後編


 竜狩りのベルハートと、竜狩りを狩る少年アニーとの死闘が繰り広げられてから幾日余りの時が過ぎた頃。世界は、未曾有の恐怖によって沈みきっていた。

 大陸の最も西側に位置する国は、万年雪を頭に被せる高い山々を聳えさせる一方、裾野はなだらかな大地を経て海を有するという両面の特性を併せ持っている。

 懐の平野で流れる川は、山に降り積もった雪解け水や雨、地下水などの水をもたっぷりと含み澄んでいて。田や畑で採れる穀物、作物、果実に加えて、漁に出た船より港に上がる海の幸も豊富という多方面で一途栄える、西国随一の住み良い帝都が自慢であった。

 多くの兵や騎士団も抱える王政帝国の都は日々、大勢の都人で賑わう平穏な日常で送られていた。静まり返る、ほんの数日前までは。

「陛下」

 繁栄した帝都の、象徴的存在である王宮の大扉が門兵により開くや否や。報告を今や遅しと待っている王の御前へ向かう近衛兵が小走りで参上して来る。

「戻ったか」

 王宮の最高座にあたる玉座でどっしりと座り込み、頭を抱えていた白髪の王は。このところの睡眠不足による疲れなど吹き飛ばさんが勢いで立ち上がる。

「如何であった?」

 王の前に達した兵は跪き、恭しく「申し上げます」と切り出しておきながら、忠誠で握った拳を床に打ち付けたまま、酷く震わせているのは如何なる理由か。

「最終防衛線、突破され決壊。帝都師団、壊滅。ワームの進軍、なお勢いづいて帝都へ侵攻中! その数、約十万!」

 怒涛の知らせに、玉座を取り巻く側近たちもどよめく。

 以前から、世界中に広まる不穏な情勢をひしひしと感じ取ってはいた。諸外国から力自慢、腕自慢の勇者や騎士たちを集わせ、守りを固めてきたのも今や裏目。

「……なんたることだ」

 王は、力なく玉座に座り込んだ。


 帝都の王は項垂れ、両手で年老いた顔を覆い隠しながら犠牲になった者たちを憐れむ。

「何たる……、何ということを……」

 我にまかせよと自ら挙手した精鋭の中には未成年も多かった。しかしこの時世、剣と盾を手に取り、竜と対峙できる可能性のある者がおれば誰であろうと、何であろうと頼らざるを得ない。

 かつてない規模の大群を組んで群れをなし、人間を食い漁り、人間社会そのものを破壊し尽すワームの軍勢が今。一両日中にも帝都へと達するならば、底知れない恐怖をひしひしと感じ、脅威で怯え上がるしか術はなしか。

 二、三日前からは。流石の帝都ももう終いだと悲観して。大国すら見捨てて都を脱する民も後を絶たない。なれど、彼らにも行く当てがあるわけでもなかった。

 驚異的なワームの増殖率、捕食欲。生殖範囲を鑑みても、既に生息の分布図は確実に一対九の割合で逆転している。人が安心して生活できる、安全宣言を出せる安息の地など、とうに失われてしまった。

 王の補佐役、執政が遠い宙を見つめたまま玉座の前で呟いた。

「こうなれば、何処へ逃げたとて同じ」

「何故にこうなった……?」

 王は自問するかのように執政へと尋ねた。それを悔いたところで、明確な答えがあったとしても、もはや人間は滅びの一途だ。後戻りも叶わぬ世が、儚き夢であったらどれほど良いか。

「一説には、竜を狩りすぎたという説もございます。陛下」

「あの件か――」


 遡ること数ヶ月前のこと。王の前に突如と現れ、忠告をもたらした少年がいた。

「無暗に竜を狩る行為をやめさせて。見世物的に竜を狩ってはならないって。竜狩りをする人たちを止めて欲しいんだ!」

 このまま不当に竜を狩る行為が続けば世界の情勢は一気に乱れ、一極化の一途を辿ると。黒い髪の毛の先をくるくると逆立てながら訴えていた。

「取り返しのつかないことになる!」

 王に直接訴えていた少年の眼差しは真剣だった。それを、誰もが戯言だと聞き流した。少年からは獣の匂いも漂っていたからだ。きっと彼は野生育ちで、誰かに構って欲しくてそう語っているのだろうと鼻で笑われた少年は、現れた時と同じように音を立てることなく静かに去った。

 王は、玉座より仰ぎ見た王宮の天井に描かれている竜と、人間との闘いを描いた古き伝承に見入った。一つしかないこの世界で、人と竜が生き死を共にするようになってから幾有余年。重ねてきた歴史上では悲劇のほうが圧倒的に多かったが、心温まる話とてあった古からの伝承。

『竜を侮ることなかれ。竜を蔑むことなかれ。竜を見縊ることなかれ。竜を驕ることなかれ』

 古人と故人が、未来の子孫たちに向けて残した戒めの忠告を軽んじ、警告に従わなかったその結果。未曾有の反撃にて人類の歴史が終焉を迎えようとしている。


 人間という種が生存の危機に瀕していなかったあの当時にして、いったい誰が真摯に少年の話などに耳を傾けただろう。今をもってして取り返そうにも過去は変えられない。

 少なくとも竜狩りが盛んになる前までは、確かに食物連鎖の均等は取れていた。しかし竜狩りが最盛期を迎え、身近に大衆化してからというもの。ワームと名の付く雑食属の勢いは破竹であった。

「ドラゴンやサラマンダーといった大竜バハムート属が、小翼ワームたちの増殖に歯止めをかけておったのだな」

 人類は、そこに気付くのが遅すぎた。

 竜の絶対的頭数が激減したことで、繁殖力の高いワイバーンやワーヴニルの数は爆発的に増えた。そこで飛躍的に勢力を拡大したのは最も凶悪にて凶暴なワームドブルムであった。

 人間という餌が激減したことで、こともあろうに同じワーム翼属を完膚なきまでに食い漁り、如いては絶滅にまで追い込んだ負の連鎖が行きついた先の現在。世界中で繁殖し、翼属の頂点を我が物顔で極めているのがワームドブルムであるのだ。

「あれはワイバーンが持つ底抜けの雑食性と、ワーヴニルの人喰い面の両方を併せ持ち。尚且つ集団で行動する最悪な習性を兼ねそろえております。陛下」

「言われんでもわかっておる」

 王は、執政が語るものを遮って続けた。

「加えて知性も高い」

 無論それだけではない。一頭いれば近くに数十頭はいると思え、が合言葉になった根源にあるように。ワームドブルムの雌一頭だけで、数日間の内に数十頭の子を産んでしまう繁殖力も驚異的であり。加えて幼竜が成竜になるまでの成長速度も人とは違い、それこそあっと言う間だ。

「最もやっかいな種属が、この地上を治める王者になろうとしておる」

 人は、竜の存在がどれほど尊きものであったのかを。究極の危機的状態へ陥るまで理解しようとしなかったのだ。あの少年を除いては。

「誠、愚かであった」


 人類が、生命の頂点であるといつから錯覚していたのだろうか――。王は、少年が去り際に告げた言葉を口にする。

「驕ったものは、滅びるのみ……か」

 生き延びる希望や術はどこかにないものか。それをいくら考えても思いつかない。空より舞い降りる体格は人間の数倍もの大きさで動きも俊敏。一度喰らいつけば、人の骨肉などいとも簡単に砕いて千切る頑丈な牙を持つ、その一頭でさえ手こずる生物が。数十、数百でも絶望的であるというのに。数万、数十万の単位で押し寄せようものなら。地上より剣や鉄砲で応戦を試みる数百の人類側に何が出来よう。

 絶望と悲観で暮れる帝都の空は。東より飛来するどす黒くも灰色の幕で覆われようとしている。

「陛下……」

 王座に近い王宮の外を見張っていた兵が、東の空に現れた異変に気付く。

 立ち上がった王が、西国の色である紫色で誂えた鎧を擦り合わせながら宮廷の広場に出てみると。東の空で蠢く不気味な雲が近づいてくる様子が見て取れた。

 もはやこれまで――。王が城壁の淵に手をつき、項垂れた時。

「約束、してくれない?」

 いつか聞いた声が、確かに届いた。


「そなたは……」

 いつぞやの彼であった。以前と異なるところがあるならば、両手にはめていた黒皮の手袋がない点くらいだ。あとはあの時と同じように、音もなく現れ。王だけを真っ直ぐに見据えて真摯に説く。

「人にも善人や悪人がいるように。人を喰らい、悪さをする竜も確かにいる。でも、本当は優しくて、正しき道を貫こうとする竜もいる。だから闇雲に竜を狩るのを今すぐ禁じて」

 王は、側近たちが無礼者めと少年に剣や槍を向けるのを下せと命じながら訊ねる。

「今さら禁じて何になる?」

 さすれば、己たちが最前線で戦うと少年は言い切った。

「守るよ。僕らが」

「そなたが?」

 たったの一人で何が出来ようかと、王は半信半疑で堪らない。

「僕は一人じゃない」

 帝都の空を覆い尽くさんとしているワームドブルムの進軍は目前に迫る。甲高く鳴き喚き、大量の餌があるぞと仲間に知らせる進撃のフォーンで空気も振動し始める。捕食開始の合図でもある。

