第3話
噂をすれば、来て欲しくもないものも来てしまう。私は何度見かして、寺島さんだと確信する。
見つかりたくない。
まずそう思った。しかし慌てて席を立てば、窓という仕切りがあるとはいえ透明だ。気づかれてしまうやもしれない。幸いに私も厚着をしていた。平静を装いつつアウターを羽織って、フードを目が覆われるくらいまで被った。これで目も合わないから、もし見られても他人の空似ぐらいに思ってくれるかもしれない。
折角休日に出てきてまで説教をされるのは嫌だ。「なぜ働いていないのですか、今日はブラックフライデーですよ。コーワーカーとの相乗効果の欠片も分かっていませんね」とか言われるのだ、きっと。
本当にぶれない人だ。自分を知らない人しかいないだろうこんな状況でも、その行動は変わらなかった。完全無欠で格好の良い自分に惚れている、自己愛の塊だ。
とにかくも、後は自然に店を出ればいい。カバンを肩から掛けて、立ち上がる。フラッペを手に取ろうとしたら、
「……っ!」
手につかなかった。
滑ったカップがカバンに当たって、床に落ちる。蓋が開いて、氷が散乱した。もっともやってはいけないことだった。店員さんがナプキンを片手に走ってくる。店内にいるほとんどの人の視線が私に向けられていた。
それは外にいた寺島さんも一緒で、恐る恐る見ると澄ました顔して、こっちを凝視していた。
逃げたい。けれど、
「お客様、服など濡れたところはございませんでしょうか」
「……えと、大丈夫……すいません、あのやっぱりタオルかなにか借りても?」
「はい、今お持ちします。少々お待ちください」
パンツの膝上辺りが濡れていた。それに、こぼして店員に迷惑を掛けた張本人でもある。拭いてもらっている間に勝手に立ち去るのは、常識知らずというものだ。
なにか拭くものはないかとカバンを探すが、手持ちにはなかった。床も服も店員さんに頼るしかなさそうだ。
冷たい液体が肌に染みる。生地を引っ張り上げてみても、こんな日に限ってタイトパンツだから結局すぐに貼りつく。悪戦苦闘する私に次に声をかけてくれたのは、
「大丈夫ですか。私のでよければ、とりあえず使いますか。ポケットティッシュしかありませんが」
まさかまさか、寺島さんだった。店員さんだと思って、油断していた。完全に目が合ってしまう。
「……あなたは、足立さん。偶然ですね。」
「……寺島さん。は、はぁ。そうですね。その、お恥ずかしいところを…。」
気づかれないわけもなく、万事休す。慣れないことはするもんじゃない。結局、厄介ごとを起こして、さらに見つかってしまった。
「どうしたのですか。使わないのですか」
「あの、……お借りします。ありがとうございます」
上司からの厚意は受け取らない方が失礼に当たるのは、社会人の基本である。私は借りたティッシュで、膝下を叩いて拭く。
床を吹き上げるには、枚数が到底足りなかったので諦めた。
「今日はお休みですか」
「……はい。今週は、火曜日と金曜日なので」
「そうでしたか。今日は忙しいから、幸運だったかもしれませんね」
「いえ、そうは思っていません」
本当は思っているけれど、本音を言うような相手でもない。
「そうですか、良い心掛けです」
そこまでやり取りしたところで、店員さんがタオルを持ってきてくれた。
床を拭いてくれるのを見届けて、頭を何度も下げたら私は店を出た。
なぜか寺島さんも一緒に。
「……えと、コーヒーをお飲みになるのでは?」
「いいんです。今は、気分ではなくなりました」
「……そうですか」
私は寺島さんと特に話したいこともない。
なんなら逃げようとしていたぐらいなのに寺島さんは、
「代わりに、紅茶の気分です。どうでしょう、近くにいいところがありますよ」
こんな提案までしてきた。紅茶の気分、とか以前の問題だ。私はそれとなく渋る。真正面から断るのは苦手だし失礼だと思った。この人への印象次第では、私の首にも関わってくる。
しかし、そんな優柔不断な態度から特に予定もないことが露見し、執拗に誘われ。さらに渋る理由を見抜かれたような、この一言。
「叱ったりはしませんよ。今日はプライベートですから。仕事とは別で考えてください。お金は私が出しますよ」こうまで言わせてしまったら、行かねばしょうがない。寺島さんについて歩いて、商店街から一本逸れた道の路地裏に佇む紅茶店に入った。
私が聞かずとも彼が語るところによると、どうもこの近辺で別の店舗の打ち合わせがあったらしい。それが終わって、さっき何気なく入った喫茶店で私を見つけた。1人で退屈していたので助かった、とも。
私は道中色々聞かれたけれど、全て不快にはさせないぐらいで適当に答えておいた。
それでも全く気づかないのか、それとも決してめげない、挫けないということなのか。
