第4話
改札から振り返ると、大きな夕日が街全体を囲んでいた。もうそんな時間かと、スマホの時計を見る。まだ、4時を半分回ったところ、出かけてきてから大した時間が経っているわけではなかった。
冬至が近づくほど、日が傾くのが早くなる。
それで時計の針が動くのまで早くなるわけではないけど、1日の終わりが早くなったかのようには感じる。だから冬至、クリスマス、お正月、それら全てが駆け足で過ぎていく。
本当は軽く商店街を見たら、都会まで出ていこうと思っていたが、予想外の展開で時間を食った。
今から行くのは、どうにも気乗りがしなかった。それにお財布事情のことも思い出したばかりだ。少し早いけれど、家に帰ろうと決めて駅に踵を返す。
昼に懸念していた通り、空気も冷えてきていた。尖った空気は、吸い込むと喉を痛める。これを守らねば、仕事はできない。
夕方に駅から帰るのも、私には新鮮だった。学校終わりだろう、同じ制カバンを持った女子高校生2人が私のすぐ前を同じ方向に歩いている。夜は、よれたスーツのサラリーマンばかりだから不思議な気分だ。
離れていてもはっきり聞こえるくらい、彼女たちは笑い声をあげる。なにか楽しい話でもしているのかしら。そう思ったが、その内容までは聞き取れなかった。
野暮ったくも私は、彼女らに昔の自分を重ねる。昔は、あんな風に私も制服に身を包んで街を歩いた。たぶんその頃は、色んなものが今よりずっと輝いて見えていたと思う。自分や他人や景色、その全て。
彼女たちに映る景色と、今の私に映っている景色は同じようで大きく違う。歳をとれば、見方も変わる。なにかを知るということは、それへの期待が薄れるということだ。人生というのは輝きを失っていくものなのかもしれない、ある意味で。
そんな結論に達したところで、私はいけないと思って一人で首を振る。これじゃあ、まるで自殺する直前の人間心理そっくりだ。なにもかもに絶望して、挙句自らを傷つける。なにかの雑誌の記事で読んだことがある。
もっとも、私はそんな行為に走るだけの「覚悟」も持ち得ていないが。
ふっと顔を上げると、さっきまでいた女子高校生2人がいなくなっていた。どこかで曲がったのだろう。大して気にもせず歩いていると、大通り横の生花店にその2人を見つけた。生花店があるのは知っていたが、通るのは決まって早朝か深夜で開いているのを見たことがなかった。
別につけてきたストーカーではない。ふと、家にあるカーネーションが頭によぎったのだ。純粋に気になって、私もその店に入った。
数々の花が狭しと並ぶ。その全てが美しく、残り僅かの儚い命を燃やしていた。が、そんな中で私が最初に手に取ったのは花ではなく、挿し花用のスポンジだった。
これがあれば、少しは寿命が伸びるだろうかと思った。いくつか種類があって、それを見比べていたら、
「オアシスですか。それを見ている人、初めて見ました。家に、花束でも?」
「あ、いえ。……一本なんですけど」
格好から見て、さっきの女子高生だった。制服の上にエプロンを巻いて、バンダナを巻いている。バイトだったようだ。
「なるほど、大切なお花なんですね」
「まぁ、はい。これって、あれば長持ちするものですか」
「はい。ただ水に挿しているよりは、ずっと持ちますよ。えーと………ここの花もみんな、オアシスに挿してある…はずです。ちょっとあやふやで、すいません」
値札を見ると、高いものの方でも数百円程度。緊縮財政!と決めたばかりだが、わざわざ話をしてもらったのだ、買わないわけにはいかないと思って購入を決める。
一人が袋やらの準備をしている間に、もう一人に他にも色々と教えてもらった。こまめに水を変えてやること、茎や葉を拭いてやることが長持ちの秘訣らしい。見た目は変わっていないようで、その実とても繊細である。
帰る際、「また来てくださいね」と、その女子高生は白いバラを一本サービスしてくれた。
家に帰った私は早速オアシスに水を染み込ませて、ビールグラスからカーネーションを挿し変える。貰ったバラも隣に添えた。並べてみると今が盛りのバラと比べ、やっぱりカーネーションは萎れてきているなと思った。紅白なのもあって一見なんだか対称的に映る。けれど、両輪ともにまだその輝きが消えていないのは変わらない。また私は、花びらを一つ撫でた。
餅だけの夕飯かと思っていたが、家には作り置きの南瓜の煮物も、明太子もあった。それを食べ終わったら、今日1日も終わりだ。
外に出てみれば、内に篭るよりずっと色んなことが起きる。餅屋、喫茶、寺島さん、女子高生、生花店。どれもそうしよう、とは思っていなかったことだ。ソファに座り食後の紅茶を飲んでいたら、寺島さんの話していたことが細かに思い起こされる。
言うには、店での態度はわざとで、例の自信家っぷりも演技。今まで腹を立てていたものが、全て嘘と分かって、感情のやりどころを失った気分だ。今でも少々信じがたい。
でも、もう確かめる術はない。たぶん明日になったら、完璧な「ヒール」で、完全な「コンファイデント」に満ちた寺島さんが私の前に現れるのだと思う。本人曰く、板についている見栄っ張りで、私たちが、そして彼自身が思う「寺島さん」を作り上げる。
