文字数6000 ジャンル『ヒューマンドラマ』 タイトル『金魚の色彩』




もう一度、父親になろう。そのためには俺は何度だって、あの夏を超えてみせる。









「おじいちゃん、あれが欲しい」


「お、綿菓子か」


なぎさの視線の先にはふわふわの綿菓子が入っていた。俺は商品を受け取った後、彼女のために小さく千切って渡すと、首を大きく振って断わられた。


「やだ、そのまま食べたい」


「わがままやなぁ、ほれ」


 渚の口元に近づけると、彼女は大きく口を開けて綿菓子にそのまま顔を突っ込んだ。もちろん食べることはできず、鼻の先にまで綿が載っている。


「ほら、食べれんやないか、ほれほれ」


 再び小さく千切って渡すと、渚は恨めしそうに綿菓子の本体を眺めながら口をぱくぱくさせた。まるで鯉のようだ。


「べとべとやないか、お前の顔」


「とって」


 鼻の頭についた綿菓子を手で掬い口に含む。自分の孫なのになぜか妙な背徳感を覚える。


「取れたぞ、後はこれで顔拭いとけ」


 俺の手ぬぐいを渡すと、渚は嬉しそうに顔を何度も拭き始めた。まるで子猫のようだ。



 ……それにしても、どのタイミングでいえばいいのだろう。



 俺は渚の手を強く握りながら考える。今日の昼、俺の息子であり渚の父親・壮太そうたが母親と一緒に水難事故で亡くなったのだ。明日の通夜で葬儀をすることになっているが、渚にどのタイミングでいえばいいのかわからない。


「おじいちゃん、ありがとー」


 彼女は嬉しそうに微笑みながら手ぬぐいを返してくる。祭りの終わりにこの顔が曇ると思うと、やり切れない。


 俺はいつ、どのタイミングで、彼女に絶望を与えたらいいのだろう。


 答えは未だ出ない――。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「しかし、ここも変わらないもんだな」


 俺は久しぶりの祭りを懐かしく思い、変わらない景色を一望した。変わったことといえば、屋台の頭首が二代目になっているくらいだ。島の祭りなので、見知った顔しかいないが、それでも皆、精一杯楽しもうと工夫を凝らしている。


「おじいちゃん、次、あれがいい」


 渚の視線の先にはイカ焼きが見えた。屋台で食うイカ焼きも旨いが、イカといえば、生の刺身が一番だ。この暑い沖縄でも、旨い魚介類は豊富に揃っている。


「よし、じゃああっちに行こうか」


 渚の手を引き体力をじわじわと奪っていく。こうやって彼女の要望通りに行けば、きっと疲れて寝てしまうだろう。


 俺に死刑宣告をする勇気はない、家に帰れば家内の早苗さなえが怒り狂うだろうが、このまま気まずい思いをするくらいならそっちの方が断然いい。


「お、大槻おおつきさんじゃないか。いらっしゃい、あんたの取るもんには敵わんけど、うちのイカも美味しいよ」


「……一つ貰おう」


「あいよ。おちびちゃんにもサービスで小さいのを上げるからね」


「うち、小さいのだけじゃ、やだ……」


 俺達は一つずつ手に取ったが、渚はすぐに食べ終わり、俺のものを親の仇のように睨みだした。どれだけ食い意地が張っているのだ、まだ8歳になったばかりだというのに食べ物に関しては大人顔負けである。



 ……イカ焼きなどここにいれば、いくらでも食わせてやるのに。



 熱々のイカ焼きを頬張りながら吟味する。俺はこの界隈で漁師をしており、息子の壮太は長崎でスキューバダイビングのインストラクターの講師をしていた。地元に帰ってきたのも、渚に綺麗な海を見せるためだそうだ。まさか、それがこんな大事件になるとは思ってもいなかった。



 ……しかし海での事故はつきものだ。



 俺の気持ちはすでに凪いでいる。海と共に生きる者としてその覚悟は常に持っているし、海で亡くなった者を少なからず知っているからだ。きっと壮太自身もわかっているだろう、不幸な事故とはいえ、その可能性はゼロではないことを。


