文字数7000 ジャンル『純文学 不倫』 タイトル『隻眼のエデン』





  ……さあ、目を閉じて。私の心の奥底まで、あなたの色で、私を、濁して。





 私は想像する、色のある楽園を。


 彼の穏やかな声を聞きながら、イメージを膨らませていく。一つ、一つのものを形作っていくと、そこには彼の世界が創造されていく。


 生命を育む土の色を、柔らかな植物の色を、妖艶な匂いがする花を、甘く熟した果実の色を――。


 植物が様々な形に変化していく姿を私はただ、頭の中で構築し、彼の言葉と共に色のついた粒子で思い浮かべる。それが唯一、私が私でいられる時間になっていく。


 彼は私の眼を所有しており、彼の言葉が私を上質な物語へと誘ってくれる。彼のおかげで私は恋を知り、愛を覚え、そして終には禁断の密愛を抱いてしまう。


 破滅してもいい。彼となら、私はどこまでも堕ちていける覚悟がある。彼に貰ったネックレスに思いを込め、私は一つ一つの感覚を失っていく。


 そう、彼が私のたった一つの瞳・隻眼(せきがん)のエデン――。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 

 ごぼごぼと炭酸を含んだ泡が一定のリズムで零れる。室内機と室外機の低音が穏やかに響き、仄かなBGMがまどろんでいく。この一定のリズムが心地いい。


「今回の旅行では……どんな写真を撮ったんですか……?」


 私が先生に尋ねると、彼は穏やかな声でいった。


「今回はね、夫婦めおと杉と呼ばれる屋久杉を撮りにいったんだ」


 彼はそういって鹿児島かごしまにある屋久島やくしまという孤島の説明を始めた。昔から杉が有名で、観光客の多くは縄文杉と呼ばれる天空に聳え立つ樹を目指すこと、だけど彼は夫婦杉だけを撮りにいったらしい。


「どんな……杉なんですか……?」


 私は肩に温泉を掛け直していった。湯が背中を通り抜けていく感覚に心を落ち着かせながら先生の言葉を待つ。


「2000年生きた杉と1500年生きた杉が大きな節で繋がっているんだよ。年齢が上がれば上がるほど、お互いに繋がろうとはしないのだけど、この杉は特殊でね。遥か上空で繋がっているんだ」


 先生はそういって夫婦杉の説明を始める。


 2000年生きた杉が男だけど1500年生きた女の方が背が伸びていること、男が女を繋ぎ止めるように節を延ばしていること。


「どうして……彼女の方が……背が高いのですか……?」


「きっと彼が支えることに成功したからだよ。彼女はただ上に伸びるだけに専念できるようになったんだ。だから彼の方が太く短い」


 私は先生の言葉を聞き、本で読んだ一つの切り株を想像した。屋久島の杉は地上にまで根がはびこっており、切り株の上に生えたものは1000年単位で生きることができる。それは倒された木によって空いた光を受け止めるからだ。生存競争が激しい杉の世界では皆、貪欲で、ただ上へまっすぐ伸びることだけを目指している。


「……彼女は……幸せ者ですね……」


 私は彼女の心を代弁するようにいった。


「ただまっすぐに……伸びることを許されるなんて……羨ましいです……」


「……そうだね」


 先生は穏やかな声で頷く。その声は私の心を落ち着かせてくれる。彼の声はこの湯気の風に乗りながら、私の体を温泉のように温めほぐしてくれる。


 一つの会話が終わると、再び温泉の湧き出る音が強く聴こえるようになった。もちろんこの静寂の時間も嫌いじゃない。普段、耳に神経を集中しているせいか、雑音でも一定のリズムを有しているのであれば、リラックスできるのだ。


 私は盲目で、先生がいなければこういった温泉施設にくることはできない。彼とは一年に一度、豪華な家族風呂に来ることができるのだ。一般の人にとっては普通の施設になるのかもしれないけど、私にとってはそれが楽園のように感じられてしまう。


「今年も……来れてよかったです……先生と……一緒に……」


「……僕もだよ、君といる時間が一番安らぐ」


 私は整体の仕事をしており資格を取っている。先生と出会ったのは私の職場の整体所だ。彼は私の常連で次第に惹かれあい、やがて恋人となった。


「最近……絵の話は聞かないですが……描いて……いるのですか……?」


「もちろん、描いてるよ」


 先生は絵描きを趣味とし、本業は写真家だと聞いている。撮影のために日本各地を回り、ずっしりと重たいカメラに望遠鏡のような長いレンズを繋ぎ合わせ景色を撮っていくのだ。


