『ヒューマンドラマ』 タイトル『日常事泰』



 

 俺にとっての日常は、命懸けだ。仕事でも、家庭でも――。




「あーもう、浩一君、牛乳切れとるやん! 春樹はるきはこれしか飲まんのやけ、買ってきて」


「あー、ごめん。牛乳だけでいいと? 夕飯、何も食べてないやろ?」


 里美さとみのご機嫌を伺いながら尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せながらいう。


「チーズも! あの、6つに切れとるやつ、カマンベールの!」


「ん、わかった。一応コンビニついたらまた連絡するけ、考えとき」


「うん、ありがと。やっぱ優しいね、浩ちゃんは」


 里美の甘い視線を交わしながら、玄関でスニーカーを履く。自転車のキーを捕まえて彼女の方を目の端で捉えると、どうやらすでに俺は眼中になく息子の春樹の方へ向かっていた。


「ま、そんな大きなお腹を抱えてたら、誰だって優しくするさ」


 ドアを開けて小さく独り言を呟きながら、夕食で満たされた腹を擦る。彼女の体は出産間近で非常事態にある。いつ生まれてもおかしくない状態で、牛乳なんかとてもじゃないが買いに行かせられるはずがない。


 まして俺は今日、里美に重要な宣告をしなければならないのだ。少しでもいい材料を揃えなければならない。


「お、隊長じゃないっすか! お疲れっす!」


 コンビニに入ろうとすると、同じ部隊の山下やましたがぴっちぴちのTシャツにジーンズ姿でいた。どうやら日課の筋トレは終えたようで、満足げな顔をしている。


「お! お疲れさん。お前も買い出しか」


「そうっす。彼女が風邪引いちゃって、その栄養剤を買いに……」


「そうか。うちは子供のミルクや。仕事が終わってもお互い大変やな……」


 なるべく小さい声で愚痴り合う。ここのコンビニは職場関係の人が多く、おおっぴらに話すことができないためだ。


「隊長も大変ですね……、で、話したんです?」


「ここで隊長は止めろ。恥ずいから」


「了解っす。で、例の件、伝えたんです?」


「……まだ。お前は?」


 尋ねると、山下は右手の親指をぐっと立てた。


「何とか、うまくいきました。3か月は遠距離っすけど、それくらいなら逆に新鮮になれるんじゃない? って感じで、よかったっす」


「おお、そうか!」


「やっぱり今、テレビで話題になっているのが効いたっすねぇ。何気なくニュース番組でPAC-3《パックスリー》の話題が出て、助かったすよ」


「そうかぁ。うまいことやったなぁ……」


 途方にくれながら落ちていく太陽をぼんやりと眺める。


 PAC-3。航空自衛隊が所持することになるミサイルの総称だ。俺達はこれからこの機材を扱うために海外で実地訓練をすることになる。


「俺んとこは難しいな……。もうすぐ2人目が生まれるっていうのに、いえる状態にすらないよ」


「で、ですよねぇ……確か1人目の時も、隊長、単身赴任でしたもんねぇ……」


 山下と外にある喫煙所で缶コーヒーを飲み、一息入れる。元は煙草も吸っていたが、この仕事をするようになってから、いつの間にか止めてしまっていた。


 里美が春樹を生んだ時、俺は傍にいてやることができなかったのだ。仕事の都合とはいえ、あの時から生まれた彼女とのパワーバランスに俺はなすすべもなく、従順にならざるおえなくなってしまった。


「いきなり三か月間、テキサスに行ってくるなんていえるはずがねぇ……」


 俺の仕事は航空自衛隊。空軍所属で今年でもう11年目になる。


 仕事よりも家庭の方が怖いと思ったのは、春樹が生まれてからだ。


 この非常事態、俺はどうやって乗り切ればいいだろうか――。



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「……ただいま」


 ドアをそっと開けて音を立てないように閉める。時刻はすでに19時半

《ヒトキュウサンマル》を過ぎているため、春樹が寝ている可能性を考慮しなければならない。


 自宅への侵入に成功した後、そっと冷蔵庫へ牛乳を差し込み、残りをビニール袋から取り出す。どうやら里美は春樹の部屋にいるようだ、今こそ里美が好きなカマンベールチーズを準備しなければならない。


