第7話 優しい野良犬
あと少し……あと少しで手が届く。
そうしたら、ユタの笑顔はもう見られなくなる。彼と過ごす週末もなくなって、この家へ通うために買った中古車も、頻繁にガソリンを入れる必要はなくなるんだろう。次のクリスマスには、一体何をしてるのかな。ユタの片思いが実ったかどうかも分からないまま、まだ彼のことを忘れられないでいそうだ。
「くぉらツナ缶! 悪戯してないで休んでろ!」
「うぇっ」
いきなりパーカーのフードを掴まれて、手足を硬直させた。驚かされるとでも思ったのか、釣り上った三白眼が私をじろりと睨んでいた。
「ごめん」
凄まれて謝った私に、ユタはぷっと吹き出した。私が直前まで何を言おうとしていたかなんて、彼はまるでお構い無しだ。首根っこを摘まれた猫みたいな格好のまま、軽くキスをされる。
ユタは手を繋ぐ以外にも、よくこうしてキスをする。唐突な口付けに驚いて、思わず嫌だと非難したら、舌打ちした彼にもう一度キスされた。
「……はい、これな」
無抵抗になった私から満足そうに離れたユタは、湯気が立ったマグカップを手渡してきた。ホットワインだった。
夕飯の支度の合間に作ってくれていたらしい。クッキングヒーターの上に小鍋が見える。
つまり、私の要求は聞いていたけれど、マイコちゃんの話をし続けたいがために、彼は返事をしなかったのだ。
むっと頬を膨らませてみたけれど、クローブとシナモンの香りを嗅いだらごくりと喉が鳴ってしまって、しぶしぶありがとうを言って絨毯の上へ戻った。
「で、さっきの話の続きなんだけど」
さっそく彼女の話に戻っていくユタに、聞こえないようにため息を吐く。
「それでさ、マイコちゃん、俺が最近ドラマとかによく出てる俳優に似てるって言い出して」
彼の口がまたマイコちゃんの名前を呼んだことに、私のテンションはガタ落ちた。しかもマイコちゃんは、ユタが自分の好きな俳優の誰それに似てるって言って、背中を触ったらしい。私には触らせなかったくせに。
人の気も知らないで、でれでれ鼻の下を伸ばしてユタときたら、やっぱり似てる? なんて、絨毯の上に再び寝転んだ私に同意を求めてきた。
ホットワインを啜りながら、たいして読んでもいない雑誌をぱらぱら捲ると、見開きでモデルが例の俳優と共にクリスマスツリーの前でポーズを取っていた。
テレビで見るよりも、写真は幼い顔で写るらしいこの俳優は、私が楽しみにしているドラマに、主人公の片思い相手として出演している。
確かにユタに似てなくもない。だがそれを認めたらつまり、マイコちゃんはユタの外見が好きってことになってしまうわけで。
華奢で目が大きくて、大人だけど可愛い系。
ユタがそんな言葉をもって褒め称えるマイコちゃんは、俳優の腕に絡まってポーズを決めてる人気モデルのようなこんな顔をしていて、ユタはマイコちゃんとこんな風に腕を組むのが夢なんだろう。私とするみたいに、何となく手を繋ぐんじゃなく。
ユタへのあいずちも兼ねて、へえーって声に出したら、ユタが不満そうに声を荒らげた。
「あきら、お前な、いくら体調が悪いからって、ずっとああとかへえーしか言ってないだろ。俺の話ちゃんと聞いてんのかよ。今さ、俺はお前が観てるドラマの俳優に、俺が似てるかどうかって......おいって、聞けったら!」
途中でへーって返したら、さすがにユタは怒り出した。彼があいずちを気にして聞いていたことに少し驚く。
「ちゃんと聞いてるったら」
「絶対、適当だろ」
「そんなことない。聞いてるよ」
本当に、ちゃんと聞いてはいる。マイコちゃんはああいうスーパーマーケットのケーキではなく、お気に入りの一流ホテルに入ってる、ペストリーショップで予約したケーキを食べるらしいことや、イブには旦那さんと食事に出掛けること、そのまま二人で旦那さんの実家へ立ち寄ることも。
例え聞かせられるのがそういうマイコちゃんの話でも、彼が掃除機をかけたフカフカの絨毯に寝転び、彼が暖かく保った部屋の中で、彼の低い声に耳を傾けるのは、けっこう幸せだから、ちゃんと聞いてはいた。
「何読んでるのかと思えば.....マイコちゃんの雑誌、返すんだから汚すなよ」
「……うるさいなあ。これ、やっぱりマイコちゃんのなんだ」
「うるさいじゃないだろ、で? 俺ってそいつに似てる?」
ユタが大きめの口をにいっと歪ませた。
本当は読んでもいなかった雑誌をペラペラ捲る。マイコちゃんがここに置いて行ったというファッション雑誌は、大人可愛いお洋服デート特集が見所らしい。私にはとても似合いそうもない、白やワイン色の洋服をマイコちゃんは着こなして、ここに寝転んで上目遣いでユタを見上げたりしたんだろう。今度は聞こえるように、わざとふうと溜め息を吐いた。
「似てない。ユタは私のお姉ちゃんが拾ってきた野良犬に似てるし」
ケーキを一緒に食べようとか、マイコちゃんを忘れろだとかを言わないかわりのつもりだった。
「は? 犬? しかも野良犬? 俺が?」
思うだけに留めていたそんな印象を聞いた彼は、手に持っていた私の大好物のツナ缶を、がこんと床に落としてみせた。ハンサムで、お金もあって、良い会社に勤める人間が、捨て猫の無愛想な私から、突然そんなことを言われたから、さぞかしショックだったんだろう。見開かれた三白眼が可愛くて、思わず吹き出す。
「そう、そっくり」
頬を支えるために床に付いていた肘を組み替えて、雑誌へ視線を戻す。
きっと、三白眼を釣り上げて、もっと怒るぞ。ざまあみろって思いながら、拗ねたユタを慰める算段を考えていたのに、ユタは笑い出した。
「捨て猫に野良犬とか言われた」
まともに笑い顔を見てしまって、頬が熱くなる。
ユタは、やっぱりハスキー犬みたいだ。口角が上がった大きい口とか、三白眼なのに人懐こそうな目が、ハンサムなのにそう思わせる。
それから窓の外へ一瞬だけ外した彼の視線は、飼い犬にはない、野良のすれた鋭い眼差しそのものだ。
雪が降りそうだと近付いて来た彼が言って、屈見込んで私の頭を撫でる。
「そんなこと言われたの初めてだわ。俺さ、これでも格好良いとか、優しそうとか言われる事が多いんですけど」
そう言われて、一年前にユタが振った女の子を思い出した。
あのときはまだ、ユタに対してなんの感情も抱いていなかったから、彼女がユタを優しいなんて言うのは滑稽に思えた。
けれど今は違う。
私もユタに捨てられる日が来たら、きっと彼女と同じように、ユタは優しいねって言うんだろう。
野良犬に拾われた捨て猫 こまち たなだ @tanadainaka
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