妻・夫を愛してるITエンジニア Advent Calendar H日目

negipo

2016

 滅菌処理の設定を確認して、実行を開始した。緊張の糸が切れて、思わず口からはあと小さく息が漏れる。頻繁に行っているルーチンワークとは言っても、多くの人の実験に影響を与える培地の作成には、私はかなり気を張って作業を進めていた。

 十月から働きはじめた新しい職場で、旧知の友人の持つ研究室での技術員という立場を得て以来、私はこれまでになく忙しい日々を送っていた。実験という作業には多くの時間や資材による制約がある。今私が作っている培地も、その重要な資材のひとつだ。今日は帰りしなに枚数をチェックすると、培地の残りは十三枚だった。もしやと思って室内にいる学生に今日明日でどれくらい使うかと聞いてみると、私は十枚、私は三枚、という感じで、すぐに売り切れごめんとなってしまうのが分かってしまったのだった。

 明日は、私はここしばらく通っている脚本家教室への出席のために全休をとるつもりで、すぐに思い浮かんだのは残って作業をしている学生に全てのことを任せてしまうということだったが、結局、私は暫く研究室に残って培地を作ることにした。

 低い作動音を立てる実験器具を眺めながら、なぜ、私はこういう風にものごとを独力で進めてしまうのだろうなと思った。私の職掌からすれば学生にまかせてしまうこと自体になんら問題はなかったのだが、それでも私が準備するべきことを中途半端に置いていくことが、あまり正しいことには思えなかったのだ。私にとって、私がやるべきことというのは、仕事をしているときにいつも確かな形を持って目の前にあるように思えた。実際にそれを実行するかどうかはともかく、ただそうあるべきだということが、すぐにわかるのだ。

 そして、私の職業的なものに対する真摯さは、目下の職業である技術員という私の立場だけではなく、脚本家教室に通う一生徒としての私に対してもあるべき姿を要請した。私は明日提出する課題をきちんと進めるべく、研究室の退勤処理を行って、作業スペースの横で私物のノートパソコンを広げた。そうして課題を進めるうちに滅菌処理が終わって、私は培地準備の続きをやることになるのだろう。

 私は、真面目なんだと思った。非常に真面目なんだと思った。

 左の手首につけた時計が軽く震えて、メッセージの着信を告げる。メッセージは夫からで、今日の退勤も遅いが、もし良かったら飲みにでも行こうという内容だった。

 私はもう少し課題を進めてから返信をすることにして、ノートパソコンのディスプレイに集中し直した。時計のディスプレイはすぐに消えて、やがて私の意識の中から、夫の存在は消えた。


 * * *


「そりゃあ、真面目そのものだね!」

 目黒駅の近くにある海鮮系の居酒屋で、私より一時間以上早く到着して若干酔いが回っている様子だった彼は、私が今日進めた多くの仕事に対して大声で感想を言った。

「なんだか信じられないな、はっとりさんが仕事場でそんなに真面目に、ものごとを進めているとは。家での様子を見ちゃうとねえ」

 私はむっとして言い返した。

「や、私もあんまりきちんと家事やってないのはわかるよ。でも、ねぎしくんだってちゃんとやってないけど、お仕事はちゃんとやってるでしょ」

 そんなふうに、と、私は彼が広げっぱなしにしているノートパソコンを指差して言った。彼は、これは、特になにをやっているというわけでもないよと、独り言を言うかのように返事をしながら、かたかたとチャットに何かを書き込んでいた。今日リリースされたサービスに問題が起きているが、今はただ他の人の作業が進んでいるチャットを眺めているだけだというのが彼の言だった。

「まあ、あんまり真面目すぎるのも良くないとは思うけど、とにかく、はっとりさんが真面目に仕事をしているのがわかって、僕は嬉しいね。それは明らかな美点だと思う」

 ふ、と私は笑う。

「私の真面目さは、ジャンルを問わないからね。よく私の職歴を考えてみなよ。研究開発部門でエンジニアやって、データベーススペシャリストとったりしてさ」

「いつでも転職できるね」

「次は化粧品会社で、女子力を武器にしたツイッターの中の人」

「はは、なかなか笑える」

「で、今は、生物系の研究室で技術員でしょ。あまり普通じゃないけど、まあどれも一定以上はちゃんと出来てると思うんだよね」

「その通り! そして今の君の立場は、未来の脚本家でもある」

 にこりと笑って、彼は言った。

「君を支えることができて光栄だな。もし僕が倒れたら、きっとゴールデンタイムの脚本で稼いだお金で僕を支えてくれるだろう」

 はっ。私は軽く笑って言った。

「そうなったら、最初の会社に戻るよ。データベーススペシャリストも持ってるしね」

「あと、卒業生総代だ」

「うん」

 私はごくりと、杯の中の日本酒を飲み干して言った。

「総代でもある」


 居酒屋を出て家に辿り着き、部屋着に着替えてソファでごろごろしていると、同じく身支度を整えた夫がコーヒーを飲むかと聞いてきた。私はやや曖昧に肯定の返事をして、ゆっくりとソファの柔らかなクッションに沈み込む。少しの間夢と現実を行き来していると、ことりという音を立ててカップがウッドテーブルに置かれた。身を起こして、寝ていたことに気づかなかった、というようなことを私が言うと、彼はいつものようにくすくす笑った。

 コーヒーをゆっくり飲んでいる私を放ってスマートフォンをいじっていた彼が、急にわあと声を上げた。私も知っている彼の知人のエンジニアがアドベントカレンダーの記事を上げていて、それがなかなか興味深いという話だった。

