第2話
ジージージージージー。
ボク。ボヴォ。ヴォワ。。
は?
「谷さん! 谷さん!」
いきなり手を握られた。
女だった。
女はどこか見覚えのある格好をしていた。
そして俺の身体の前にはストーブがあった。
いや、ストーブじゃないなこれは。じゃあなんだ。
これは……。
さっさとバギングしないとまずいな……。
「オーダー入ってますよ!!! 大丈夫ですか? 体調また悪いんですか……?」
「いや問題ない」
あっという間にアップになった。
俺と同時刻で定時になったらしい先程手を握って来た女は、休憩室で帽子を脱ぐと心配そうな声色で言った。
「谷さん、嘘みたいにいつもの『デキる』谷さんに戻ったけど……ほんとに大丈夫なんですか?」
若そうな女だ。いや若すぎる。大学生か。あるいは高校生? 茶髪に染まってるし化粧もそこそこしてるみたいだし大学生か? それに……。ちょっと胸もあるようだし……。
「問題ない。ちょっと寝不足だっただけ」
嘘じゃなかった。寝不足の時のように気怠くて頭が重くて、瞼がトロンとしている。ただ寝不足も何も昨日寝たおぼえすらない。いや。
昨日があったのかさえ憶えていない。
「もー、心配させないでくださいよぉ。谷さんが病気になって辞めちゃったら私もやめますからね?」
「どんな理屈だよ。そういう邪な気持ちなら早くに辞めて勉強に専念した方が良いぞ?」
ちょっと待った。なんで俺はさも知り合いであるかのように流ちょうに喋ってるんだ。勉強ってフレーズは学生相手にしか出てこないはず。俺はこいつが学生だと初めから知っていたというのか?
「またそんなこといってー。谷さんずっとやってるじゃないですか。なんだかんだ好きなんでしょ?」
は?
いや待て、なんでその。
そう、女の発言にとてつもない違和感があった気がした。まるで全身から嫌な汗が噴き出てくるような感じがあった。それは、この女の事が嫌いだからなのか。
あるいは。
わからない。
わからないくせに。
「やりがいはあるよ。ファーストフードっていうのは確かにジャンクフードだけど、人にとって身近な存在でもある。それに俺。こういう店をさ、田舎の✘◆?☆”ワ…k」
「谷! 谷……?」
バシッ。
いったっ……。
俺は右頬がじんじんと痛んでいた。
「お、意識戻った?」
「……。とにかく痛いんだが……」
「あーよかったよかった結果オーライ」
矢野は俺の胸倉から手を離した。
どうやら矢野にいきなりぶたれたらしい。
意味が解らない。
「いや、谷、今意識消えかけてたっつーか。白目っていうか。まぁ良いや。あんまりとやかく言うの辞めるわ。兎に角さ、千里の道も一歩からってやつ」
「百聞は一見に如かずだろ」
だからなんで俺はいつも口先だけは事態を把握している風なんだ。まるで腹話術だ。
いや、思い出した。百聞は一見に如かず。ということは。
「行ってみるってこと……だよな?」
矢野はドギツい調子でこっちを睨んでいる。しかしこの三白眼。別に悪意がある訳ではないのだろう。
「そーいうこと。で、その、なんて言ったっけ? キツツキ?」
「佶村」
「うん。谷が憶えてるって言うなら、ていうかもう私が行く前から準備もしてたわけだし。こういうさ。わかんないだろ。気持ちっていうか精神っていうか。踏ん切りがつけば記憶だってケロっと戻るかも知れないし。だから、よーするに行しかないっしょ? 私だってあれこれ言うと谷のこと混乱させてるだけかもって不安になるし。病院は行きたがらないし」
「ああ、すごい迷惑をかけてるとは思ってる。悪いな、色々心配してもらって」
「なーにいってんの。お互い様でしょ」
「お互い様?」
「あ、そっか……。まぁ良いや。とにかく行くと決めたらさっさと行くよ?」
「あ、おう。ってお前ついてくる気か?」
「は? 逆。私が行く、ついでにあんたがついてくんの。そのぐらいの次元だから今」
「次元って……」
「だーから、もうそんだけ記憶ポンポン飛んでんのに。あんた、道端の途中で『行く』っていう気持ちさえ忘れたらどーすんの?」
「そ、それもそうだ……」
「今から私は鹿児島観光に出発。ついでにあんたはついてくる。道中で訳が分からなくなっても私が無理矢理引っ張って連れていく! おっけ?」
俺は少しの間押し黙ってしまった。矢野はまた俺を喧嘩腰のように上目遣いで睨んでくる。だが勿論それは外面だけで内面では酷く心配しているのだろう。俺はそうさせまいと言った。
「その。矢野は……やっぱり良いやつなんだな」
