふっと笑いました。

 いつも他人を気遣っている馬場君が欲望の赴くままに行動しているのを見るのも悪くないものだな、と思ったのです。

 酷く優しい気持ちになって、そっと馬場君の頭を撫でてみました。馬場君は耳まで真っ赤になってさらにスピードを上げました。


 そして結局、そんな優しい気持ちを後悔するほど馬場君に散々いいように嬲られてしまった峯田君でした。


 昨夜の事を思い出すと頭を掻き毟って叫び出したくなるのですが、同時にあらぬ部分が甘く疼きます。起きたばかりだというのに身体が火照ってしまいそうでした。

「ん……」

 その時、小さな声を上げて馬場君が目を覚ましました。

 赤い瞳が峯田君を映します。人を誘惑して堕落させる悪魔そのものの淫蕩な笑みを浮かべ、峯田君を見つめてうっとりした様子で、はぁっと息を吐きました。眼鏡もなく、いつもは整えている髪も乱れて、裸でそんな風にしていると、馬場君はもう決して人間には見えませんでした。角も尻尾もありませんが、馬場君は確かに悪魔でした。

 しかしそれもつかの間でした。我に返った馬場君はばっと飛び起きて自分の身体のあちこちを検分し始めました。

「生きてる……どこも、変わって……ない、ないよな……?」

 馬場君が裸のまま動くので昨夜何度も峯田君が受け入れされられたものがぶらんと揺れました。馬場君ははっとしたように峯田君を振り返ります。

「あ、峯田君、身体大丈夫?」

「おはよ」

「あ、ごめん、おはよう。あの……」

「大丈夫だよ。お前こそどうしたの、急に?」

 もうすっかりいつもの馬場君でした。今気が付いたというように前を隠して赤くなり、馬場君は再び布団に潜り込みました。

「うん……」

 馬場君は情けない表情になりました。

「貰い過ぎだなって」

「ん?」

「だ、だから、その僕、ほら制約の話、したでしょ?」

「ああ」

「絶対、僕、峯田君から貰い過ぎだと思うんだよ。凄い気持ち良かったし、凄い幸せだったし! 罰が下らないわけないと思うんだ。昨日はそれでもいいやって思ってたんだけど、峯田君を見てたら急に惜しくなって、そんなのやだなって……」

 馬場君は涙ぐんで、峯田君の太い首にぎゅっとしがみ付きました。

「わ!」

「一緒に居たい。生きたい。これで終わりなんてやだ。峯田君が死ぬまで一緒に居る!」

 小さく震える琥珀色の頭を峯田君は大きな手でぽんぽんと安心させるようにたたきました。

「あ、居るってごめん、えらそうに、居て下さい……って、あ、また僕お願いしてるね! やばい……これカウントされるかな」

 泣いたり心配したり、忙しない事でした。峯田君は思わず吹き出してしまいました。

「まあ、そんな焦んなよ。今、大丈夫なんだからたぶん大丈夫だろ? 悪魔の契約の力ってすげえって聞くし、契約がお前を許さないつもりなら昨日のうちに死んでるか、何かどえらい事が起こるかしてたんじゃねえかな」

「ど、どうかなあ……こればっかりは分かんないよ」

 まだ不安そうな馬場君でしたが、峯田君はそんなに怯える必要はないのではないか、となんとなく分かっておりました。

 馬場君は峯田君に何の対価も払わなかったと思っているようですが、そんな事はありません。馬場君はすでに峯田君に大きな大きなものをくれているのです。

 それはこの世で馬場君以外は決して峯田君に与える事が出来ないもので、それこそ悪魔の因果律を無視する力を使った貸しですら霞むほどの大きくて重たいものなのです。

 そして峯田君も馬場君にそれと同じだけのものを与えているのです。

 峯田君と馬場君はあまりにも大きなものを互いに捧げ合っておりました。互いの魂を、と言ってもいいかもしれません。

 それと比べればどんな事だって誤差範囲です。

 ついでに言うと、馬場君が峯田君から昨夜奪ったと思っているものについては、そもそも二人の間では対価になりえないし、峯田君が一方的に奪われたというものでもないのです。


 その時、どこからともなく振動音が響きました。

「あ、メール」

 馬場君はもぞもぞと布団から手を伸ばし、通勤鞄から端末を取り出しました。

「上司からだ……あ」

「なんだって?」

「昇格と海外転勤の件、上からのお達しでなかった事になったって!」

「……! そうか。良かったな!」

「やった! 昔からの慣例を知ってる人居たんだ、良かったあ」

「慣例?」

「ああ……えっと、まあ、とにかく僕このままここで働けるみたい」

 馬場君は笑った後でまた泣きそうな顔になりました。

「どうしよう、どんどん死ぬの嫌になる」

「だから、死なねえって」

 言いながら峯田君は気が付きました。つまり馬場君は自分が峯田君に何をもっても贖いえないものを与えてくれているという自覚がないのです。貰ってばかりだと思い詰めているのです。

 まるで昨日までと立場が逆転してしまったようでした。峯田君は馬場君に何も与えられないと思い込んでいましたが、今は違うと知っています。けれど今度は馬場君が峯田君に何も返せないと思っているのです。

 そんな事はねえんだけどなあ。

 そこで峯田君はまた良い事を思いつきました。少し意地悪かもしれませんが、馬場君の思い込みを正す助けになるかもしれない上に、上手くすればついでに気持ちの良い事も出来るかもしれません。

「そっか……じゃあ、これからも馬場にはあんまりおねだりはさせられねえな。昨日はいっぱいしてくれたけどな」

「う……」

「俺、馬場にお願いされるの好きなんだけどなあ……何でもしてあげたくなっちゃうくらい」

 峯田君はにやっと笑って馬場君の滑らかな背中をそっと撫でました。

「な、なんでも?」

 愛撫に喘ぎながら馬場君は欲望に霞む真っ赤な目で縋るように峯田君を見ています。琥珀色の髪の毛がいつの間にか逆立って揺れています。

「そ」

「どんな……恥ずかしい事でも?」

 すでに馬場君の息は荒く、腕は勝手に峯田君を求めて蠢いていました。

 誘惑を生業とする悪魔を、今、逆に自分は誘惑しているのだというのがおかしくて、あんまりにも他愛なく誘惑されてしまう馬場君が可愛らしくて、峯田君はとろりと笑いました。

「そうだよ。どう? それでも嫌? 俺にお願いしたくない? まだ罰が怖い?」

「おおお、お願いします!」

 馬場君から噛みつくような激しい口づけを受けながら峯田君は咽喉の奥でこっそりと笑いました。

 まあ、いいよな。どうせそのうち馬場も気が付くだろ。

 もうお互いにこれ以上捧げるものがないくらいに与え合っているのだという事を。


 時間もたっぷりあるし。


 そう、これから二人はずっと一緒に居るのです。

 

 なんせ馬場君は悪魔です。峯田君の前でだけはただの男になってしまいますが、本当は物凄く賢いのです。


 ええ、きっとそのうち。

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悪魔の馬場君とマッチョな峯田君 八鼓火/七川 琴 @Hachikobi

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