「あれと戦うというのか?」

 にわかに信じ難い。

「約束、果たしてくれるのなら」

 少年は冷静であった。

「世界の均衡を取り戻す」


 沢山の餌があるぞ――。

 飛来するワームドブルムの先陣をきる一頭が、「ビシャアアン!」と高らかな吠えで仲間の食欲を煽り立てた。すると二頭目、三頭目も続く同士たちに餌、発見の報告を伝達すれば。空で舞う数十万ものワームドブルムたちが一斉に、地上にいる人間を一人残らず平らげる宣言を嘯く。

 ワーム属たる特徴的な、大中小からなる二等辺三角の帆を五枚ほど貼った大翼が、それは嬉しいとはしゃぐように何度も羽ばたき。ごつごつとした火山岩に似た無機質な肌は一見、固そうに見えても実は筋肉質で。野太くも細くもある手足の先には鋭き四本の爪が生え、それは何をも切り裂き、一度掴んだ獲物は放さない。丸太の如く太くて長い首はうねり、頭部で三又に尖るは竜の角。大きく開く口から覗くは、のこぎり状に鋭く尖った牙たち。ぎょろりとした眼は、餌と認識したものを捕食するに最適な進化を遂げた結果の結晶である。 


 そうして先陣をきって来た一頭が、城壁で槍を構えていた歩兵の一人に食らいつこうとした、その瞬間。横からばっさり、大の大人の両腕を使ってようやく長い首の根が掴めるその太さも、鋼の硬さもものともせずに一刀両断した衝撃が城内に走った。

 危うく餌になりかけた兵は腰を抜かしたまま。吹き飛んだ長い首から上を失ってもなお、四肢の胴体は反射神経が生きている所為か、前へ進もうと翼を動かさんとする地団駄を勝手に踏んでいる。

 よくも一頭目を、と憤慨したのか。続いた二頭目は当初狙っていた獲物を即座に変えて。一頭目を倒した相手に照準を定めると、迎え撃つ男は短く述べた。

「来いよ」

「ギシャアアア!」

 何をも砕く鋭き牙が、大剣を手にしていた男に襲いかかるも。男は、目にも止まらぬ速さで大剣を振り上げ、振り切った。そのたったの一撃だけで、三頭目、四頭目と集団で襲ってきた軍団さえもすっぱ斬り、豪快にもそこより遥か遠くへなぎ払ったのである。

「何と!」

「凄い!」

「だったの一撃で!?」

 この男、ただ者ではないと腰を抜かせた兵は、周囲の兵の手助けも借りて立ち上がる。ただ、驚きの連続で「あなたは?」と訊ねる決まり文句は言葉になって出てこなかった。


 城外を広く見渡せる広場では、王と少年が揃ってそんな光景を共に見ていた。

「あれは――」

 次々に襲い来るワームドブルムの軍勢を、たったの一人で立ち向かいながら薙ぎ払っている男を王は知っていた。

「ベルハート?」

 見知った男は元、帝都騎士団の師団長であった。諸外国への遠征中に不在の故郷を一頭の竜に襲われ、一家はもとより親戚一同、村一つの全てを失ったと聞く。そしてベルハートは師団長をすっぱりと辞め、竜狩りに没頭するようになった。

「情に厚く、まこと部下思いの良き騎士であった」

 腕もたった。若くして帝都が誇る騎士団の長を務めたくらいだ。悲劇に見舞われ傷心した彼が抜けた後には、どれほど兵たちの士気も下がったことか。

 王は。最前線で立ち向かっているベルハートの背中をしばし見つめてから、少年と向き合う。

「望みが、あるのだな?」

 ならば誓おう。末代の、末々までもこの教訓を伝え、理由なき竜の殺生を禁じることを――。

 さらば暗黒の時と、別れを告げるかの後光も飛来していた。


「薙ぎ払って」

 少年は西の空より飛来してくる、白亜と動鉄が入り乱れる躯体の持ち主に懇願していた。

「あれは余りに増えすぎた。――お願い」

 そうとも命じ。応じた側は、都の中で最も大きな建物である城より巨大な胴体を手近な山を着地点にして舞い降りた。

 長くもしなやかな首をもたげては凛と整え直し、なだらかな背筋をピンと伸ばせば。白を基調とした正装なる佇まいより理性と知的も備わる品性が溢れ出ていた。

 着座した姿、形はワーム属それによく似ている。だけれど決定的に色は異なる。皮膚は白き雪や研ぎ澄んだ氷の結晶のよう。その端々には弱き部分を補うかの鎧に似た半透明な流動鉄が衣も成して。虹色に光る優しき眼と朗らかな表情は慈愛に満ち。わずかな光を吸収しながら内より溢れさせる神々しき光を纏う翼竜など、いったいどの属と部類すれば良いのかと。初めて見る竜――と称すべきかも悩み、雄々しき姿に魅入られる者などさて置いて。

 着地した際に一度は畳んだ、透明に近い膜なる独特の根翼を今一度、大らかに広げれば。その全翼に及ぶ幅は、帝都の端から端まで届いてしまいそうな超極大の距離をもってして。半透明な大翼と全身に吸収する大気のエネルギーをため込み始めた。

 これぞ。

「バハムート……」

 王は目を丸めながら、巨体の全容をその視界に入れようとするも。あまりに大きすぎて数歩と後ずさっても収めきれない。

 命を救ってもらった兵が、信じられないとした表情でようやくの言葉を喉から吐き出した。

「レヴァニア」

 それは伝説の中だけに存在しているはずのもの。竜の中の竜。ドラゴンとも呼ばれしサラマンダーの中でも極上の、竜属の中でも最強にして至極の存在。この世に一頭だけ存在するとされてきたバハムートの長とも呼ばれし幻の竜が今、白日のここに。

「僕の、命の恩人」

 少年は王に告げた。

「彼も怒ってる。こんな世界は望んでないって」

 竜属の頂点である唯一、一頭のバハムートレヴァニアは。咆哮一発。その容姿からして安易に想像でき得る膨大な熱量を一気加勢に開放してみせた。

 まずは先制の先駆放電を置いて、先行放電を促した後に重く野太い荷電砲なる無数の落雷をたて続けに呼び寄せた。仰け反らん勢いで限界にまで広げた両翼の先からも解放された電熱光線は、複数の点火電流放電に火をも点ける。それは諫めのいかづちか。抗議の雷撃か。この際、何でもよい。ともかく眩き光の着弾を受けた数十万の大群は、その一瞬。まさしく一発の一瞬にして哀れ黒焦げの丸焼けとなって、空より墜落するのであった。


 落下を受け止めた地上は、足の踏み場もないほどの死骸で埋め尽くされていた。辺り一帯には肉や骨が焦げ付くただならない匂いも充満している。

「人間様を襲った天罰だな。こんちくしょうめ」

 末端の兵は、街道を塞ぐ焼け焦げの躯を足蹴りしてぞんざいに扱った。しかしそれを、宮廷の騎士らが諫める。

「おい。言葉を慎め」

 人間が驕ったからこそ、この事態を招いたのだと自覚せよ。それが王からのきつい達しでもある旨を触れ回っているのだ。

 何にせよ、後片付けもこれからもが大変だ。

 バハムートレヴァニアは晴天の霹靂、天声の落雷とも後に称される衝撃の一撃を見舞ったあと、すぐにその姿を隠してしまった。あの極大にして目に余る巨体で普段、いったい何処を住処にしているのかも伝承に残したまま静かに去っていた。焦げ焼ける匂いが鮮明に残る帝都に残されたのは――。


 ベルハートは一人、帝都の外れにある城壁に背中を預けて天を見上げている。

 ワームドブルム全滅の結果が出た瞬間、兵たちはベルハートを英雄扱いし、我先にと握手やハグを求められ、もみくちゃにされた。帝都の民もそうだ。突如に現れた勇敢なヒーロー。その名はベルハートと次々に語り継がれ、囃し立てられた。

 騒がれることは別段、気にはしない。騒々しいのは慣れている。けれど一躍時の人となり、持ち上げられる気分は良くない。大体、大群を撃破したのはバハムートレヴァニアだ。よって、早々に一目につかない場所へと身を引かせていた。

 これまで連れ添った大剣は腰の鞘に挿し直し、柄を握る右手の平をじっと眺める。――俺はいったい、どうしちまったんだ?

