もしも高校教師がマインドコントロールを学んだら

バロウズ

第1話出会い

バーのボックス席には、ふたりの男と一人の女の姿が見えた。男の内の一人は年若く、もう一人は中年だった。

中年の隣には、二十代後半と思しき女が静かに座っている。


相手の男に対して、倉田は恐縮していた。相手の男──北見、年齢は四十代半ば、中肉中背で縦縞模様のボルサリーノのスーツを着こなしている。

それと比べて倉田は二十代前半、童顔でスーツは青山で買った吊るしだ。男として、すでに貫禄負けしている。


北見がおもむろに口を開く。

「いいかい、人間は支配されたいと思う者と支配したいと思う者に分かれている。


洗脳されたい、マインドコントロールされたい、洗脳したい、マインドコントロールしたい、この二つのタイプだ。

性癖だって嗜好だってそうだ。SとMがいるように。それなのに何でもかんでも平等だと押し付けるからおかしくなる。


だが、それが今の風潮だ。だから今の世の中は変になっている。近世の主従関係がはっきりしていた時代のほうが平和だった。

今の中国や崩壊したかつてのソ連を見てみるといい。あれこそ押し付けられた平等だ。

いいか、人間は主従関係こそが正しい関係なんだよ。誰もが対等の関係なんて退屈だし、互いに言いたい放題言い合えば慎みも消える」


北見の話に倉田が頷いた。倉田は何も言い返せなかった。北見に対して。

「その通りだと思います」

北見が倉田に向かって、傲然とした態度を取りながら話を続ける。


「幸恵から倉田君の話は聞いていた。幸恵が人妻なのは知っているな。勿論、私の妻ではない。

私は今の夫から幸恵を寝取って自分の奴隷にした。幸恵には元々素養があったからな。

それだって色々と手を企てないといけない。亭主にばれれば元も子もなくなってしまうからな。だからうまい言い訳を教えてやったり、


ブランド物で着飾れるようにモデルとして登録させた。モデルになればブランド品が半額で買えるからと夫に嘘を吹き込ませてな。

いいか、幸恵が君に抱かれたのはマスターの私がそう命じたからだ。君はそこを勘違いしてはいけない。

そして君にそこまでの計画性があるのか。私にはあるようには見えないが」


倉田は俯いたきり、押し黙った。そこに突然、男が二人の会話を遮るように割って入る。

「服従には反抗心が潜むって言葉知ってるかい、オッサンよ。さっきからくだらねえ事ペラペラ喋りやがって。酒が不味くなるんだよ」


突然、話に割り込んできた男。予想もしなかった闖入者に一瞬、北見が呆気に囚われる。

男は浅黒く、彫りの深い顔立ちをしていた。

「いいか、主従だろうが平等だろうが他人から強制されれば、人間は反発するか、さもなきゃ無気力になるんだよ。

そもそも押し付けっていうのが対等じゃねえだろう。オッサンよ、あんたセリグマンの犬の実験や、


ランガーとローディンの老人ホーム実験聞いた事あるか?犬も年寄りも選択権を奪われると無気力に陥るって話だけどよ。

それこそ歴史を振り返って見りゃいい。革命ってのはどんな時に起こる?フランス革命だってなんだってよ

あれは上が下を押さえつけてたから起こったんだぜ」


男は饒舌だった。三人を無視するかのように一人勝手にまくしたてる。

大仰に身振りかぶりで腕を振り回しながら。

「それこそよ、他人を支配したいとも他人にされたいとも思わない人間なんてゴロゴロいるぞ。

良く聞け、オッサン、奴隷にも主人にもSにもMにも興味のない奴なんざ世の中にゃゴマンといる。

所でバイアスって知ってるか。根拠のない思い込みのことさ。


心理学者のダニエル・カーネマンってのはこういう思い込みをバイアスっていったんだ。

あんたのその持論はバイアスと主観にまみれてて、反証も根拠も何もない。話を元に戻そうか。

大事なのはな、互いにその関係を望んだかどうかなんだよ。支配したい。それは結構。支配されたい。それも結構だ。

ただよ、だからっつって何でもかんでも主従にしていいもんでもねえ。対等な関係を望んでる奴らだっているんだ。