「今日はどうやって伝えようか……」


 果物ナイフを掴みながら、カマンベールチーズの箱を手に掛ける。いつもは手間なので6つの切れているタイプを買うのだが、彼女は小食のため、さらに半分に切り刻んで食べる癖がある。


 ここに付け込まない手はない。


「せっかくだから、等分数を変えてみるか……」


 箱から取り出した中身はカマンベールチーズだ。このまま12等分しても俺の貢献度は薄い。手間を加えるのであれば、5等分など物理的に難しい方法を取ればその変化に気づくだろう。


「……お、意外にいけるもんだな」


 スマートフォンでケーキの切り分けアプリをダウンロードをして、早速チーズを5等分にしていく。このままではどうせ大きいだの、食べにくいなど文句をいうだろう。だからこそ、こいつらを半分にして、きりのいい10等分に分けてやれば見栄えも気遣いもみえるだろう。


「……これでよし、っと」


 切り終えた果物ナイフをさっと洗い流し、ワイングラスと頼まれていないワイン(もちろんアルコールゼロのぶどうジュース)を準備する。これで夜の晩餐の準備は整った。後は俺のビール(もちろんアルコールゼロのジンジャエール)とグラスを準備すればいい。


「ビールグラスなんて、最近使ってないよなぁ……」


 台所の戸棚を探すが、中々風情のあるビールグラスが見当たらない。アルコールがないため、せめてグラスだけでもという思いが再燃していくが、希望に沿う品が見当たらない。


「あ、これ……結婚式で貰ったやつだ……」


 里美の両親から頂いたグラスを掴んで電球に当てる。ステンドグラスになっており、中から光が零れるような演出になっている。


「よし、これにしよう」


 自分用に買ってきたサラミなどを封だけを開けておく。これから長期間の戦闘に突入するのだ。無闇に食べて話の途中になくなったりでもすれば、俺はきっと手持無沙汰になるだろう。



 ……とりあえず舞台は整った。後は交渉するための武器だ。



 時計を確認すると、20《フタマル》時を回ろうとしていた。この時間帯でやっているニュースはNH〇しかない。


 リモコンで電源ボタンを押しながらもすぐさま消音にする。自衛隊に関するニュースなら、冒頭だろう。早く里美をこちらに誘導しなければ。


 だが春樹を起こすような手段は取れない。かといってこのまま一緒に寝られても困る。ここはどうすべきか。



 ……ベタだが、携帯を鳴らしてみるか。



 里美の携帯に敢えて着信を試みるが、音は出ない。どうやらバイブの状態にしているようだ。


 呼びかけずに里美をうまくこちらへ誘導する方法、何かないか。


 彼女の視界は遮られている。となると、後は香りしかない。


 

 ……仕方ない、何か作るか。


 

 あるもの勝負で、冷蔵庫を漁る。細切れの豚肉、切り刻まれたピーマン、茄子……これはもう里美の好きなチンジャオロースしかない。


 フライパンに油を敷いて点火すると、じゅわっと肉が焼ける音がした。夕食を食べた胃には応えるが、ともかくやり続けるしかない。


「おかえりー、え、こうちゃん、どうしたと?」


「あー、ただいま。なんか腹、減っちゃってさ! どう? 里美も食べる?」


「んー、じゃあちょっとだけ貰おうかな」


「よし、ちょっと待ってな」


 フライパンから急いで即席のチンジャオロースを皿へ流し込む。NH〇ニュースが始まるまで後、30秒しかない。


 里美が席につく瞬間、俺は彼女の方へ素早くリモコンを持ち出した。あくまでも彼女に主導権がある、という演出にするためだ。


 

 ……せいぜい楽しませてやるよ、里美。



 チンジャオロースをぱんぱんの腹に運び、甘過ぎるジンジャエールを口に含む。この妊娠期間、俺は彼女の機嫌がいい時にしかビールを飲んでいない。ここをクリアすれば、アメリカでたらふく旨いビールが飲めるのだ。


 なんとしてでも、あの、自由で優雅な結婚する前の独身貴族へと返り咲いてみせる!