 実はベルハートの中で、得も知れぬ力が沸騰していた。元より怪力までは及ばないものの、竜の首を一刀両断できる技と力は持ち合わせていた。されど先ほど、複数頭のワームを倒した手応えと反動はどうにも、知り尽くしている自分のそれとはあまりに違った。

「――戸惑ってる?」

 少年の声は、頭上から聞こえていた。ベルハートが佇む城壁の淵に腰かけ、細い脚をぶらぶらと遊ばせているアニーに問う。

「何が起きた?」

 泥と瓦礫の最上段で、死んだはずだのに。

「僕にも、わからない。――でも」

 アニーは己の手を顔の前に据えて、まじまじと見入りながら呟く。

「全てに、意味があるんだと思う」

 アニーに懐き、土砂降りの中で嘆いていたあの白竜がいなくなったそうだ。物理的に、この世から姿を消したのだとも告げられる短い会話を交わすだけ交わし、沈黙した二人の視線も交じり合わない。


 開くことなどなかったはずの目が再び、この世界を捉えるまでの間。二人はどこか、遠くて近い、そして温かな中に居た。気づいた時には困憊した疲労は回復しており、自然と。体の奥底から漲るパワーで潰えたはずの生命は、白煙と白湯の中で脈々と満ちていた。

 ベルハートが目覚めた時に、目の前に広がっていた光景は大よそ、この世のものとは思えない花や緑が満ち溢れる天国のような場所であった。気候も穏やか。凍てついて寒く、土砂降りの泥まみれの世界とは無縁の光景。白い湯気もゆらゆらと立ち込めている水面はきらきらと眩く輝いていて。驚きながら、生きていることを実感している男を見守り、見下ろしていたのはバハムートレヴァニアだった。

「っ!」

 何も告げず、何をも語らず。バハムートレヴァニアは、ベルハートのすぐ傍で未だ休んでいるアニーに視線を向けた後で飛び去った。

 しばらくの間、茫然と置かれた状況を認識しようとしていたベルハートは、すんと匂った残り香りに気づく。――この匂い。

 それで覚れた。あれが、アニーの育ての親か。

 

 ベルハートは、己の肩に頭を預けて眠っているアニーの寝息を感じ。密着して触れ合う肌と肌からも直接鼓動を感じれば、彼も生きていると安堵した。

 そのすぐ傍で、湯に浮かぶ薬草花で戯れていた一頭の白い子竜と目が合えば。「くるる」と喉を鳴らした小さな白竜は白い線の尾を引き、湯の中へと潜水してしまう。何事かと狼狽したベルハートの裸体を突いて回った後で浮上すれば、もっと遊んでくれと拙い翼をばたつかせて湯しぶきを跳ねさせた。そんな悪戯を受けて、頑なであったベルハートの頬は自然と緩む。

「……後でな」

 まだ少々、眠かった。それでも構って欲しいとせがむ子白竜に手を差し出せば、まだ人間の手の平大すらない頭部とやわらかい角を擦り付けて「くるる」と鳴いて懐かれた。こうなると和む以外に術がない。

 そしてベルハートは、半透明な白湯の中に顔以外の全身を沈めているアニーの腹部に残る傷痕に気付いた後で、そうだ、己の腹はと確かめた。そこには確かに刺されては癒えた痕がくっきりと刻まれている。一度は死を受け入れた体験は何であったのか。今、確かと脈打つ鼓動はドクン、ドクンと全身を駆け巡り穿っている。ぐっと握った拳に力を込めれば、指先が手のひらに押しつく痛みも感じた。生ある印だ。

 寝そべる大人二人をすっぽりと受け入れる温泉の淵では、ベルハートが長く愛用している大剣が鞘に収まって鎮座している。

 ベルハートはそれを横目にして眺める内に、直感したのだ。――抗えと言うのだな。

 チャンスを与えられたのだと、確信に似た巡り合わせを感じた。止まった鼓動と命がどうして復活したのかの過程は、もはや過ぎたこと。小さくも大きくもあるものを得て、もう一度の好機を与えられたのだと思いたい。


「――償うさ」

 ベルハートは雲間より射し込んで己たちを照らした陽射しが眩しすぎて、目を細めながら言った。重ねてきた罪は消えやない。やり直すか否かは別な話としても。

「お前の家族や友人たちを殺したのは俺だ。お前には、俺を殺す権利がある」

 ベルハートは敢えて、竜の命を人に例えて告げていた。生きるものを一つの魂とするならば、彼らとて。

 ならばと、アニーも答えるのだった。

「不思議なものだね。感情って、どれほど拗れて複雑になろうとも。時と共に薄れてしまう」

 あれほど憎み、眠れぬ夜を幾日も過ごし。滾る復讐で満ちた日々も想い出も悲しみも。時が過ぎれば今を生きる事に精一杯すぎて否応なしにも過去のことだと押しやってしまう。時に、魘されることがあろうとも。

「今はもう、あんたを……それほど憎んじゃいないよ」

 ベルハートは頭上のアニーを見上げ、アニーはベルハートを見下ろす。

 あの湯を共にした子白竜は今や何倍もの大きさに成長する一途を辿り、アニーやベルハートたちの手足になってくれている。まこと、命あるものの成長は遅くに思えて存外早い。そして何より逞しい。

「ベル。あんたが六頭の竜以外にも、幾つも奪った竜たちの罪を償うのなら――僕のほうが。もっと多く、誰それの息子。誰それの友人を殺めてきたんだ。その罪は、幾ら償っても許されるものじゃない」

 手放しにも無罪放免では済まない二人は、ここで初めて和解していた。

「俺にも一旦はある。この世界に竜狩りがいなければお前は、人を殺す側にいなかった」

 だから俺にも責任がある。そうとも告げたベルハートとアニーの間に、再びの沈黙が落ちた。


 共に罪を背負い、償おうとする友情が芽生え始めてからしばらくが過ぎた頃。ベルハートとアニーの尽力により、世界はゆっくりとではあるものの、人と竜が共存し得る均等を取り戻しつつあった。

 絶滅したワイバーンとワーヴニルは致し方ないにしても、種の保存で生き残ったワームドブルムの勢力がある限り。人類側とて、いつまた滅亡の危機に瀕するかの緊張の糸も切れない状況が続いている状況下にして。

「のろしが上がってる」

 最初に異変を察知したのは、気配に敏感すぎるアニーであった。


 ベルハートとアニーは、英雄視されることを嫌い、人里離れたところで世界の動向をひっそりと見守る共同生活を送っていた。

 一度は死に絶え、復活してからというもの。二人に宿る、人ならざる尋常でない力――例えばベルハートは腕力、アニーは視力や聴力。どれをとっても通常の人間に備わる力量を遥かに凌ぐ超人的力を得ていたのだ。それらを自慢する気は毛頭ないけれど、過ぎたものは恐れの対象になることくらい、身に染みて知っているからこそ世間とは意識して離れていた。竜狩りを狩る存在に関しても大衆からの無用な詮索、追及の的になる争いも避けたいのもある。

 そもそもアニーは人間社会とは真っ向かけ離れた環境で育ってきていた。大勢の人に囲まれる帝都の中で、王直属の守護役など勤まるはずもなく。ベルハートすら遠慮を申し出だ妥協案にて、助けが欲しいと懇願あれば、世界中のどこへだって駆けつける。そうした第二の人生を送り始めたある日の事だった。


 冬を越えて春を迎え、幾度目になるワーム大戦なる激戦を乗り越えた夏も過ぎた、秋が深まる昼前のこと。

 日が暮れると日中の温かさが嘘のように冷え込むようになった頃合い。ベルハートは丸太小屋の裏手で拾い集めた薪に斧を振り上げ割っていた。そこへ、いつものように寝坊助が遅い目覚めで起き上がって来る。

 小屋の外へと歩んだ先で、ふわわとのんびり悠長なあくびを一つ吐いた、その目が。常人には捉えることのできない救難信号を視認したのだ。

 アニーの発言を受けたベルハートも、小屋の裏手から庭先へと進み出る。そこは小高い丘の窪んだ平地で、丸太小屋は生い茂る森の中に位置する良い隠れ家だ。広く景色が見渡せる淵にまで二人が歩めば、その正面にして右手にわずかに望めるのが帝都で、左手には姿は窺えずとも未だ再建に程遠き東の諸国。真っ直ぐは南の方角。

「先の大戦でも、南国は細々とでも耐え抜いたと訊くが――」

 ベルハートは手に持っていた斧をアニーに差し出す。

「帝都へ行ってくる」

「え? でも――あっ!」

 斧を受け取ろうとしたアニーは、思いのほか重かった斧を片手どころか両手ですら受け止めきれず、へっぴり腰の腰を折る。

「のろしが上がってるの、帝都じゃないよ? それにもう、大分弱弱しいし」

 薬品を混ぜた世界共通ののろしは天、高くにまで色を付けて昇る。のろしは大気の風に流されるにせよ長い時間、宙に滞在しては急を知らせる目印にもなるけれど。

 くっそ、何でこんなに重いものを軽々と振り回せるんだ、怪力め――なる愚痴もぽろぽろと溢しながら。

「わかってる。気になることもあるんだ」

 持ち上げられない斧をどうすればよいのかと思案に暮れて、「これ、どうすんの?」と困惑するアニーをその場に残したベルハートは。単身、身支度を整えて帝都へ向かって山を降りて行くのだった。


 山岳を降り切ったベルハートは、帝都へと向かう荒野の手前で、馬に乗った集団に出くわした。

 山の麓とはいえ、西と東の諸国往来を可能とするそこは広い街道。背後から駆けてくる馬足に迫られ先にどうぞ、と道を譲ったベルハートの姿を馬の上より流し見しては、一度は通り越した集団の一味が、わざわざ徒歩のベルハートのもとへと引き返してきていた。この辺りの者であれば、西国英雄の顔など見知ってもいようはず。