いいか、対等な立場だから言いたい放題言うんじゃねえ。それは個々の人間の性格なんだよ。対等だろうが主従関係だろうが、

SだろうがMだろうが、慎みのねえ奴は慎みがねえし、逆もまた然りだ。そこをよ、馬鹿な奴は勘違いすんだよな」


北見が怒気を孕ませた声で低く唸った。

「なんだね、君は。突然私達の会話に割って入ってきて、失礼じゃないかっ」

男が唇を歪め、乱杭歯を覗かせた。北見の怒りなど意に関せずとでもいいたげに。

男の態度に北見は一瞬、たじろぎを見せた。


「心理学者のウィリアム・アップルってのが声についての説得力について研究したんだけどよ、

落ち着いた低い声っていうのは相手に信頼感や有能感を与えるんだよ。

ついでに言えばオッサンの無表情、これはアミー・ハルバースタットの研究だろう。


人間っていうのは無表情な相手に対して威圧感をかんじるんだ。

そして、あんたのスーツ、これも心理学者のジョン・モロイやL・ビックマンが言ってるけどよ、

人間は相手の服装で強そうか、弱そうか、権威があるかどうかを判断するのさ」

男が北見のスーツに指を這わせた。眉を顰める北見。倉田は突然の展開に目を白黒させた。


「それにしても良いスーツだな。ボルサリーノかい。特に縦縞ってのがいい。

垂直線の模様ってのも人に力強さを感じさせるんだ。だから企業の重役やイタリアンマフィア、

それからヤクザなんかはボルサリーノのスーツを着る。でもよ、こんなもん手品と同じなんだよ。


仕掛けがわかりゃ、面白くもなんともねえのさ」

北見のスーツから指を離し、男が倉田のほうへと振り返った。

「兄さんもよ、こんなオッサンにヘイコラすることねえよ。人間の本当の実力なんてよ、裸になって見ねえとわかんねえもんだよ」


倉田が男をチラッと覗くように見た。どこかはにかんでいる様にも見えた。男は歯を見せて笑った。

「さっきから黙って聞いていれば好き勝手に私を侮辱するような言葉を吐き散らして、一体君は何者なんだねっ、

関係がないなら引っ込んでいたまえッッ!」


北見が大声を張り上げて怒鳴った。怒鳴り声をあげながらも目の前にいる男に対して酷い不安と屈辱感を抱いていた。

何を考えているのか全く理解できない。少なくともただの酔っ払いには見えない。

酔っ払いにしては理性的だ。だからといって、真っ当な人間だとも思えない。


少なくともこれまで歩んできた人生の中で、北見は目の前にいる男のようなタイプの人間を見たことがなかった。

そして何より腹が立つのは、男の言葉の一つ一つが、嫌味なくらいこちらの心をえぐってくるということだ。


契約や商談、それから部下などの目下の者への命令もこの表情と恰好でうまくやってきた。

人間という者は外見と表情、そして態度で相手を侮りもすれば怯えもする。

今回も若造ひとり、どうにでもなると思っていた。所が思わぬ伏兵が潜んでいた。


北見は倉田を覗いた。もしかしたらこの二人は裏で組んでいるのではないのか。

余りにも話が出来過ぎている。この倉田という若造、実はとんでもない食わせ者かもしれない。

北見はこれまで上っ面のハッタリと自信ありげな見せかけの態度だけで世の中を上手く渡ってきた。


誰もが北見のハッタリを信じ込んだ。だからこそ今の財産と地位を築けた。

ところがだ、この得体の知れぬ男はまるで見透かしてくるかのようにこちらの図星をついてくる。

ばれたハッタリほど惨めなものはない。


怒りと恥辱感に沸騰する脳内、北見はぶん殴っててもこの男を黙らせようと考えた。

これ以上の屈辱には耐えられないからだ。言葉の暴力には拳の暴力でやりかえしてやる。

拳を固く握りしめ、男に一発お見舞いしてやろうとしたその瞬間、男がそれよりも先に口を開いた。

「義男、この名前知ってるだろう?」

男が告げた名前。耳にした途端、北見と隣に座っていた女の表情が硬直した。


「幸恵さん、いくら欲求不満でもさ、こんな奴に引っかかっちゃいけないよ。安心しなよ。旦那にゃ、まだ、ばれてねえ。