私は、それが辛いものと決めつけて考えていた。自分を最大限に飾って、誇張して。あなたの本質はどこにあるの、それでもいいの?それはあまりに寂しくないだろうか、とそう思った。だけど、寺島さんはその「見栄」に全力だった。向かうべき方向が定まっていた。そこには寂しさなんて微塵も感じられなかったし、ないのだと思う。
反対に私はどうだ。考えれば考えるほど、どうしても中途半端だった。だから、彼の弁に反論したい気持ちはあったけれどうまく言葉が出てこなかった。だから、聞く一方に回った。
あそこで薄はりな反論を口にしていたとして、「あなたにはその「本質」があるのですか」と問われたら私には答える用意がない。つまり私は、本質はおろか形式すらも持ち合わせていなかった。どちらでもありたいがゆえに、どちらでもない。
まるで海にたゆたう漂う藻だ。根はない、動きにくいほど大きく育ちすぎた葉だけがある。広い太平洋を自ら航海している気で、ただ世間の大波に流されているということにも気づかず、寄り付く島もない海の真ん中で腐りかけながらそれを知った。
けれど、簡単には立て直せない。自分がどうなっているのかすら分からない。だから、それでもなお「適度な」を言い訳にして自分を誤魔化す。立派に伸びた葉でそれらしい理由だけを作って振りかざして、放り投げられた海を思案顔で右往左往する。どちらにいけば、正解だ。どちらが近道だ。
考えるばかりで、結局は元の場所に帰ってくる。もちろん誰もどこにいけばよいのかを教えてはくれない。たぶん周りにいる魚や鳥は藻が求めている答えなんか知らないし、そして興味もない。だから藻はいつ辿り着くのか、それともその前に腐ってしまうのか、それすら分からない孤独な旅を続ける。悩み、終わりのない暗い大海を彷徨い続ける。
26歳、職業・明太子の売り子。決して、先の見通しは良くない。声が枯れて出なくなったら、即クビだろう。半透明、いや透けても見えない未来へ。私はなにも持ち得ていない、あまりにシャビーだ。
今、服を脱いだら裸の私がいる。明太子の匂いまで漂わせて、それがみすぼらしいのは承知の上だ。でもそうじゃない。そのもっと奥だ。隠蔽しようとして抵抗する私を押さえつけ、抉り出すように開いて、つまびらかに明け透けに。もしそうしてしまえたら、そこには何かが残っているだろうか。
私はやっぱり空っぽなんじゃないかと思う。小さな頃に描いた夢や希望はもうそこにはなくて、ただ「無」がある。「無」は、無抵抗の現状維持が大好物だ。代わりに、突拍子のない変化が大嫌い。すぐに捨ててしまう。そんな空っぽが、我が物顔で私を形作る。作られた私は等しく「無」だった。
見つけてしまった、気づいてしまった「無」。熱さを持ったなにかが頬、首と伝い、身体の真ん中へと流れていく。
つまり、私は泣いていた。空っぽのはずなのに流れるのだ、涙が。袖で拭いあげる。しかし、止めどない。それはやがて私の手のひらに伝った。私は両の手をぎゅっと握ってそれを掬う。
はっきりとは見えないけれど、なにかはある。
「無」のように見えて、たしかなもの。
この涙が枯れてしまうまでは、まだ絶望しきってはいない。
だから、終わらない長く暗い夜にも、終わりは来て、たしかに明日はやってくる。
陽はまた昇る。
昨日はそのまま寝てしまったらしく、気づいた時にはもう外は明るかった。最近はこういうことが多い。考え事をしていたら、いつの間にか寝ている。頬が少しかさついていた。
慌ててスマホを見ると、一般企業なら遅刻しているかもしれない時刻。
けれど、デパートの出勤時間は10時前と遅い。遅刻どころか、起きるのが早すぎたくらいだ。とはいえ、二度寝は危険である。
昨日風呂に入り損ねた分、目覚ましも兼ねて朝風呂を浴びる。不衛生は、食品業には禁忌だ。
上がったら、朝ごはんに昨日買った海老餅を2つ焼いて食べた。少し重たかったが、今日は土曜日、きっと忙しくなる。昼は取れないかもしれないから、腹にできるだけ貯めておきたかった。
それが終わったら、少し早いとも思ったけれど余裕を持って家を出る。おかげで売り場の中では、一番乗りに仕事場に着いた。シフトに入っている人が全員揃うのを待ったら、寺島さんによる朝の恒例ミーティングだ。
昨日のことがあった、今日は腹が立たずに嫌味な文句や横文字を聞き流せた。
「では、今日もよい明太子プロパガンダに励んでください」
恒例の変な造語、アンバランスな言葉。
だからこそ今の私にはぴったり合っているのかもしれない。
明太子プロパガンダ。寺島さんが去ったあと、口に出して一笑に付す。
「変な言葉よねぇー」
奥様の一人がそう言った。
そう、それぐらいでいい。何にもない私の、変な役職。
10時になった。デパートがオープンする。喉を鳴らす。調子は悪くない。
扉が開くと同時に入ってきた客へ向けて、私は声を張り上げる。
「明太子はいかがですか?」
明太子プロパガンダ たかた ちひろ @TigDora
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