「そこの者。ちと訊ねる」

 そう言って切り出した馬上の騎士は、鎧姿で腰には剣。深い茶毛な馬すら立派に武装している。ただ、ところどころくたびれている様子も伺える。――かなりの長旅か。

「西国、帝都へ向かう道はこちらか?」

 田舎訛りはない。むしろ南国特有のはきはきとした物言いと、白と金を基調とした装いだけでベルハートは確信していた。

「あぁ、間違いない。このまま真っ直ぐ進めば帝都だ」

「そなたも、帝都へ赴く途中か?」

「……まぁな」

「ならばそなたは、ここらの者か?」

 そうとも、違うとも言い切れないベルハートが返答にあぐねた挙句に、呆れ物言いで「どうして?」とだけ訊ねれば。

「このような世の中。一人、この見晴らしの良い荒野を歩むとは大した根性よ」


 騎士が片手を綱から放して示した先は、狙いやすい空からの狩りが容易き平地の荒野。ひとたび翼のあるものに襲われれば、身を潜ませて隠れる場所も少ない道だ。

「その成り――、そなたも騎士か? たったの一人で?」

 異国の騎士は、完全な鎧を纏っていないにせよ、見下げる男の腰に備わる大剣に惹かれたのか。馬の手綱を引いて、ベルハートの周りをぐるぐると回り始めた。ベルハートもまた、騎士が何を求めているのかに気づく。要するに、安全な道を知っているなら教えろという脅しだ。

「この道は一本道でな」

 ベルハートは言った。東からにせよ南からにせよ、西国帝都へ向かうにはこの街道を突っ切るのが一番早く、迂回するのなら陸を使わず海上側から入るしかない。あとは七千メートル級の山々を越えるのが億劫でなければの話だ。

「心配は無用だ。ここらに人を喰らう竜はもういない」

 馬上の騎士は、人当たりの良さそうな物言いより冷徹さを含ませた言葉をベルハートに浴びせた。

「ほう? よもや我らを餌にする気では?」

 至極面倒臭く、何としてこの場を切り抜けようか――とベルハートが考えを巡らせようとした時だった。

「どうした?」

 腹の底によく響く、どっしりとした重みのある声を発した主が、遅れて登場していた。


「陛下」

 先にベルハートへと絡んでいた馬上の騎士たちが、白金の兜を被る頭を深々と下げて礼を成す。どうやら、彼らは斥候ならぬ先陣部隊であったようだ。

「帝都は目前ですが――」

 続々と続いて現れる馬々の中でも唯一の白馬に跨り、重厚そうな白金と裏地の橙色が織りなすマントを纏った男は側近の進みを手で制しながら荒野を臨んだ。

「なるほど」

 陛下と呼ばれた男は、溌剌とした小麦色の肌を持ち。堂々たる佇まいを崩さぬまま全てを察したようだった。そして、この場で一人、白金の甲冑を纏わない男を見下ろせば。

「ベルハートではないか」

 そうとも告げて、笑顔を溢しながら颯爽と馬を降りるのだった。


「久しぶりだ!」

「ギルディン」

 がっしりと握手を交わした後で、二人は親しげな抱擁も交わす。

「すっかり王様が板に付いたな」

 よせよ、と謙遜した男の見た目の体格や歳はベルハートと同じくらいだ。けれどベルハートにはない貫禄と威風堂々たる威厳の差は歴然。

「しがない港町の一角さ」

「それでも一国、王は王だ」

 和やかにやり取りを交わす己たちの王と、見ず知らずの男の仲を勘ぐった騎士は。王の側近中の側近にして参謀役である者に馬を寄せて訊ねるのだった。

「お知り合いでしたか?」

 光り輝く兜の下から覗く嫋やかな表情を緩ませた参謀将は、ゆったりと余裕の笑みを浮かべながら述べる。

「陛下のご友人にして、今や世界の英雄ですよ」

 ベルハートに絡んだ騎士は、「彼が?」と絶句してしばし茫然とその場に留まり。再会した旧知の仲は一路、ベルハートの先導により荒野を抜けて何事もなく都へと移動するのだった。


 到着した一行は、宿を兼ねた酒場でまずは腰を落ち着かせた。

 最初の一杯はこれまでの苦労を労う大所帯であったものも、トゥエイン参謀将の気遣いもあってベルハートは王と二人きりの個室で昔話に花を咲かせた。

「――あの時はまだ、ただの城主だったよな?」

「そうさな。独立する前だ――懐かしい」

 ギルディンは元々南国、海路と船の貿易で栄えた港城下の領主であった。そこでの私設海軍と言えば、対抗できるものなどないとまで称された強豪であったほどだ。

「お前が陸を仕切る帝軍の師団長で、俺が海からの艦隊長で――あぁ、何年前だ?」

 西と南の境で暴れまわり、国々と庶民を困り果てさせた竜を狩るのに共闘したことがあった。この時の竜は、海の奥底で大地を支えている大魚ではないかとされた別名ベイモス、ナーガ。人間の眼ではその姿を捉えることが出来ない、やっかいな海の大竜であった。

 あの頃は良かったな、だなんてしんみり静まる会話も交わせば。どちらからともなく本題を切り出す。

「――で? 本当のところはどうなんだ、南国は?」

 真面目に訊ねられ、ギルディンは酒を片手に唸りながら素直に応じた。一時的な共闘だったにせよ、苦楽を共にしたかつての仲間との絆は深い。臆さず、身分を気にせず腹を割って話せる相手も多くはない。大半はもう、あの世へと旅立ってしまっている。

「どうもこうもない。そら厳しいさ。あのワームドブルムの大群襲来によって、南国とて相当のダメージを受けた。音信不通の東よりマシだと言いたいところだが――」実はそうでもないと告げられる事実を、ベルハートは黙って受け止めていた。東の件も気にかかるところで「もっと別の、厄介なことが起きていてな」と告げられてしまえば、ベルハートの眉が潜む。

「厄介?」

「……あぁ」

 酒の入った木作りのジョッキの底に沈む、揺らぐ面をじっと見入るギルディンの顔は悲壮で満ちていた。


 ベルハートが熟知しているギルディンは、勇猛果敢な男であった。悪を許さず弱きを助け、老若男女から好かれる典型的な優男であり。一度でも彼の下に就けば、一生ついてゆくと決断させてしまう素質は天性だろう。

 大局にして世界が揺らいだ時も、一家離散の如くバラバラになりかけた港城下を救ったことで、民からの熱い後押しと強い所望もあって、ギルディンは港を構え直した城下を一国とし、独立した国の王となった。

 そんな男が、持ち得る傘下の家臣らも率いて御自ら西国までやって来る事態とは何事か。ベルハートは木椅子に腰かけていた姿勢を正して前のめる。

「妙な噂がある。それこそ以前のような数十万単位の群れではないのに、確実に村一つ、町一つを食い潰す――少数精鋭なワームの群れがいると」

 それらは東側からやってきたという。やがては最果ての西へも達しようものが、ここにきて鳴りを潜めた。おかしな話だ。

「もっと奇妙なことに。そいつらを率いているのはやたらとデカいワームらしき一頭の竜と、人間だって話だ」

 ベルハートが述べる話に聞き入っていたギルディンも改まる。

「東の諸国を滅ぼしたのはワームドブルムの大群ではなく、その一味だという話は俺も聞いた」

「そんな渦中で、のろしを上げたな?」


 ギルディンは疑い深くベルハートに視線を定めた。この帝都より、南国港城下より上げられている救難信号など見えるはずなどないとして。しかしギルディンも知っている。世界を救ったヒーローの一人は、己と同じく。誰もが腰を抜かす場面において決して怯むことなく、最後まで剣を手放さなかった剣士の中の剣士であるということを。であるからなのか、ギルディンは口の端をにやりと上げたまま無言で、何度も何度も頷いてから発した。

「……そうだ」

 二人だけで向かい合って挟むテーブルに、ギルディンは酒の入った木製のジョッキを置いた。

「頼まれてくれるか?」

 ギルディンほどの男が、守り抜いた港城下を去ってまで西国へとやって来た理由を。ベルハートはそれ以上詳しく尋ねることもせず、話題を変えながら席を立つ。

「帝都には?」

「二、三日といったところか。臣下たちも馬も休みなく走ってくれた。目的を果たした後は、お前と一緒にとんぼ返りするだけだ」

 ベルハートは『船はどうした?』と訊ねようとして口を噤んだ。ギルディン王と港城下と言えば海上貿易の要である帆船なる艦が自慢であって、代名詞でもある。南国よりこの西国へ入るには、船のほうが断然楽であり早くも着くのに。陸路の理由を――訊ねられなかった。

 旧友の、ほんの少しだけ安堵したかにも見えた表情は疲れ切っていた。部下の前では決して見せない、王たる証しの責任感と使命がベルハートにはひしひしと感じ取れたからこそ、ただ。「こちらも、少し時間が欲しい」とだけ述べるのだった。