 里美は何気なくリモコンを取り出し電源ボタンを押した。


 いよいよ、戦闘開始だ。



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 

「最近、世の中、物騒だよねぇ……なんか、悪いことが起きてるの?」


 里美はテレビを見ながら、10等分されたカマンベールチーズを口に運ぶ。どうやら世界情勢に集中しているらしく、チーズの形など気にならないらしい。


「んーどうだろうね……」


 腕を組み考えるポーズをとりながらも、頭の中ではチーズで頭が一杯になる。


「争いが起きるのは仕方ないけど、やっぱり国同士の問題だからねぇ……難しいな」


「そうよねぇ……」


 里美はそういいながらもチーズをぱくぱくと詰まんでいく。もうすでに5切れしかない。


「ヨーロッパは同じ陸地で別れ過ぎてるからね。EUなんてどこが加わっているかなんてわからなくなるし、せいぜい5等分くらいにしとけばよかったと思うよ」


「ご、5等分!? 少なすぎじゃない?」


「そ、そう? じゃ10等分くらい?」


「んーそれくらいなら覚えられるかも」


「だ、だろう!?」


 自慢げにいうが、特に意味はない。里美に用意したチーズはすでに食べきられており、何の効力も発揮していないからだ。


「とりあえずワインでも飲んで。ね? もちろんアルコールはないけど、さ。落ち着いて」


「ん? 別に落ち着いてるんだけどなぁ」


 そういいながらも里美は美味しそうにぶどうジュースを口に運ぶ。彼女の好きなコンボを振る舞っているのだ、これで機嫌を損ねない訳がない。


「ささ、もう一杯。いい飲みっぷりだねぇ」


「ねえ、浩ちゃん。どうしたと?」


「え、何が?」


 里美はにやにやしながら俺の顔色を伺っていく。


「なんかさあ、そんな急に優しくされたら、気になるじゃん」

 

「そ、そう!? これが俺の普通っていうか、ノーマルじゃん!?」


「ノーマルな訳ないでしょ。何したの? 怒らないから」


「な、何もないよ!? ほんと!」


 そういいながらもニュース番組の行方をじっと見守る。何でもいいから、自衛隊に関するニュースを流してくれ!


 俺の願いも虚しく、話題は九州で発症した鳥インフルエンザの話題が上がった。


「これはやばいな……鳥インフルエンザの影響で卵の価格が上がるかもしれんなぁ。家計に大打撃だろうな、これは……」


「そ、そう?」


「卵1パック……3倍くらいになるんじゃない?」


「そんなには上がらないでしょう? 何いってんの?」


 く、苦しい。だがここで引き下がる訳にはいかない。


「……さ、里美」


「ん?」


「今夜さ、パックしない?」


「パック? パックって何?」


「あれだよ……えっと……パックマン!」


 意味はわからないが、とりあえず自信を持って告げる。春樹が起きない程度の気遣いを保ちつつだ。


「え? ゲームのこと?」


「そうそう。パックマンしたいよね、パックマン3がしたいんだけど、うちになかったっけ?」


「ないわよ、そんなの。本当にどうしたの? 浩ちゃん……まさか」


「ああ、里美。そういうことだ……」


 里美の言葉に心を昂らせる。勘のいい彼女のことだ。俺が全てを告げなくても分かってくれたようだ。


「三回は難しいけど……浩ちゃんがその、したいなら、いいよ? 口でしかできないけど」


「ち、違うよ!? な、なにいってんの!?」


 慌てて手を振る。妊婦に三回も要求する糞野郎がこの世にいるはずがない。


「えー、じゃあ、何? バックで三回したいっていうことじゃないの?」


「ち、違うわ!」


「じゃあ、口でパックン3回ってこと?」


「だ、だから違うって!」


 空咳をして勢いに任せて里美の肩を掴む。もうこれ以上、ごまかすことはできない。


「里美、急で悪いんだが、大事な話がある……俺は……実は……来月からテキサスに行かないといけない」



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 

「ああ、なんだ、そういうこと……。ん、行ってらっしゃい」


 里美はそういってテレビに集中する。


 最悪のタイミングで切り出したにも関わらず里美はあっけらかんとした顔をしている。


「え!? お前、テキサスだぞ? 遠いんだぞ?」


「うん、知ってる」


 里美は微動だにせず、テレビを眺め続けている。ニュースはすでに終わっており、バラエティ番組に切り替わっている。


「し、しかもだぞ!? 三か月だぞ!? お腹の子が産まれちゃうんだぞ!?」


「そうね」


「……いいのか、里美?」


「いいわよ。仕方ないじゃん」


 春樹が産まれた時、俺は里美の傍についていられなかった。あの時から俺達の日常は大きく変わり、このパワーバランスが構築されてしまった。


 なのに、里美はもう何もいうことがない、という風に自然体でいる。眉間にも皺が寄ってない。


「……浩ちゃんが優しいのは知ってるからね? ちょっと離れても、大丈夫。ちゃんと帰って来てくれさえすれば」


「……里美」


 以前はこんなことをいう奴じゃない。どうしたのか、まさか見送った後に、ちくちく攻撃してくる気なのか?