 私は先生が描いた絵と写真を想像する。きっと彼の絵はたくさんの色に満ちており、たくさんの花が映っているのだろう。見えない絵を想像するだけで私の思いは宙へ浮き、心臓が分離するような感覚を覚える。


「そう……なんですね……よかった……」


 私はほっと吐息を漏らしながら肩を湯に沈める。


 私のためを思ってか、最近の彼は絵よりも写真の話の方が多い。きっと抽象画は説明しにくいからだろう。美術館の音声説明でも年代・技法が多く、作品そのものについての説明は少ないからだ。


 だがそれよりも、もう一つ大きな点は彼女が関与しているからだ――。


「私……気にしていませんよ。奥さんの……話題が出ることも……」


 私は彼の大きな肩甲骨を伸ばし整体していく。お湯を含み柔らかくなっていく彼の体に快感を覚えていく。


「別にそういうわけじゃないんだよ、もちろん君といる間は君のことを考えたいとは思っているけど……」


 先生は言葉を濁す度にみぞおちの部分が硬くなっていく。それは彼が無理をしていることでもあり、体を強張らせていくのだ。


「……いいんです。私……先生と一緒にいれるだけで……幸せですから……」


 後ろから彼をゆっくりと抱きしめる。みぞおちの部分を軽く捻り筋膜を和らげていく。硬くなっていた所を力一杯揉んでもよくはならないからだ。表面の鍵を開けるようにそっと緩めれば、内にある筋肉は回復へと向かう。


「僕もだよ。君といる時が一番、幸せだと思う」


「そんなこと……いわないで下さい……。先生から離れることが……できなくなるじゃないですか……」


「嘘じゃないよ。僕は――」


「先生が一番愛していいのは……奥さんだけです……」


 先生の背中から離れながら告げる。先生の妻は画家で、お互い美術大学で知り合ったらしい。彼は彼女の才能を知って自分自身の限界を感じ、写真に移ったとも聞いている。


「奥さんも……先生の一部なのですから……私は……奥さんのことも……きちんと知っておきたいんです……」


「……次の場所に行こうか、美月みつき


 そういって先生は私の腕を優しく掴んだ。


 それだけで私の腕は火傷したように熱を帯び、再び心臓へとリンクして彼への思いが再燃していく。


「……はい、先生」



 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 

「先生……ここの景色は……今、どうなっていますか……?」


「今は紅葉が見頃だよ」


 先生は一度空咳をして私の肩に触れる。


 私は柔らかい楓の葉を想像する。楓は水揚げが悪く切り花としては向かない。きちんと根がなければ葉を維持できないのだ。


 地面から離れることができない楓の葉に私は同じ思いを抱く。


「今僕達が浸かっている温泉はシルクに染まった牛乳風呂だ。ここからまっすぐに行くと、一人用の桶風呂が二つある。その左に大きな楓の木が三本あって、一本は真っ赤に染まっている」


「残り二本は……どうなっていますか……?」


「仄かな若草色から鮮やかな刈安かりやす色に染まっているよ、真ん中の木は真っ赤ではなくて臙脂えんじ色だね」


 先生の言葉を頼りに私は色を想像する。今まで色について個人的に解釈を施してきたが、彼は私に果物を使って色を教えてくれた。


 林檎なら赤、桃ならピンク、ぶどうは紫、黄色はパイナップル、橙色はみかん、青は熟していないものという風に教わった。


 それが楽しくて私は色に興味を持ち、色の名前を点字で覚えていった。赤は赤でもたくさんの種類がある。夕日のようなあかね色、紅花で染めた韓紅からくれない色、赤黒い臙脂えんじ色……赤は国によっても代表色が違い、国の文化が色濃く反映されている。


 数字で色彩を表すRGBで記憶していた色を思い浮かべていくと、そこには一本の楓の木が風に揺られていた。気温の変化で色が大きく変わる楓の葉はきっと温泉の湯気を丹念に浴びながら、ほんのりと色付けていくのだろう。


 私は想像する。彼の言葉から生まれていく、世界を――。


 両親と養護教師から疎まれた暗闇の世界から切り離された所へ――。


「……いいですね……。きっと実際に見れたら……もっと綺麗なんでしょうね……」


 穏やかな日差しを浴びながら、私は彼と一緒に2人だけで色の旅に出る。彼にはきちんとした家庭があり、私達には昼の時間しか会うことができない。それでもこの限られた時間で私は精一杯に彼の言葉を覚え、彼の体温を感じ取りながら彼との逢瀬を重ねていく。