 それから二日後。ギルディンは帝都の王に、ベルハートと共に旅立つ許しと礼の挨拶を経て帰路についた。

 西国の王は共闘しあった国交も忘れず、助けを乞うたギルディンを激励しまた、困った時こそ互いに助け合おうと手に手を取って送り出していた。

 あとは南国、港城下へ向かう道すがら。何度かワームドブルムの小団群に襲撃を受けるも、用心棒役を買って出たベルハートにより難なく撃退されていた。

「お前。昔より更に強くなったな?」

 ひと昔前までは、野営の野宿など危険すぎて考えられなかったものも。ベルハートさえいれば何ら問題はないとされる星空の下でギルディンは感心しきりでいた。

「こっちは年々、衰えを感じるばかりだと言うのに」

「おおい、それは言いっこなしだ」

 小さな虫の根も涼やかに。昼間に火照った肌を冷やす丁度良い風がそよぐ中で、腹の虫の音を沈める料理が運ばれてくる。

 人の気配に加えて馬や火や料理が集っていれば、それはもう襲ってくれと言わんばかりなもの。それを堂々と可能にさせてくれる存在は、この世界ではあまりに貴重すぎる。


 取り分けられた鹿肉と野菜のシチューとパンを、王の右腕名高いトゥエイン参謀将がベルハートにも差し出して手渡す。

「相棒さんの分、本当に宜しいのですか?」

 礼を述べながら受け取ったベルハートは、星が輝く夜空を仰いでから参謀将に視線を戻した。

「あぁ、あいつはいいんだ。その――極度の人見知りでね」

 咄嗟に吐いた、その場しのぎはあながち嘘ではない。なれど、ベルハート以外の人間とのコミュニケーションに未だ難ありなアニーは、要所要所の時以外は別行動を取っている。

「そうですか」

 トゥエインのゆったりとした笑顔が一段と綻ぶ。

「何かあれば、いつでも言ってくださいね」

 相変わらず綺麗な顔だ、とベルハートは空いた腹の中で呟く。端整な顔立ち、誰もが頼って懐く姐御肌的な存在は今も昔も変わらない。正真正銘の男だけれど。よって、必然的によくもてもする。

 王と二人で腰かける場を、トゥエインが立ち去るまで見送ってからベルハートは問いかけた。

「結婚、しないのか?」

 小国であっても、富や名声も充分な一国の王である。嫁の立候補なぞ幾らでもあろうに、未だ独身とは。

 ギルディンはただ苦く笑ってその場をやり過ごすのみ。

「お前こそ、あの子――、アニーとか言ったか?」

 時折にしか人前に姿を現さない、ベルハートだけがまともなやり取りを交わせる少年は噂の的だ。

「結婚したとも、子作りしたとも聞いてなかったがな?」

 墓穴を掘る前に、だんまりを決めていたベルハートは口元にシチューの皿を持っていっていたのが裏目に出てしまう。

「あっち!」

 とんだ誤解だ。恋だの愛だのに時間を割く余裕がないだけ――とは、空しき大人げない言い訳か。

「違う。そんなんじゃない!」

 火傷した舌をちらつかせて否定するベルハートを、ギルディンは「ははは!」と喉を鳴らして豪快に笑って済ませるのだった。


 これだから似た者同士は縁を切れない、ともした肩を組みあった夜を幾日か過ごしたのちの、陸側より港城下への入り口に差し掛かった時のことだった。

 青い空に、黒い煙が上がっていた。

 一つではない、二つ、三つ。立ち昇る灰色の煙が濛々たる火柱をも上げている様子が見て取れるや否や、ギルディンは側近たちの静止を振り切り、我先にと高台の淵へ馬を進めた。

「……っ」

 早々にギルディンへ追いついたベルハートにのみ、王の悔しさが滲む舌打ちが聴こえた。

 港城下が一望できる高台から見下ろすと、エメラルドグリーンとブルーが美しい海がまず目に入る。そして切り立った崖に段々畑の如く並ぶ白岩壁の天然城壁。その隙間を埋め尽くしては建ち並ぶオレンジ色が特徴的な屋根瓦の家々。

 海岸線と陸の間が極端に狭く細い回廊状の地形では、人が住まう部分はごく限られているというのに知恵を生かしたコンパクトな階段も、狭い曲線すら美しいと感じる街並みを誇っていたはずの城下は。破壊され、崩れた所から煙が上がる空しき惨状を晒していた。

 ベルハートは風光明美な港に船が一隻もないことにも違和感を覚えた。海洋貿易で栄えた小国にギルディン自慢の艦が一隻、ぽつんと取り残されているだけの寂れ方が、どこか妙だった。


 太陽は港街を目指して進む一行の直上で燦々と明るく照っているのに。城下の街には人っ子一人、人の歩く姿が見当たらない。無論、犬や猫などの小動物なども真っ昼間だというのに、気配さえ感じられない。

 寂びれた街の中心に進めば進むほどに。白い石造りの家々の戸は固く閉ざされていて、窓には格子。そこかしらに何か大きなものが暴れ、ひっかき回しては争った形跡も見て取れる。燃えていたのは――やはり、民家か。

 一行の先陣をきって歩むベルハートは、一通り見渡した限りで怯える理由を察していた。

「今も襲われ続けているのか――」

 この街に全く人が居ないのではない。一歩と外へ出れば襲われる恐怖で、出られないのだ。

 先頭で考え込んでしまったベルハートは、後続の姿がないことにも気づいていた。城下街に入った途端、後続にあったはずの馬の脚並みが一頭、また一人と消えていくのも勘づいていた。或いは、こんなことではないだろうかと思う予期が的中してしまう己の察知力に関心もしながら。

 ただ一人。馬を降りて徒歩となったギルディンが街の中心にある唯一の搭、教会に向かって歩み進む姿が視界に入った。

 距離を置いて、ちらりと横目でベルハートを流し置いたその瞳に「すまない」とも取れる苦渋の色が滲んでいるのも受け取る。

「なるほど。そう言うことか」

 慣れているさ、と自分に言い聞かせたベルハートは。正午を告げる教会の鐘がリンゴンと鳴る街の広場で先制の攻撃を受けていた。


 餌が罠にかかるのをじっと待っていたのは、数十頭にも及ぶワームドブルムの群れだった。

「まだこんなにいたのか」

 これぞあの時、帝都で雷撃を免れた一部の残頭である。

 大人しく普通に余生を過ごしていれば狩りなどしない。けれど激減してしまった人間の全滅を望み、喰い脅かし続けるというのなら応戦もやむなし。

 上昇のちの下降の勢いを付けて滑空してきた一頭目の首を即座に切断。振り上げた大剣の返りには二頭目の胴体をぶった斬り。振り返りもせずに、背後より迫った三頭目の心臓を後ろ手で突き刺せば。四頭目のワームは相棒が放った空圧の斬首を辛うじて避けたが、墜落は免れずに大地で頬を擦りつけていた。

 再び空へ舞い上がる体勢を取る前に、振るわれた大剣の餌食となった四頭目に続いて、五頭目、六頭目も次々に血しぶきを上げて命を落としてゆく。

 そんな斬撃の間を、ギルディンは羨ましくも寂し気な表情で見つめ、その横に擦り寄ったトゥエインが淡々と告げている。

「僕には彼が、到底人間だとは思えません」

 一日中歩き続けても底知れない体力を持ち。何頭もの竜を狩っても息さえ切れるどころか、余裕の態度を見せつけられたギルディンは、腹心の思いに答えなかった。ただ一点、一人で大立ち回りを演じるベルハートの無心かつ無駄のない動きに目を奪われ続け、審判の時を待っている。


 しかし流石のベルハートも、倒した屍が増える手間に耐え兼ねて相棒を呼ぶ。手にする愛剣は、名のある職人が特別に打ち削った名刀であろうとも。斬り続ければ徐々に切れ味は落ちてくる。

「親玉はどこだ!?」

 群れには必ず率いる大将がいる。群れのボスを仕留めれば、群れは求心力を失い解散するのが竜とて定石。

 アニーは、竜は狩らない。今でも竜を狩るのはベルハートの仕事だと分担している。なれど、ベルハートの仕事が優位に、かつ効率的に運ぶよう的確なサポートを誰よりも、何よりも正確に、間違いなく取り繕える。

「群れの奥から三番目!」

 剣や銃すら持たない軽装姿も以前のままに。白い街並みの中で唯一、オレンジ色した煉瓦が鮮やかな古民家の屋根の上で。状況を見極めていた白い手指が、目標とする一頭のワームを差し示す。

「眼の下に傷があるヤツ!」

「あれか」

 群れの中でもひと際、体格の大きなワームを視認したベルハートは跳躍のタイミングをも見計らう。

 次の二頭を同時に薙ぎ払ったあとで前進、加速した後で決着を成す気であった。どの竜狩りの際にも言えることは、短期決戦が望ましい。


 有言実行。ベルハートは石畳の上を駆け出した。大剣の刃を大地に向けた逆さ片手で、一気に助走をつけてあとは地を踏みしめて飛び上がる。滞空時間はそれほどなくとも、勢いづいた跳躍は飛躍的な高さを誇って一刀両断を決めるだけには充分な加速も完璧なものであった。

「グシャアアア!」

 群れを率いていたワームドブルムもまさか、飛び矢や大砲以外の人間そのものによって迎撃されるとは夢にも思ってみなかったのだろう。「そんな、まさか」なる号泣を咆哮に変えながら石畳の上へと墜落してゆく。