 勘繰っていると、里美は小さく笑い俺のでこを軽くつっついた。


「私も……これでも勉強したのよ。あなたの仕事、何も知らなかったから、あの時は感情に任せて怒鳴り散らしていたけど……今はもう、大丈夫」


 里美はそういいながらグラスに入ったぶどうジュースを口に含む。


「あなたは国を守ってる、それは私達のことも守ってるってことなんでしょ?」


「そりゃそうだ。俺は自衛隊員だからな」


 俺が自衛隊に入った理由、それは父親が同じ仕事をしていたというだけのことだった。だが今の俺はこの仕事につけてよかったと思っている。日本は敗戦国だ、その当時の記述を読むだけで、悲惨な状況は理解できている。


 戦争は負けてはならない、必ず――。たとえ、俺達の命がなくなったとしても――。


 俺にはもう、命令できる部下がいる。守るべき家族がいる。そしてまだ出会っていない、未来の命がその手に託されている――。



「だから浩ちゃん……ちゃんと……」


「……はい」



「パック3個、打ってきてね!」



「3個も打たないから!? PACは名前だけだから!!」


 大きく突っ込みを入れると、里美はなんだぁ、といってため息をついた。どうやらその知識はまだなかったらしい。


「ついでにいうと、俺がスイッチを押すかどうかわからないから……打つためにも手順があるんだよ。車も何台もいるし、人だってたくさんいるし……」


「ふうん」


「俺だってスイッチを打ちたいけど、こればっかりは抽選みたいなもんで、配置は現場でしか決まらないんだ。それで……」


 説明を続けていると、隣の部屋から春樹が目を擦りながらよたよたと歩いてきた。


「お母さん、おしっこ……」


「はいはい、お父さんに連れていって貰いな?」


「うん……。でもお父さんはこれからお仕事なんでしょ?」


「いや、春樹。俺はまだ行かないよ……大丈夫」


「そうなの?」


 どうやら話声が漏れていたようだ。春樹の頭を撫でて、その感触に浸っていると、春樹は突然ぽつりとつぶやいた。


「お父さんのお仕事って凄いんだね……びっくりしちゃった……」


「そうだぞ、春樹。お父さん、テキサスで頑張ってくるからな! ちゃんと待ってろよ」


「うん……」


 春樹は満面の笑みを見せながら俺の服の袖を掴む。



「ちゃんと卵3パック買ってきてね! 僕とお母さん、1パックしか買えないから……」



「お父さんも1パックしか買えないから!? 何いってんの!? 違うから! ミサイルだから!」



 慌てて突っ込みを入れると、里美がげらげらと笑い始めた。それを見て春樹も声を上げて体を揺する。



 ……なんだ、この気持ち。体がふわふわする。



 意味もなく体が熱くなっていく。家族3人でいることに心が自然と滾っていく。



 ……これが幸せ、なのかな。満たされてるんだな。



 2人の姿が目に映るだけで心がほっとする。俺がここにいられるのはきちんと仕事をしているからだ。国を守っている実感はまだないが、俺の家族はまぎれもなく俺が守っている。


 

 ……あ、今は4人か。



 春樹をトイレに連れていき、立ち竦んでいると、里美が後ろから体を添わせてきた。どうやら非常事態は解除されたらしい。



 ……ま、明日も頑張りますか。



 里美を抱き寄せお腹の調子を確かめる。ちゃんと元気に動いてくれているようだ。


 明日からまた、俺には忙しい日常事態が始まるようだ。


 テキサスに行っても、俺達は違う窓から同じ空――太陽や、月、それに星を眺めることができる。離れていても、同じ想いを持ち続けていけば、それは強い力となるはずだ。



 ……だから明日もまた――。



 日常事泰となるように、俺は全力で仕事に臨むつもりだ。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編集 『百花綾蘭(ひゃっかりょうらん)』 くさなぎ そうし @kusanagi104

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