あんたの様子を見ておかしいと思ったのは姑の達子さんなんだよ。でよ、達子さんにあんたを調べてくれって頼まれてね」


男が北見のほうを見た。北見が気まずそうに視線を逸らす。

「旦那は騙せてもよ、姑までは騙せなかったな。オッサンよ。ローゼンサールって心理学者の実験でよ、

男と比べて女は相手の表情や仕草で嘘を見抜くのがうまいってわかってるんだぜ。


まあ、亀の甲より年の功ってのもあるんだろうけどな。大した婆さんだよ。しかしよ、オッサンも婿養子で嫁さんに頭あがらねえからってよ、

他人の嫁さん寝取ることもねえだろうがよ。まあ、気持ちはわからねえでもねえけどさ。日頃から抑えつけられてる奴ってストレス溜まって、

サディストになるのも多いんだよな。この不倫、オッサンの嫁さんにばれたら離婚ものだな。

嫁さんの親父さんのお情けでオッサン、重役になれたんだろう。だったら今の会社も追い出されることになるぜ」


喋りながら男が肩を竦ませて猫背になると、北見の横顔を覗きこむ。ガラス玉のように冷たい眼で。

先ほどの饒舌さとは裏腹に男はそれから一言も喋らず、身じろぎもしなかった。

冷ややかな視線に晒され、耐え切れなくなった北見が男から顔を背ける。

額から脂汗を滲ませながら、北見は悔しそうに唇を噛んだ。


「それで……いくら欲しいんだ?」

男が顎の辺りを撫でつけながら北見の耳元で囁いた。

「それを言ったら恐喝になる。まあ、こっちはせいぜい、あんたの誠意に期待させてもらうよ」


それから男が幸恵のほうへと視線を移す。

「達子さんのほうは何かあっても相手と別れるなら何も言わねえっていってる。だからさっさとこんな男とは別れるんだな」

「わかりました……」

男の言葉に幸恵は素直に応じた。


「ああ、それとよ、兄さんの名前、倉田だっけか。今から俺、行きつけのバーに飲みにいくんだけどさ、

どうよ、一緒に一杯やんねえか。こんなとこで飲んだ酒なんざうまくもなんともねえだろう?」

男が倉田に向かって無邪気に笑った。倉田は男にどう返事をすればいいのかわらず、ただ、ぎこちなく笑い返すだけだった。

一方北見はというと、男にハッタリの全てを見透かされ、その屈辱と疲労感に何も言えずに俯いている。

そんな北見に幸恵が百年の恋も冷めたと言いたげに軽蔑するような眼差しを向けていた。


「そういえば、まだ名前言ってなかったな。俺は相川、相川浩二ってんだ」

「倉田です。倉田雄介」

「雄介か。良い名前じゃねえか」

浩二がジャックダニエルのボトルを傾け、空になった雄介のグラスを淡い琥珀色の液体で満たす。

バー<メドゥーサ>は新宿ゴールデン街の片隅にあるこじんまりとした店だ。


店の広さは十坪ほど。倉田が店内を見回しながら、

「良い店ですね」と感想を述べた。


両肘をカウンターにつけた浩二が、

「気に入ってもらえて何よりだ」

とロックグラスの氷を揺らしながら嬉しそうに微笑む。

「はい、気に入りました。それにママさん、凄く美人だし」


倉田の言葉にカウンターの向こうで、客に出すための水割りを作っていたママの朝子がくすりと忍び笑いを漏らした。

「朝子ママを一目見るとみんな美人っていうんだ。確かに中々いないよな、こんな別嬪は。本当、男にしておくには勿体ねえよ」


「いやだ、浩二さんったら、ばらさないでよ」

朝子が口元を抑えながら浩二に向かって叩く真似をする。

朝子の声室は艶のあるハスキーボイスで、不思議な色気があった。雄介が信じられないと言いたげに朝子を見つめる。

「ママさん、本当に男なんですか。ちょっと信じられません。だってテレビで見るオカマさんと全然違うから……」


「あの手のオカマはさ、バラエティー番組がわざと集めてきたキワモノなんだよ。まあ、ある種の見世物だよな」

「そういうもんですか」

「うん、そういうもんだよ。少なくてもテレビに出てるオカマ、イコール他のオカマってことにはならない。

綺麗な子は本当に綺麗だしな。でも、テレビに出るのはとんでもねえデブや厚化粧した化け物だけ」