 だが渚は違う。海の素晴らしさを知るためにこの南国に来て、海の怖さを知って地元に帰るのだ。彼女の地元は水産産業が盛んだと聞いている、伝え方を間違えると人の一生が狂ってしまう可能性がある。


「おじいちゃん、もう食べんと?」


「渚、まだ入るんか?」


「うん、食べたい」


「……そうか」



 ……再び食いやすい大きさに変えてやろうかな。



 そう思いながらも、そのまま渡すことにした。彼女の食べ方を見るためだ。


 先ほど綿菓子で失敗していたが、今度はきちんとイカの形状を見て顔につかないように食べ始めた。ちゃんと学習できる頭のいい子だ。


「今度は綺麗に食うことができたな」


 俺が褒めると、渚は満開の笑顔を見せた。


「うん! こぼしたらもったいないもの!」


 彼女は得意げにいう。


「海の食べものは全部すき、だって全部おいしーんだもの!」


「……そうか、それはいいことだな」


 頷きながら彼女の目をちゃんと見ることができない。やはりこの笑顔を消す方法を俺はまだ知らない。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「おじいちゃん、喉渇いた」


「渚、さんぴん茶は知っとるか?」


「知らない」


「それじゃあ、それを飲もうか」


 俺は冷えたさんぴん茶のペットボトルを二本買い、彼女に手渡した。


「んー変な匂いがするけど、おいしー」


「……お前にはまだ早かったか」


 ジャスミンの香りが鼻を突き抜けて気持ちが和らいでいく。屋台の先にある海の果てを眺めながら、この先のことについてぼんやりと考えていく。



 ……葬儀を終えた後、渚はどうすればいいのだろう。



 少しだけ遠い未来を想像する。彼女を実家に戻してもいいが、あちらのご両親の方が年配で大変だろう。保険金が下りるとはいえ、彼女が成人するまで考えれば体が持つかどうかわからない。


俺と早苗はぎりぎり40代だから、何とか大人になるまでは育てることはできる。



 ……俺が考えていい内容じゃ、ないな。



 船の上で子育てを放棄していた者が心配することではないと思い、自重する。全ての権限は家内の早苗にあるのだ。


 今頃彼女は通夜の段取りを組んでいるだろう。長崎の祖父母も参加するだろうし、日は伸びるかもしれない。


「見て、おじいちゃん」


 彼女の視線の先にはペットボトルがあった。何を見せたいのかわからない。よく見ると、ペットボトルが汗を掻くように露をつけていた、きっと暖まってできたのだろう。


「ああ、これか。水滴が出てきたな」


「ほら、ここ見て、ここにたくさんイクラがおる」


 そういって渚はただの露を輝く宝石のように覗き込む。祭りの光も相まってさんぴん茶が赤く光り、よく見ればイクラに見えなくもない。


「そうやな。渚はそんなに海の食べ物が好きなんか?」


「うん、すきー。一番好きなのはウミウシ」


「げっ、お前、あんな気持ち悪いのが好きなんか?」


「うん。かわいいもん。カキみたいで」



 ……それは可愛いとはいわないだろう。



 心の中で彼女に突っ込む。全く、子供の発想力には敵わない。


 この年でカキの味がわかるようなら、恵まれているだろう。魚介が嫌いで泳げない沖縄県民もいるからだ。皆、地元のイメージで踊りが上手い、酒が強いなど、様々なイメージを持つが、誰しもが馴染んでいるわけではない。俺の漁師仲間でも東京出身の奴だって大勢いる。