 大将を失った群れは、先までの結束力もどこへやらで。狩られることを望まないものは、あっという間に離散してしまい。捕食劇は終わったかに見えた。


 跳躍を試みた地点から大よそ、遠くの場所に着地したベルハートが大剣についた血を振って拭おうとした、その時に。

「はっ!」

 横からドン、と熱くも鋭い衝撃を受けて大柄な体は容易く吹っ飛んでいた。

 いつぞやのように、倒れ込んだ先が俵山であったのなら受けた衝撃は多少にも緩んだものも。ここは石造りが伝統の地方である。民家の軒も、塀も全てが石造りだ。硬い石壁にぶち当たった衝撃でベルハートの顔が苦痛で歪む。

「いっ、つ……」

 腰をも打ち付けた体勢で何事かを把握する間に。

「ベル!」

 相棒が叫んだ声と、ほぼ同時に手近な砂や小石がドシンと跳ねた衝撃を感じた。何か大きなものが落ちたか、ひっくり返りでもしたかの重量感がひしひしと伝わる鈍い音もあった。

「あぁ、くそ!」

 並外れた体力や治癒力を持っていたとしても、不老不死ではない。怪我をすれば痛み、傷を受ければ出血もする体の心配なぞさて置いたベルハートは立ち上がり。ものの見事に倒壊してしまった一軒家の前に躍り出る。その前で仁王立ちしているのは――。

「アニー?」

 屋根上に居た相棒が、白い指先をパキパキと指折ながら臨戦態勢をとっている隣に立つと。倒壊した向かいの瓦礫の中より、勇壮なる炎を灯す両翼がにょきりと生えた。続いて長い首に、黄疸色も強い鋭き瞳孔を持つ頭部が持ち上がり。よろけた胴体を支える一歩の前足が、四本の鋭いかぎ爪を巧みに使って崩れた石垣を踏み潰す土台とすれば。滾る炎を纏った大きな蜥蜴に似た尾を持つ竜が二人を見下ろしながら立ちそびえるのだった。

「……なにがワームだ」

 話が違う。そもそも尾びれも背びれもついて当たり前な噂話に、蜥蜴の尻尾が本当に生えているとは。

「まさかの、ベイモスサラマンダーじゃないよな?」

 ワームドブルムのど真ん中で出くわす代物ではないとしながらも、ベルハートは隣で見上げるアニーに意見を求める。

「うん。でも、間違いなく多分そうだよ」

 公定か否定のどちらだ、とするやり取りが交わされるより先に。ベイモスサラマンダーは怒りの炎を喉の奥から噴出させていた。


 ベルハートとアニーは一ヶ所に集っていたものを左右に別れ、それぞれの役目を果たそうと奔走に入る。

「どういうことだ? 炎のサラマンダーは人間嫌いが有名だろうに」

 何故に横っ腹へ頭突きを受けねばならぬと、ベルハートは困惑していた。

 アニーもそうだ。サラマンダー属は実に高貴だ。人を嫌う傾向と習性が功を成してか、人間がちょっかいを出さない限り、向こうから姿を現すことも襲ってくることはまずないはずなのに。

「もしかして、ベルがワームを狩ってるのが気に入らなかったとか?」

「今さら言うな!」

 今でもアニーは、竜を狩る行為自体に良い気はしていない。しかしながら人の存亡を賭けて狩るものに対しての大義名分は、ひと昔と今では違うものだと理解はしている。

「ねぇ、待って!」

 アニーは攻撃対象をベルハートに定めているベイモスサラマンダーとの間に割って入った。舌で転がす炎を下火にしても、彼の怒りは明らかだ。

「あの人はちゃんと解ってて狩ってるの。だからお願い、暴れないで――」

 アニーの願いは、襲来する炎の光線によって儚くも弾かれた。飛び除けた先で「何で僕まで!」なる目を丸める。

「どうして!?」

 例え格下のワーム属であったとしても、竜属の頂点たるバハムートの匂いが染み着いているアニーは襲わないのが定説だった。これまでにただの一度も、アニーが竜に襲われたことなど一度たりともなかったのに。

 ベルハートも心底驚いていた。これは育ての親が黙っていないのではと憂いながら。再び己へと向いたサラマンダーの火炎放射を浴びかけ、素早く跳ね避けながら後退して行く。

 茫然としたアニーの後ろに忍び寄った影が。「そうしろって言ったんだ」とも告げて。決着がついたに見えた第二幕が、上がろうとしていた。


「――きみが?」

「そう。僕が」

 アニーと向かい合い、「待ってたよ。君たちが来るのを」と告げたのは少年であった。見た目の歳、背格好はアニーによく似ていて。全く違う点があるのなら、少年の腰に大型のイーグルナイフが装着されているのと、酷い隈を敷いて淀む眼、であろうか。あとは沈黙。

 背後では。ベイモスサラマンダーとベルハートが互いに譲らぬ攻防を繰り広げている轟音と地鳴りが響き続け。舞い上がる土煙と飛散の破片は、さながら両者の健闘を称える万雷の拍手のよう。

 機敏かつ重量級のサラマンダーの巨体がよろめき、もたれた壁となった一軒の真新しい居住棟はもろくも崩れ。巨漢が立ち上がるに充分な足場を固め、踏みにじったあとはただの石と瓦礫の山と化すのみ。

 ――家の中には、最初から人の気配は窺えなかったが。くそったれ。

 海岸線と天然城壁に挟まれた狭い場所で戦えば、積み上げられし歴史を刻んで来た建造物なぞもろく大惨事だ。

 ベルハートは、戦闘に乗じて紛れて飛んでくる瓦礫が足に当たろうとも、その場を動こうとはしなかったギルディンに駆け寄り声を荒げた。

「おいギルディン! このまま暴れても大丈夫なのか? この街、崩壊するぞ!?」

「その点なら心配ない。大半は船で安全な処に移っているし、残っていた住民もトゥエインが避難させている」

「そうか」

 ならば再建は二の次にさせてもらい、気兼ねなく暴れられるとして踵を返すベルハートの腕をギルディンは捕った。

「ベルハート」

 名を呼び、一間を置いてから告げる。

「――すまない」

「言うな」

 ベルハートは何を今さらと鼻で笑った。

「大方、民を人質に取られて。俺たちをここへ呼び寄せるよう仕向けられたんだろう?」

「従わざるを得なかった」

 ギルディンの、ベルハートを見据える目には苦渋と苦難の色がありありと滲んでいた。己さえもっと強ければ、こんなことには――。

「よしてくれ、親友。俺でもそうした」

 ギルディンが致し方なしに縋った友は、こうも言った。

「お前は正しい道を選んだだけだ。できるだけここから離れてくれ」

 さすれば港の王は、多くを語ることもなくベルハートの肩に手を掛け、力を込めた。

「恩に着る」


「――大した友情だ」

 ベルハートとギルディンのやり取りを、高みの見物よろしく見入っていたアニーともう一人の少年は。まだ崩れていない民家の屋根上で顔を見合わせる。

「もしかして、きみ。ワームドブルムたちを餌付けして、人間の味を覚えさせて手懐けてた?」

 そうして群れを組み、東の端から淡々と。人を滅ぼしながらやってきた真の狩人。

 鋭い目の下に隅で描いたかのような隈を持つ少年はにやりと笑った。

「そうだよ? 僕は君と同じだから」

「同じって何が?」

 アニーは言い知れぬ悪寒を感じていた。己に似た少年が纏う狂気は熱く濁りすぎている。あれでは一歩と先が見えない暗闇の中で彷徨っているのも同然ではなかろうかと。

「あのベイモスサラマンダーは、きみの育ての親代わり?」

「そうだよ。君と同じだって言ったでしょう? 僕も、捨てられたんだ――」

 にやつく少年の言葉によって、アニーの脳裏に過ぎ去りし遠い昔が過る。

「ねぇアニー」

 愉悦を孕む少年は、アニーの名を知っていた。

「僕はきみなど知らない」

「僕の名など、どうでもいいじゃない?」

 隈の眼を細めた少年は語り出す。

「竜を狩る人間を殺している人がいると知った僕にとって、どれほど君が憧れの的だったか――」

「憧れ?」

「そうさ。仲間がいたって、心が躍ったよ。僕は一人じゃなかったと逸る気持ちで最初は、普通に会いに行こうと思ってたのに――」僅かながらに青白い頬を紅潮させていた少年の表情から心酔の翳りが消える。「君には失望したよ」

「きみの為に僕は生きてる訳じゃない」

 アニーが言葉を挟もうとも、少年の告白は止まらない。

「部族のため、村のため。血も繋がらない他の誰それが生き残る為だと理由付けられただけで、共に竜の生贄にされた身じゃないか。挙句、竜に育てられて生き延びて――」

 ここまで穏やかであった少年の態度が、沸々と煮えて来るもののように激高へと変わり始めた。

「自分が助かる為なら平気で我が子を放り出す腐った人間を恨まないだなんて! どうして君は、そんな人間の味方なんかしているんだ!」

 不満と怒りと理不尽を爆発させた少年に対して、至極冷静で通すアニーは粛々と答える。

「味方をしてる訳じゃない」

「僕は君を尊敬していた。心から! なのに君は土壇場で人間側についた。あともう一息で人が滅ぶ寸前で!」

 どうして恨まない。何ゆえに復讐しようと思わないのかと少年はアニーを責め続け。アニーは大袈裟に上げた肩で深く息を吐く。

「それで更に悲観した? 東でいったい、何をしてきたの!?」

 隈縁の少年は途端に怒りを沈めて、にこやかに微笑んだ。

「もういいじゃない、こんな世界。終わっちゃえばいいんだ」

 アニーは、感じていた違和感はこれだと確信に至る。どうせ終わりは近い。

 彼の。

 世界の。


「アニー!」

 ベルハートの絶叫が聴こえたと同時に、アニーは屋根の上で身を限界まで屈ませた。その屈んだ頭上をすれすれに通り過ぎたのは、炎の尻尾だ。漆黒の髪の先端がチリチリと焼けたものを気にする間もなく。