俺がそういうと、突然矢野はおろおろした調子になって、口をゆがめて、頬を人差し指でポリポリ搔き、そっぽを向いた。頬はなぜか赤らんでいる。
「い、いきなりなんだよ、調子狂う……」
なんだこいつは。この反応は何だ。わからない。
今までに見たことがない様な感じだ。
こいつはヤンキーだったのかただの乙女だったのか。
そもそもやっぱり矢野の香水の匂いは確かに嫌ってほど憶えているんだが、イマイチ、高校生活のあれこれが思い出せない。
「いや、なんていうか。言いたかっただけなんだ。ともかく、俺と矢野は高校時代からの腐れ縁。昔のよしみで俺に手を貸してくれる。それで良いんだな?」
「全然良くないけど、まぁ良いか。そのかわり、旅費は全部あんたが払ってよ? それから今度遊園地連れてってもらうし」
「旅費も構わないし、終わったら貯金の許せる範囲で奢るよ。ほんとに、矢野が来てくれなかったら俺はバッグを抱えたまま、知らない土地で突っ立ってたかもしれないんだから」
「はーいはい。辛気臭いの辞めようぜ。旅行なんだから楽しんで行くよ?」
「ああ」
こうして俺はいよいよ佶村を目指して鹿児島へ行くこととなった。
勿論不安しかない。
この矢野という女だって、果たして本当に高校時代の同級生なのか半信半疑になってきてしまっている。ついこの前なら少なくとも高校時代の事は50%程度は記憶できていたはずだ。それが今や、もうわからなくなってきている。症状は確実に悪化している。しかもそのスピードは尋常じゃない。脳に腫瘍でもできているのかもしれない。だとすれば、下手をすれば余命いくらかとかそんな可能性だってある。しかし、特別身体に異常を感じることはない。そこが俺が病院に行かなかった理由なのか? 至って健康体。そう、そうなんだ。頭の痛みも眠気もまったくない。あれ? でもついさっき眠気があったような……。なんだ。どうした、また記憶の前後関係が乱れているのか?
ん? 『また』?
なんだ、なんだなんだ。やめろ、また不安になる。また? またってなんだ? また? いややめろやめろやめろ。
……。
やめよう。
ともかく、パニックになっても仕方がない。
今はこの矢野という女を頼るほかない。
この長身の(ヒールを履かれたら抜かれそうなぐらいの)、金髪に脱色した気の強そうな女を、かつての友だと信じて前へ進むしかなかった。こいつが言った「谷は東京生まれ東京育ち」。これにはまだ希望があった。矢野とは確か高校時代からの付き合いだったはずだ。あれ、それはなんでわかるんだろうな?
まぁ良い。考えない考えない。ただ単に記憶が散らばった破片のように、断片的になって出てきているというだけだ。
ということは、俺は矢野には田舎出身だと伝えていなかっただけかもしれない。高校生ぐらいになると馬鹿正直にはならない。人付き合いというのを優先して時には都合の良い嘘をつくことだってある。田舎者だと馬鹿にされたくなくて、出身地を伏せていた可能性だってあるだろう。そうだ、落ち着け。
それに確実に言えることはまだあった。
それは中学三年生までの記憶全てだった。
憶えていた。全部全部。父母祖父祖母、親戚、隣家のおばさんおじさん、役場の人、先生、気兼ねない同級生達……そして。
桐原。
まるでアニメ漫画に出てくるような、まん丸い眼をした、小動物みたいな女。
気弱で泣き虫で、その癖嬉しいことがあると、桐原の年下の弟がびっくりするぐらい幼稚にはしゃぎまわったりもする。
そんな桐原の傍に。
思えば俺はかなりの時間いた気がする。
幼馴染と言えばそれまでだが、俺と桐原が大人同士だったなら、恋人と揶揄われてもおかしくないぐらい一緒に居た気がする。
大丈夫だ。これだけの記憶がある以上、これが空想であるはずがない。
むしろ空想だというなら、東京に来た後の記憶の方が荒唐無稽だ。
都会という毒に侵されて精神を病んでしまったのかもしれない。
それでただ記憶が飛んでるだけかもしれない。
そうだ、気持ちの問題だ。
行こう。行けばはっきりする。
俺は何時の間にか身支度を整えていた。
そして矢野が待つ家の外へ。
玄関でしっかりと靴の紐を結びながら、決意を新たに踏み出した。
と、ふと、矢野が駅に向かう途中、スマートフォンで時刻表を調べながらぽつりと呟いた。
「そーいやさ、ネットで調べてみれば一発じゃないの」
夏に会おうね YGIN @YGIN
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