アルコールが回ったせいか、雄介の頬が赤く火照っている。

「もしかしたら、バイアスって奴ですかね。浩二さんの言ってた。テレビに出てくるオカマさんばっかり見てるから、


そのイメージが頭の中で定着しちゃったっていうか」

「大丈夫か、大分酔ってきてるみたいだけど」

「ああ、それは大丈夫です」」

話し込んだからか、それとも酔ったせいか、雄介は喉の渇きを覚えた。すいませんが水を一杯貰えませんかと朝子に注文する。


「はい、はい」

そういうと朝子がコップに注いだ水を雄介に手渡す。雄介は受け取ったコップの水を一息に飲みほした。

「そういえば、浩二さんって探偵さんかなんかなんですか?」

「探偵?ああ、違う、違う。あれは知り合いに頼まれてさ、その仕事手伝っただけよ」

「じゃあ、他の仕事持ってるってことですか?」


「うん、まあな。そういう雄介はどんな仕事してんだ」

「ああ、僕は教師です。高校の教師」

「へえ、先生か。大変そうだな」

浩二の問いかけに雄介は頷いて見せた。


「実際、大変ですよ。問題児も抱えてるし。それでなんか面白い事ないかなって出会い系使ったら、

そこでたまたま幸恵さんと知り合ったんです。もう半年くらい前ですけどね。

それから月に三、四回のペースで逢ってたんですけど……」


「そうやってる内に突然、北見から呼び出されたってわけか」

「そうです、初めは何なのか全然わかりませんでした。もう、ドキドキし通しで……」

「そこにたまたま俺が居合わせたってわけか」

「はい」

浩二がツマミに出されたピスタチオの殻を剥き、実を口の中に放り込む。

目の前にいる高校の教師だというこの男は、浩二の目には相当な世間知らずのように見えた。


「世の中はさ、あの北見みたいなペテンで上手く世間を渡ってる奴も多いんだぜ。

あいつのかましたハッタリなんざ、それこそ俺から言わせればチャチなもんでよ、

それでも結構通じるんだ。だからあいつは良い服を着て、良い車に乗って、良い酒を飲んで、

女を抱けるのさ。それはあいつがほんの少しばかり、他の連中よりも人間の心の機微がわかるからさ」

「なるほど……」

浩二が咥えたマルボロに火を点ける。


「そうだな、雄介は洗脳やマインドコントロールの手口を知りたくないか?

人を操る方法だ。職場の上司や部下を自分の思うように動かしたりとかな」

雄介が目を輝かせながらぜひ知りたいですと頷く。

「じゃあ、俺に千円よこしな。そしたら教えてやるよ」

「わかりました」

取り出した財布から千円札を一枚抜き、雄介が浩二に差し出す。

その千円札を受け取ると、浩二がニカっと笑った。

「これがマインドコントロールだ」

「何となくですが、浩二さんが僕に言いたい事、伝えたいことがわかりました」


「世の中にいる多くの人間も北見みたいな良い思いがしたいと望んでるんだ。

人を意のままに動かしたい、それで金儲けがしたい、女とやりたい、そんな具合にな。

だから心理学系の本がやたらと売れる。コンビニでも売ってるだろ。

『欲望を叶える心理学」とか『人を操る心理学』とかな」

雄介は首を軽く縦に振って見せた。

「そして人は自分の欲望を叶えてくれそうな相手や物に対して、目が眩んでしまう。

さっきの僕のように、そういうことですか?」

「そうだ、それで喜んで大事な金を差し出す。相手の欲望や願望を刺激すること、

これが説得やマインドコントロールの初歩なんだ。

これらは今だと行動心理学や行動経済学っていう分野で研究されたりしてるな。

心理学者のロバート・チャルディーニ博士の『影響力の武器』とかが結構有名かな」

「へえ、今度読んでみます」

そう言いながら、雄介がふと腕時計を見るともうすぐ最終電車の時間が迫っていた。

慌てて会計を済ませ、浩二に何度も頭を下げながら雄介が店を飛び出していく。

その姿に浩二は思わず忍び笑いを漏らしてしまった。

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