「おじいちゃん、あそこ、金魚がたくさんおる」


 彼女は珍しそうに小型のプールに住む金魚たちを覗き込んだ。赤と黒の二色しかいないが、数も相まって配色が時間と共に変わっていき、綺麗だ。


「ねえ、おじいちゃん。すくって」


「ああ、いいぞ」


 俺は無言のプレッシャーを屋台の頭首に掛ける。今日は孫の笑顔を崩すわけにはいかないのだ。


「お、大槻さん。そんな凄まれても網は変わりませんよ……。三枚だけですからね」


「ああ、でも取れなかったらわかってるだろうな……?」


 下手な脅しだが、掛けないよりはマシだ。渚の前でズルをするわけにもいかないし、確実に取る方法を考えなければならない。


 そっと網を水の中に染み込ませると、やんわりと紙が剥がれていった。金魚をすくう前にただのわっかになっていく。


「……おい。まさか去年の使いまわしじゃないよな?」


「……そんなこと、あるかも……です」


 俺達の顔から血の気が引いていく。だからといってここで投げるわけにはいかない。



 ……そうだ、あれを使うか。



 俺は余っていた綿菓子を千切り、鯉の餌のように撒きポイントを作った。その後、貰った網を三枚綺麗に重ねず、わっかの端の面積を増やして掬い上げた。


「おー、おじいちゃん、凄い」


 渚は俺の反則技に突っ込まず、取れた金魚に見とれていた。数を確認すると三匹以上いる、これで面子も保たれるだろう。


 店主はほっとして胸を撫で下ろしていた。その手には保険で取り置きしていた二匹の金魚があり、彼らは恨めしそうにこちらを覗いていた。



「おじいちゃん、くれてありがとー」



 渚の顔を見ると、再び満面の笑みだった。彼女の言葉の意味がわからずにただ立ち尽くしていると、彼女は腕を組みながら鼻をふんと鳴らした。


「おじいちゃん。うちも大きくなったらおじいちゃんみたいに漁師になる!」


「何をいってるんだ、渚」


「うちも海が大好き。だからおじいちゃんみたいに魚を一杯釣りたいな」


 渚の声に懐かしい響きを覚える。あれは壮太とここに来た時の思い出だ。


 あの時も金魚を取っていて、ズルをしたのだ。だがそれを壮太は見抜き溜息をついていた。



 ……懐かしいな、あの時も確か、この香りがあった。



 俺はさんぴん茶を口に含み息子との数少ない思い出を反芻した。



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆



「とーちゃん、全然取れないじゃん」


「うるせー! 俺は魚を取ることで負けたことはないんだよ!」


「でもこれは金魚だよ」


「金魚も魚じゃ! 壮太、待ってろ! あのでかい金魚取ってやるからなっ!!」


 俺が躍起になって大物を観察すると、壮太は小さく溜息をついた。船の生活が長く、彼は俺のことを父親と見なしていない。ここで名誉挽回したいのだが、これが思うようにいかないのだ。


「別にオレ……小さいのでいいよ……」


「駄目だ! 海の男がそんなこといっちゃいかん!」


 俺は自分に言い聞かせるようにして大物を狙ったが、すでに膜は半分破れていた。こうなれば奥の手を使うしかない。


「ほら、見ろ! 壮太、大物が釣れたぞ!」


「ずるじゃん、二枚使ってるじゃん」


「ずるじゃない!」


 俺は躍起になって説明した。


「魚を取る時も、一つじゃなくて二つ使う時もあるんだ。大きい魚の時は特にな!」


「そんなことよりさ、花火、終わっちゃったよ……」


 周りを見ると、すでに客は引いており、花火を見終えた客が帰っていく姿が見えた。


「花火はまた来年でいいじゃないか。今日は帰ってこいつの鉢を用意しよう」


「また都合がいいこといって……」


 壮太の顔が曇る。


「とうちゃん、来年もここにいるかわからないじゃん。いっつもいて欲しい時にいないのに、こういう時だけずるいよ」


 俺は壮太の頭を優しく撫でゆっくりと謝罪した。


「ああ、ごめんな、壮太……」


 言い訳なんかいくらでもできる、と思った。お前のため、生活のため、口でいうことはできるが、全部自分のためだ。漁師を辞めればこいつと一緒にいることはできる。ただ自分が辞めれないから、俺はずっと猟師を続けている。