「はっ!」

 屈んだアニーの胴部を、イーグルナイフで刺しにかかった少年の腕は払われ、足蹴りをも腹に見舞われた少年はオレンジ色の瓦屋根もろとも石畳の道へ転げ落ちた。

 次はどう出る。そう考えた刹那、バキリと鈍い重低音が辺りに響いた。振り回した尻尾が駄目なら翼でと。普段は飛行に使う両翼を最高限度まで広げたサラマンダーは一途回転。太くも硬く、重い回転攻撃を背に受けたアニーは受け身を取る間もなく吹っ飛んだ。

 白壁に頭から突っ込むのを避ける為に、咄嗟と両腕を組んで頭部を守る体勢は取れた。しかし石壁を粉砕しながらも民家の中に敷かれていた、織りも鮮やかな絨毯が多少のクッションとなって受け止めてくれた後で、背中に受けたダメージに顔を歪める。

「くっ、……っつ!」

 そして感じた。――来る!


 アニーはじっとその場に留まる選択をせずに、すぐ傍の扉から外へ飛び出した瞬間。その民家は上から落ちてきたサラマンダーの巨体に伸し掛かれて跡形もなく潰れるのだった。

 その光景を最後まで見届けようにも、より一層隈の眼元を鋭くさせて獲物を狙ってきた少年のイーグルナイフが襲い来る。右に左に、上から下から牙を剥く刀身の餌食にならぬようアニーはよけ、け。頃合いを見計らったのちに、華麗なる柔軟な足蹴りを一発見舞う。

「はうっ!」

 ダメージを受けてよろけた少年とアニーの間に、割って入ったのは大剣を振りかざし、跳躍した後のベルハートだった。

「おっと」

 こちらも着地を決めた後でよろけ、見るからに余裕はなさ気に見えるのだけれど。

「代わろうか?」

 アニーを気遣う素振りもちらりと見せた。

「平気」

 ぶっ飛ばされた方は自分でつけるとしたアニーにも意地がある。すっと鼻を啜った手に、うっすらと浮かぶ赤い線が見て取れ。より一層、気を高めに入る。

「ベルはあっちに集中して」

 あっち、とだけで済まされても相手は一筋縄ではいかない上級ベイモスサラマンダーだ。いつもの下級ワームたちを狩るのとは訳も違う。

「と言われてもなぁ」

「白線もつかせるから」

「まだ子供だぞ」

 お前も、と口にしかけたものは引っ込めた。見てくれは十五、六歳に見えるアニーが、既に成人を迎えていたことを最近知った。

「お前は?」

「忘れたの? 竜狩りのベルハート」

 忘れてなどいやしない。アニーは竜狩りを狩る、人を狩っていた男だ。

「こいつは僕にまかせて」


 ベルハートは高らかと吐いた鼻息すら高温なベイモスサラマンダーと距離を置いて向かい合った。大剣を手に、いつでも踏み込めるよう固めた足場は、無残にもがれ場となってしまった城下の礎。

 住民が大切に育てていたであろう花々は根こそぎ踏みにじられ、思い出の詰まった家財道具には火が付き燃え広がる。そうして白と暖色系の煉瓦造りが美しかった街は、崩れた土壁と燻る陽炎の中で瓦礫と化した。

 こんなにしてしまって――すまないと、ベルハートは憤りと責を感じながらも。引けぬ思いを手に込める。

「そうさ。俺は所詮、竜を狩る男だ」

 そこからは抜け出せない。

「お前にも、俺を喰らう道理があるのなら。従うさ――諦めは、悪いがな」

 ベイモスサラマンダーは真正面で佇むベルハートへ向けて、盛大な炎を吐いて応じた。

 ところが、崩れていても三軒の民家が連なっていただろう跡地を、芯から焦がした業火のあとより姿を見せたのは丸焦げのベルハートではなく、白氷の壁であった。

 サラマンダーが何事か、と小首を捻ると。炎の襲来を防ぎ、かつ凍らせた白煙の壁をぶち破りながらベルハートが突っ込んで来る。一撃必中の切っ先は、紛うことなくベイモスサラマンダーの心の臓に狙いを定めて。

 大剣の刃は冴え冷えた太刀でサラマンダーを突き刺すはずであった。それを許さずとしたのは他でもない、サラマンダー自身であり。炎をくべる火種そのものを自ら爆発させて、突撃の両刃を避けきった。

「一筋縄でいかないのは、お互いさまか」

 称えあったところで進展のない現状だけが過ぎる。


 間一髪で交わしたベイモスサラマンダーは、参戦した小柄な白い竜にむけて咆哮していた。その名は白線。

 二人が目覚めた時に、白泉の湯で出会った白き竜の子だった。人懐っこく程よくアニーに懐き、またよくベルハートにも馴染んだ。いつぞやの白竜の後釜、もしくは兄弟だろうか。言葉は通じないために真相は二人にも謎であったが。その体皮と体毛の全てが白く、ダイヤモンドにも似た眼を持つ竜はとても小さく、すぐにぽっきりと折れてしまいそうなほど体の線が細かったことから。白泉ならぬ白線だと、アニーが命名していた。

 あの時、手の平サイズであった白線も、日に日に育ち、今や人の背丈の十倍ほどに成長している。それでもまだ他の竜に比べても成りは細い。

「白線! お前にはまだ戦闘は無理だ! 下がってろ!」

「クウールル!」

 一丁前に、前線で戦えると答えた白線が白い両翼を広げては「やれる!」と鼓舞している。

「おいっ!」

 ベルハートが止めるより先に、白い発光の線を尾に引きながら空へと舞い上がってしまう。続いて白線を追う、怒れし炎のベイモス大竜。

「くそったれ!」

 ベイモスサラマンダーは、己の体積の半分に過ぎない白線を追いかけまわし、隙あれば高熱の炎も吐いて追い立てた。白線は「クウェーイ!」と何度も吠えながら高炎射撃を右に、左へと交わしながら追撃より逃れる旋回を宙で披露している。しかしながら戦闘の経験に乏しい白線では分が悪いのは目に見えていて、すぐに追い詰められてしまう。

 どこかで狙えないものか――。ベルハートは自ら囮役を買って出たのだろう白線の健気な意をくみ、タイミングを見計らうも。サラマンダーは捕るに足らずと判断したのか、小物を追いかけるのをやめてしまっていた。


 「お前には用はない」とする雄叫びも上げて、大翼を持つ身をひるがえす。そこは陸より離れた海の上。「手を出すな」とも告げたのだろうか。白線は、追いやられた宙で「クウール!」と寂し気に鳴くことしかできずに留まるのだった。

「狙いは俺だけか」

 ベルハートは、右手に掴んでいる大剣で高い宙より一路、滑空で向かってくるベイモスサラマンダーを指し構えた。こちらも願いは一つだ。

「贔屓にしてもらってこりゃどうも。ありがたいこった」

 羽ばたく両翼にも炎をくべて、文字通り一頭の火の竜と化したベイモスサラマンダーはまさしく、炎の不死竜に相応しき姿でベルハート目掛けて突っ込んで来る。

 空から地上目掛けての砲撃の如く、真正面で出迎える格好となったベルハートは大剣を振り回して迎えうつ。業火の直撃を防いで耐える、その昔は普通の人であった狩人の脚が、じりじりと瓦礫の上で後退しながらも大竜の鼻先を受け止めていた。鍔ぜり合う一点より削がれた反動は、辺りの石や土を吹き飛ばし。滴る汗すら蒸発し出すと、しゅうしゅうと音を立てて煙る熱気が一頭と一人を取り囲む周囲の温度も上げてゆく。

 ベルハートが纏う武具と衣服もチリチリと焦げだした。なれど炎で陽炎かげろうなか、当事者の眼と眼はにらみ合ったままで動じない。屈するのが先か、燃え尽きるのが先か。

 一頭、蚊帳の外へとはじき出されていた白線が「クウェールル!」と鳴いて羽ばたく。その行く先は――。


「西には行かせない」

 アニーが、大型のイーグルナイフを手元で弄ぶ少年にそうと告げれば。少年は、「どの道、同じさ。遅かれ早かれ、ここも。西国も奈落の底に沈む」と言い切った。

 そして訊ねる。

「その力、どうやって手に入れたの?」

 少年が羨んだものを、アニーは自らの手をまじまじと眺めてから口を開く。

「望んで手にした訳じゃない」

「僕なら、その力を使ってもっともっと、沢山人を殺すのに――ずるいよ。君ばかり」

 切なくにやけた態度などお構いなしに。アニーは先制の手を上げ、振り下ろした。さすれば対する少年とて、同等の年代より遥かに機敏な動作で切断の風圧を避けている。

「その反射力、もっと別な事に生かせばよかったのにね」

「褒められて光栄だ!」

 獲物を狩りたいと願う貪欲のナイフが、アニー目掛けてきらりと輝く。

 俊敏さに置いてはアニーにも備わっている。空を翔けている竜の背に飛び乗るくらい、難なきこととする脚の強さも。あの一件があって以降、バハムートレヴァニアより賜った翼の羽を仕込んでいた黒皮の手袋を嵌めずとも。素手だけでも風を起こし、切断の凪を飛ばすことを可能としていた。