店に入り、紅茶と茶菓子が出てきたあともなお彼は私に話を振り続ける。ついに私はしびれを切らして、
「あの、そんなに私のことを知ってどうされたいのですか」
「いえ、とくになにも。ただ話題がなければ、始まらないでしょう。それに……」
「……なんでしょう」
「普段の私の言動を考えれば、嫌われているのはやむを得ません。ですから、もう正直に言いますと、それを確かめようと思いました。随分と嫌われているようですね」
そう言って、寺島さんはぴんと背筋を伸ばしたまま紅茶をすする。ソーサーにカップが擦れる乾いた音だけが鳴る。私はなにか答えるのもどうかと思って、余分な砂糖まで紅茶にカランと溶かして誤魔化した。
こういう時こそ、1人で喋る寺島さんの特性は生きる。
「気になさらないでください。嫌われていることは、承知の上です。あれも一種の役割なんです。とはいえ、露骨に嫌われると私も思うところがあるという話です。もちろんその辺は割り切っているつもりなのですが、私も人間ですから」ひとりでに語る。まだ言葉を継ごうとしていたのだが、つい引っかかるところがあって私は口を挟む。
「……役割。いつもの寺島さんは演じられているという」
「えぇ、そうです。嫌われ者がいる方が組織は纏まるでしょう。堅苦しく話すのは、元からなのですが」
普段の寺島さんと今を比べてみる。思ってみれば、喋り方などは変わっていないが、いつものような嫌味や愚痴はたしかに今日は聞いていない。しかしそれだけでは、にわかには信じられなかった。
「では、いつものは心にもないことを言っていると」
「大方はそうですね。あそこまでする必要はないと思っています。それに本当に言うことがあるなら、もっと要約して伝えますよ。だから、無いんです。むしろ、明太子店舗は好調な部類です」
「……昨日の私への質問は」
「あれも同様です。あなたを責めるのが、彼女たちの中では一番効果的だと思いました」
どうやら、本当にそうらしい。
けれど、だからと言って「そうですか」と認める気にはならない。まだ責めるべきポイントはある。ここまで自分で語るのだからよっぽどのことを言わない限り、クビにもなるまいと思った。
「では、その……気取りと言いましょうか。それも演じているものなのですか」
「…仕事とは次元の異なる話ですがそうですね。見栄張りなのです」
「はぁ……」
「……いわば日常から自分を演じているんです。本当は自信なんて欠片もありません。自分に陶酔したことなんてましてない。でもそれだと私の場合、人と喋るのもままならないほど臆病なものですから。だから、出来る私を信じ込んで、人に口外して、あたかもそうかのように振る舞う。そしたら、堂々としていられるのです。実は、さっきの店でのコーヒーもそうです。頼んだはいいですが飲んでいないんです。あれは苦くて、飲めない。でもそこまでしても見栄に拘る必要があるんです、私にとっては」
長い言葉だった。早口で言うのは、いつもと同じ。しかし、その言葉に怒りは感じられなかった。
「……そんなふうに考えたことがありませんでした。そうも見えません」
「なら、私の虚栄は成功ですね。自分も他人も欺けている。…喋りすぎるのもそのせいです。分かっているのですが、会話が途切れるのが不安なくらいなら喋ろうと、そういうことです」
「私はそうではないので、印象で話しますが、……その見栄張りは、やってて辛くならないものですか」
寺島さんは、もう一度紅茶のカップを手に取る。くるりと回して、それから飲まずに置いた。
「なりませんよ。もう私にはこれが板についています」
そこから先は、ほとんど寺島さんの1人喋りが続いた。ポットの紅茶がなくなる最後まで。
店を出たら、寺島さんが今から仕事に戻るというので、駅前まで送った。お代を出してもらった借りがあった。その最後、改札に入ろうとする寺島さんにどうしても気になったことを聞いてみる。
「あの……なぜ、急に私にあんなことを言おうと思ったのですか」
「……あの場の思いつきです。仕事場では、役割のことがありますから言えませんし、外で会う機会はそうありません。すいません、勝手な都合で。忘れてください。では、また明日」
それだけ言うと、寺島さんは私に頭を下げて改札を通り抜けていく。私は、ぼーっとしてしまっていたから慌てて頭を下げて見送った。
改札の奥は、長く伸びる夕日の陰になっていて見えにくかった。それでも小さくなっていく背中は、人並みに消える際まで曲がることがなかったと思う。昨日まではただ憎々しく映っていたそれに、今日はサラリーマンの哀愁を感じた。
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