「そんなに楽しいの? 海」


「ああ」


 はっきりと本心を告げる。


「一度船に乗って漁に出ればわかる。お前にも早く味わせてやりたいよ」


「うん、オレも海が好きだよ!」


 壮太は満開の笑顔でいった。


「俺もとーちゃんみたいな海の男に早くなりたいよ」


「それがいい」


 大きく頷き彼の手を強く握る。


「だが俺は厳しいからな! ちゃんとついて来いよ、壮太?」




  ◆◆◆◆◆◆◆◆◆




「……おじいちゃん?」


 俺は我に返り、渚を見た。そこにはもう壮太の影はなくなっており、金魚袋を掴んでさんぴん茶を飲んでいる彼女だけだった。すでに花火も鳴り始めている。


 花火の光がビニール袋にいる金魚の色彩を変えていく。まるで深海にいる魚のようだ、色が変わるだけで大人になっていくように感じてしまう。


「……渚。お前は今、8歳だよな?」


「うん、そうだよ」


「……そうか」


 彼女が成人しても俺はまだ還暦だ。大丈夫、子供一人くらいなら育てられる。遠洋漁業ではなく、近場の魚を取りにいってもいい。なんなら漁師でなくてもいい。


 ともかく今はこいつのそばにいたい。


「……渚。話がある」


 真面目な声でいうと、彼女はびくりと背を伸ばし恐れるように俺を見た。


「おじいちゃん。どうしたん?」



「お前、しばらくの間……うちに、いるか?」



 一つの間が空いて、渚は突然プロポーズされたような顔で俺を見た。


「すごい……。おじいちゃんの家、いるか、おったん。どこ?」


「……いるかはおらん」


「……なんだ、おらんの。もしかしてもう食べたと?」


「食べてないわ、あほ!」


 俺は花火に負けじと大声でいった。


「しばらく家に住むか、ということや。今は夏休みやろ、父ちゃん達にはいっとくから。ここにおれば長崎じゃ食えん魚、腹一杯食えるぞ!」


「ほんと? なら、ここにおる」


 渚は打ち上げ花火と同じように満開の笑みを見せた。壮太が見せたものと同じだった。



 ……今度こそ、生まれ変わろう。



 胸の内で壮太に悔やみながらも思う。何もしてこなかった自分が今更、親代わりになることはできないが、もう一度親になるというのなら別だ。孫のためにもう一度、父親として生まれ変れるのであれば、変わりたい。


 これは神が俺に与えた試練なのだ。



「……おじいちゃん。くれてありがとうね」



「え?」


「金魚、掬ってくれてありがとね」



 ……ああ、そうか。そういうことだったんだ。



 渚の言葉を受けて再び自分自身を責め続ける。渚の心を救いたいのではなく、俺は過去を変えたいだけなのだ。


 俺自身の心も、壮太の心も、全て俺が果せなかったものを含めて――。



 もう言い訳はよそう、救われたいのは俺だ。その上で彼女を救いたいのだ。



「……渚、共に生きよう」


 渚の肩を掴みながら、彼女の金魚たちにもきちんと伝わるようにゆっくりと告げる。


「こいつらも俺が掬ったんだ。必ず、長生きさせてやる。お前も……俺が……俺を……救ってくれてありがとう」


 ビニール袋で楽しそうに泳いでいる金魚達に誓った。こいつらも皆、限りある命だ。俺が掬った命を無駄にするわけにはいかない。こいつらも皆、俺の家族だ。


 家族を守るのが父親の役目だ。また家族に守られるのも父親の役目なのだ。


「意味わからん。おじいちゃんはすくってないよ?」


「いいんだ。わからなくて……」


「そう? おじいちゃん、この子らは何色になるやろうね?」


「金魚は成長すると色が変わるから、今はまだわからないな」



 ……お前は何色に成長するだろうな。



 金魚を覗いている渚を見て思う。彼女の未来を想像すると、不思議と心が軽くなっていく。これが父親としての心なのか、今はまだわからない。



 ……壮太、後は任せておけよ。お前ができなかったことも全て俺がこの子に託してやるからな。



「よし、帰ろうか、渚」


「うん!」


 彼女の小さな手を再び握り心に熱い魂が宿っていく。この思いが燃え尽きるまで、俺は彼女を守ってみせる。



 ……しかしあいつの家、どうするかな。



 壮太の件を伝えることを放棄しながらも、俺達は家路を急ぐ。渚が眠ってしまったため、これ以上は先送りにするしかないからだ。


 

 ……渚の部屋と一緒に、考えるか。



 渚を背負いながら今後の課題に頭を悩ませる。現実逃避だとはわかっているが、今、できることはこれしかない。



  ……とりあえず同じ所で、ええか。



 緊急の課題、それは今も巨大化し続けている一代目の金魚をどこに住まわせるかということだ。

 

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