「ああ、もちろん。でも君の方がずっと綺麗だよ」


 先生はそういいながら柔らかい手で私の体を撫でていく。熱を帯びた楓の葉が私の全身を隈なく巡り、私の血は悲鳴を上げながら沸騰していく。


「先生……」


 私は彼の方に首を回し口付けを待った。背中が彼の体温を吸収し一層鼓動が激しくなる。彼と唇を重ねると落ち着きを取り戻し彼と同化していく。


「先生……もっと……私に触って下さい……」


 彼に触れられながら私は熟れた果実を想像する。私の体は何色なのだろうか、彼は私の体で満足できているのか、青い果実の頃に出会っていれば、私だけを愛してくれていたのだろうか、それとも――。


 私は想像するしかない。言葉を交わすことができない植物のように、私はただ彼を見つめ寄り添い、ただ求められるままに伸びていくだけ。


「美月……」


「私のことは……今だけでいいんです……」



 ……妻の杉は夫とたった一つの節と繋がるだけで安堵できているのだろうか。


 先生と繋がりながらも先ほど聴いた夫婦杉をイメージしてしまう。彼女は彼と繋がるだけで、それが彼の全てだと信じて疑わないのだろうか。真実を知らなくても、まっすぐに上に伸びることはできるのだろうか。何も疑わずに自分を支えてくれている彼の全てを肯定していけるのだろうか。


 ……私には、きっと、できない。


「……先生、お願いですから……私に養分を下さい……。今のままじゃ私、我慢……できないんです……」


 私は先生に触れながら懇願する。今の狭い関係では根が絡まり過ぎて根腐れを起こしてしまいそうだ。もっと広い鉢に、もっと大きな関係へと植え替えてくれなければ、私のこの、肥大した欲は収まりそうにない。


「奥さんは……夫婦杉を見て何と……いってました……?」


 先生と一層激しい口付けを交わした後、私は彼に頭を預けていった。


「奥さんの描いた絵も……教えて下さい……。私は全てを……知りたいんです……先生……」


 もちろんこれは推測だ。先生が妻と旅行に行ったなどというはずもない。だが私は想像する。旅行中の彼と彼女を想像し、彼らの楽園を創造する。


 そこには本当の色が満ちているのか、確信は持てない。だが彼が彼女のことを愛しているのはわかる。彼女がいたからこそ、私は彼に出会えたのだという確信が満ちているのだ。


 彼の体を、度に、どうしようもなく――。


「先生が愛した人を知りたいんです……。私は先生の全てを……愛せる自信があります……。あなたの嘘も、全部……」


 私は先生の嘘を受け取り、精一杯につるを伸ばす。その嘘には優しさが含まれているが、光はもう見えない。


 私達の関係は終焉へと向かっていることを、この肌が、この耳が、くまなく教えてくれる。


「夫婦杉は……どんな色をしているのですか? 煉瓦れんが色のように赤を帯びた茶色ですか……それとも亜麻あま色のように黄色を帯びた茶色ですか、それとも……」


「……美月」


「訊きたいんです。先生の口から、先生の声から……だって、今日でお別れになるのでしょう?」




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 私達は体を重ねあった後、一人用の樽風呂にそれぞれ入った。湯が柔らかく自分の寸法にあった絹の衣を纏っているようだ。


「……美月、大事な話がある」


「はい……」


 私は覚悟をして胸元にあるペンダントを握った。風呂場でもつけてきたのは彼に返すためだ。


「僕のことを恨んで貰って構わない。だから、僕と……別れてくれないか」


「それは嫌です」


 私は首を振ってはっきりといった。


「先生のことを恨むつもりはありません。でも……きちんと……別れますよ……」


 私はペンダントを外し先生の方に手渡す。


 彼も限界だったのだろう。彼の左手には結婚指輪が嵌められており、指でなぞられた時、ひんやりとした感覚が別れを予感させていた。


 もしかすると彼の妻が私達のことに気づいたのかもしれない。


「そんな、どうして……僕は自分の都合で君を……」


 先生はうろたえるような声を出しながら肩を掴んでくる。自分から切り出したのに、まるで私が別れを告げているようだ。


「私は……先生のことが……好きです……。だから嫌いになんて……なれません……」


 きちんと先生に伝わるよう思いを込めていう。


「私にとって先生といることは……夢のような時間だったんです……。色のない私に……先生がたくさんのことを教えて下さったんです……だからあなたを苦しめて不幸になんて……したくない……」