「妻・夫を愛してるITエンジニア アドベントカレンダー、だって」

 彼はにこにこして言った。

「妻や夫を愛していない人なんて、いるはずないのにね」

 私は、そうだねと答えた。そんな人がいるはずがない。

「ねえ、はっとりさんは僕のどこが好き?」

 私は笑って、なにそれ、と聞いた。

「アドベントカレンダーの枠、全部埋まっているけど、まあH日目とかそういうのを書こうかなと思ったんだよね。だからほら、相互理解のために」

「なるほどね」

 なるほど、私は同意して考えた。私が好きな彼の特徴は、いくつもあった。

 さっき、最後のまぐろの刺身をゆずってくれたこと。そう言えば中華丼に入っていたうずらの卵をくれたこともあったな。あれは嬉しかった。

 おもしろいことを言ったり、私の真似をしておもしろい踊りをしてくれたりすること。たまに私が見ていないところでも踊ったりするのは、不審者に見えるからやめてほしい。

 やさしいこと。弱音を吐いてもはげましてくれること、病気の時に休めと言ってくれること。

 ああ、あれがあった。あれが一番だ。ふふ、と私が黙って笑うと、彼は訝しげにこちらを見つめてきた。

「なになに、そんなに僕の好きなところを思いつくのに時間が掛かるの」

「違うよ、ただ単にいっぱい思いついてただけ。私がねぎしくんの一番好きなところはね、おなかがやわらかいところだな」

「なんだい、肉体か」

「肉体だよ」

 そう言って、私はおなかをぽよぽよと触った。やわらかな彼のおなかを触っていると、私はとても優しい気持ちになって、そしてすぐに眠くなった。またノートパソコンを引っ張り出してかたかたと触り始めた彼を置いて、私はベッドへと歩いていき、やがて静かに眠りについた。


 * * *


 フライパンで何かが焼ける、じゅうという音で目が覚めた。この間私が実家からもらってきた、質の良いソーセージのうち最後の二本を彼が蒸し焼きにする音だと思った。リビングでは、インストばかり演奏しているバンドがクリーンなギターの音を小さく響かせている。私は目をこすりながらキッチンに向かって歩いていって、彼におはようと朝の挨拶をした。

 洗濯機の前に立って、ぴいぴい言う電子音を聞きながら洗剤を入れて作動させる。こうしてみると培地作りも家事も、そんなに変わらない。ひょっとして、家事も真面目に取り組めばすぐ終わるのだろうか。雑然とした考えがまとまる前に、彼がごはんが出来たと呼びに来た。バターがなくなったよと報告されたので、頭の中の買い物メモに書き留める。

 食卓のテレビに映し出されたワールドニュースでは、悲惨な出来事について各国のアナウンサーが報告していた。トルコではロシア大使が警官に殺されていた。サウジアラビアが使用したクラスター爆弾で脚を失った女の子が、私はもうほかの女の子のように美しくなくなってしまったと淡々と語っていた。ドイツでは巨大なトラックが、簡易な兵器として多くの人々を轢きつぶしていた。

「ひどいな」

 夫はコーヒーを飲みながら画面から目を離さずに、ドイツの人々のことを考えているように見えた。彼は、ひどい、と繰り返し言っていた。

 私が食後のコーヒーを飲んでいると、彼は身支度を終えてドアの方へ歩いていった。あわてて見送りのために後を追う。

「今日は遅くなる?」

「わかんない。けど昨日の感じだと遅くなりそう」

「わかった、気をつけて」

 いってらっしゃい。いってきます。ぱたん。ドアが閉じて、私は一瞬で今日のスケジュールに思いを馳せ、やるべきことを組み立てた。


 テーブルの上のものを片付けて、少し掃除機をかけ、好みの音楽をかける。ミネラルウォーターをコップに入れて、少し口をつけた。さて、と勢いをつけて、私はノートパソコンを出して今日の課題に着手しようとした。そうして数十秒ほどして、私は昨日とは比べ物にならないほど作業に集中できていない自分に気がついた。

 自分の中に理由を探して、それは頭痛によるものだと結論づけた。確かに朝、起きた時に少しだけ痛かった頭が、今ではずきずきと強く痛んでいた。真面目すぎるのはよくない、つらいときは休めという夫の言葉を思い出して、少しだけ休もうと、テーブルの引き出しから頭痛薬を取り出して規定量を飲み、ソファに横になった。床に落ちていたブランケットを掛けて、暖かい空気が自分を包み込んでいることをうまく想像しようとする。しかし、身体は確かに温まっていっても、頭の痛みが収まる気配は訪れなかった。

 ひどいな、という言葉が急に、巨大な残響と共に頭に響いた。私に、夫が世の中に蔓延する障害に斃れていくという恐ろしい想像が襲い掛かってきたのだった。彼のやわらかい内蔵が、銃弾や爆弾の破片に切り裂かれ、トラックに押しつぶされる姿がありありと頭に浮かんだ。そのようなことが本当に起こり得るのかと私が自分に問いかけると、それは起こり得ることなのだということがすぐに分かった。先々月、誕生日の直前に救急車で運ばれた彼の姿を思い出した。そういうことは、起きるのだと思った。

 私は悪い想像を全て追い払って、今頃会社へと向かって歩いているはずの、現実の彼のことを思い起こそうとした。彼は毎日一時間近くかけて会社へ歩いて通っていて、私は一度それに同伴してみたことがあったのだった。その切り替えはうまく成功して、彼が目黒川のほとりをてくてくと平和に歩いているところが、きちんと私の頭に浮かんだ。

 目を閉じて彼のことだけを考えていると、やがて私には、私の中の彼と彼の実体が完全に一致したかのように思えた。彼が私にその身を差し出すので、私はそのやわらかいおなかの上に横になり、私の静かな認知には彼のおなかだけがある状態になった。

 そして、そのまま世界は溶暗して、私はしあわせな気持ちにひたったまま、ゆっくりと意識を手放していった。

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