 彼はきっと家庭と私を両天秤になど掛けていなかったのだろう。純粋に私のことを思って助けてくれていた。初めは私に色の大切さを教えてくれた、ただそれだけだったはずなのに――。


 それでもここまで来てしまったのは私の責任だ。彼と一緒の時間を共有し、色の旅に出ようと提案してしまったのだから。


「私がいけないんです……。あなたの体に触ることを止められなかったから……それがいけないことだとわかっていたのに……」


 先生と逢瀬を重ねるうちに、彼の体を無意識に触るようになってしまった。普通の彼女だったら、何の問題もないのだろう。だがある日、彼の体を回復に向けることが彼の妻への背徳行為になると知ってしまった。


「私は……今までの思い出だけで充分です……。もう独りでも生きていけるくらいにはたくさんのものを頂きましたから……。だから……先生は……私のことを忘れて下さい……」


「み、美月……」


「愛してます、心から。私と出会って下さって、ありがとうございました……」



 先生の一人風呂からお湯が大量に漏れる音がした。その後、すぐに私の桶風呂から湯が溢れ始めた。


「美月……僕はもう、君なしでは考えられない」


「駄目ですよ、先生……。このまま別れないと……また後悔……しますよ……?」


「後悔してもいい」


 先生は私を強く抱きしめて何度も頷く。


「その代わり、一つだけ訊いて欲しいことがある」


「先生の妻も……で目が見えないということですか?」


「……どうして、それを?」


 先生は狭い風呂の中で距離を置こうとするが離れることはできない。

小さく空咳をした後、私は呟くように答えた。


「目で見えなくても私は整体師です……。先生の体を奥さんと共有しているのだから、私はわかってしまうんです……。だから奥さんも……私のことに気づいていると思います」


 先生の奥さんが始めから盲目なのかはわからない。けど彼女が盲目だということはわかってしまうのだ。私達は彼の体を通して会話をしてしまっているのだ。


 それは私達にしかできない感覚だけの意思疎通で目や口でするよりもずっと確かなものだ。


「奥さんもあなたの一部です……。奥さんが弱れば先生も弱ってしまいます。あなたは優しいから、きっと奥さんの気持ちを自分に置き換えてしまってるんです。だから私には……それも耐えられないんです……」


 私が先生を整体する度に、彼女は気が狂ってしまうのだろう。自分が管理していた体が何もせずともよくなっていくのだ。彼女は存在意義を失い、落ち込んでいく姿が浮かんでいく。


「……そうか。知っていたんだね」


 先生は私に湯を掛けながらいう。


「僕にとって君達はどちらとも大事だ。だから君だけを不幸にしたいわけじゃない。でも……君の気持ちを考えたらずっといえなかった……すまない」


「……謝らないで下さい、先生……」


 私は彼の背中を撫でながら告げる。


「私はこれでいいんです……。夫婦杉だって地中までは誰と繋がっているか見えません。それが解かれたって……誰も気にしませんよ……」


「じゃあ再び繋がったとしても、君はいいのか?」


「もちろんそれも受け入れます……」


 私は迷うことなくいった。


「先生は私の光です……。植物は光を浴びる時点で……成長を止めることはできません……。それがたとえ、地獄の……世界へと繋がっているとしても……」


「……そうか」


 先生はそういうと手に持ったネックレスを再び私の胸へと繋げていった。


「僕と一緒に堕ちてくれるか、美月?」


「はい、どこまでも……」


 私は本心を述べて先生の肩甲骨をゆっくりとほぐしていく。


「仮に先生の瞳がなくなったとしても……お付き合いしますよ……」


 私達は互いの根を張り合わせながらシルクの湯と一体化していく。


 たとえ先生の奥さんに私の色を奪われても、いい。


 先生が一緒にいるのなら、モノクロの世界でも、真っ白な世界でも、闇のように黒い世界でも――。



「……早く私の体を濁して下さい。温泉だけじゃなくて、先生のぬくもりで……」



 私は最果ての景色を見るために、先生と共に旅に出る。


 いつの日か、二人で静寂を共有できる盲目のエデンへと――。

 


 

 

 


 


 

 

 

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