 当初は、人の子でありながら竜に育てられたアニーの身を案じ、身を守る術として授けた竜の親心と知恵であった。それが今や、アニー自身に備わった分断の波動となり、脅威を打ち払う防備一体の武器となった。

 少年をすっぱ斬れなかった無音の両刃は、硬かろうが柔らかろうが関係なしに、そこへあった物を区別せずに切断してしまう。

 もとより崩れかかっていた建物が。土台を傷つけられた反動でバランスを失い、軋みながら前のめって倒壊してゆく。そして二次的被害を被ったのは、一段下にあった別の建物だ。上からの落下を受けての崩落は、風圧を道連れにした埃を舞い上げ、土煙も立ち昇らせながら共に崩れた。


 両者とも譲らない力と力の、拮抗の支点をずらそうと試みたベルハートの眉間と、力む腕がふるふると震え出していた。限界が近いらしい。

「本当にこれが、お前の本望なのか?」

 ベイモスサラマンダーは、ベルハートを押し潰さんとする頭を垂らしたままじっと見据えている。

 あと一押し。力行する押しに負けたベルハートの脚が瓦礫に埋もれて膝も折れる。

「くっ!」

 ――あぁ、くそったれ。くそ暑い。それに重すぎる。

 ベルハートは跳ね返されそうになる大剣の刃に、自らの片手を添えて凌ぎに入った。鋭き両刃は素手で触れた皮膚を容易く裂いて、流血の滝が流れ落ちる。その体液すら、流れ出る先から煙をなして蒸発し始める現状において、告げるのだった。

「それでも俺は――お前を。本気で狩る気はないんだ」

 だってそうだろう。ワームドブルムは脅威だ。無差別に人を襲い、人がこの地上からいなくなるのも構わず喰い尽くすだろうから。なれどお前はどうだ。この世界において、お前の存在は何であるのかと眼力で訴えられたベイモスサラマンダーは、心なしか押しの力を弱めたかに見えた。

「クウェール!」

 まだ完璧に吐くことのできない氷の放射を撒き散らしながら、白竜が両者の間に突っ込んで来た。小癪な襲来を予知して、先に飛び上がって突撃を避けたサラマンダーは、滞空した宙で羽ばたきながらベルハートと白線を見下ろす。

 ベルハートは滴る汗を拭い、折った膝の体勢を整えながら物言わぬサラマンダーの挙動に何かを感じ。それを追って飛び上がろうとする白線を制していた。

「白線、もういい。下がってろ」

 この内側にいろと、ベルハートは左腕一本で羽ばたこうとする両翼の白竜を制した。

「もう終わった」

 やはりサラマンダーはワーム属とは違い、高貴であったとする確信が根付きもして。答えは出たのだ。彼を追う必要はないとする視線は、流血した手の平に落ちていた。

 

「一つ、聞いてもいいかな?」

「何だい? 兄さん」

 戦闘の合間の一息に、訊ねた側のアニーが驚きを隠せなかった。

「今、何て言ったの?」

 名を告げない少年は隈縁の眼と、尖った口元をにやにやと綻ばせながら告げる。

「僕にはね、兄がいたんだ。でも、生まれてすぐに生贄にされた」

 住まう村が定めた昔からの掟に従い、母は連れて行かないでと咽び泣き。父や親族一同はこれも定めと長男を山へ捨て置き、竜の胃袋を満たす見返りに村を襲わないでと祈った。

「まぁその結果。村はしばらくの間、襲われなくなったけど」

「そんな話はどこにでもある、よくある話でしょ」

 アニーは、己自身にも起きた身の上話を上の空で聞き流す。

「ところが。長男の代わりに生まれた次男も、生贄に捧げられたんだよ。本当に性の根も腐りきった碌でなしだと思わない?」

「僕に賛同を求めても無駄だよ」

「あんな碌でもない村、滅びて当然だろう?」

「世界は、命あるもの全ての楽園なんだ。終わりを決めるのはきみじゃない」

「何だって?」

 黒い隈縁の目が、ぴくりと跳ねた。


「僕は。人の手を離れたことによって、生への純粋さを教えられた。きみはどうなの? ただ恨み羨むばかりで、一人内に籠ってわぁわぁと喚いてるだけじゃないか」

 再び、怒れる感情が沸点に達する。

「人とは勝手だ! 自分たちが生き延びる為なら、赤子でさえ平気で放り出す!」

「きみは、捨てられたことを受け入れられなかったんだね」

「同情なぞ欲しくない!」

「きみは知り得もしなかったの? 差し出した側なりの苦悩や後悔を。一度も考えたこと、なかったの?」

「どうして君は受け入れられる? そんな人間など滅んだほうがいいだろ!」

「僕は、愛も教わった」

「何が愛だ、この期に及んで笑わせるな!」

「ワームたちが支配する世界の最上段できみは何がしたいの?」

 ここまでくると、アニーも叫ばずにはいられなかった。

「人類が滅んだその後で。きみが唯一の王となって君臨したとしても、喝采はない。誰も称えない。誰もきみに仕えず、きみの前に膝をつく者は誰もいない孤高な世界で、いったい何をするっていうの?」

 見てみなよ。この瓦礫の惨状を――とする腕を広げられると。隈の面は、くしゃりと顔を歪めて喜びを爆発させた。

「本望だ! こんなくだらない世界で、人類の滅亡をこの目で確かめられるのなら、これ以上の喜びなどありはしな――」

 一人で盛り上がる独断のスピーチは途中で途切れた。

 少年が手懐けていた、或いはその逆であったのかも知れない。とにかく両者の関係と真相も問えないベイモスサラマンダーが、無防備にも己の演説に酔いしれていた名もなき少年を横から掻っ攫いながら食いちぎっていたのだ。


 それはそれは、あっけない最期であった。

 羽ばたき、高い宙で旋回していたベイモスサラマンダーは飛び去る前に、口の中でごろごろと転がしていたものが気に食わず、ペッと小さな塊にして吐き捨てた。

 白線を引き連れながら、アニーのもとへとやって来たベルハートは目を細めながら。アニーも遠くに投げ捨てられた物体が何であるかを見届けている。

「よほどに不味かったんだな」

 後味も、とは織り込まなかった。

「……」

 アニーは無言で首を振った。後ろから擦り寄り、長い首を絡めて鳴き懐く白線の白い頭部を撫で梳きながら、「いい子だ。よく頑張ったね」と頬を寄せて健闘を称えるに徹する。

 警戒心を怠れば誰にでも起こり得る世界なのに、己に酔狂しすぎた慣れの果て。

 肉片がいびつにこびりついただけの頭骸骨は、朽ちた瓦礫の片隅で転がり果てた。

 終わりのない、野戦回廊の真っ只中で。これぞ、弱肉強食が織りなす種の骨頂。


 また竜と人では言葉も違えば生き様も違う。ベイモスサラマンダーが突如その所業に走ったのかなど、人知の及ばないところである。

 ベイモスサラマンダーと少年の、どちらが意図したことで事を起こしていたのかの真実も計り知れずのところで。少数精鋭を誇った人食い一座はあえなく解散となり。南国、港城下はワームドブルムの食糧庫になるところを救われ。ギルディンはベルハートに尽くせぬ礼を述べて手放しに喜び。城下のほとんどを瓦礫の山にされた民たちも称えた。そうして人的被害が最小限で済んだこともあり、ベルハートたちの功績はまた一段と世界に轟く運びとなった。

「――この先、どうするんだ?」

 ギルディンと共に、あまりにあんまりな瓦礫の城下と化した街を見下ろしながらベルハートが問えば。「また一からやり直すさ。それが、俺の役目なんだろうよ」と述べて、彼は強い意志で再建を誓った。

 ベルハートも彼と、彼の街の平穏を願い、アニーと白線と共にひっそりと南国を去って行った。

 向かう行き先は告げずに。来た道を戻るわけでもない道を、二人と一頭は進み行く。

 その頭上、遥か高い上空をバハムートレヴァニアが東を頭にして飛んでいた。太陽の反射を受けて眩くも光り輝いた物体は一つではなかった。その瞬く星に似た煌めきは二十とも三十とも。とにかく、とてつもない大群を組んでの、まるで凱旋飛行を披露するかのように東へとばく進する姿を、港城下の民や王たちは熱狂的に見上げて見送ることしかできなかった。


「元には戻らないのかもしれない――、それでも」

 飛行した後に白く残った、雲の列を見上げながら荒野を歩むベルハートは呟いている。

「この世界がもう一度。まともな生体のピラミッドを成すまでは」

 偏る天秤の元凶が、東にあることは明白となった。何があるのか、何があったのかも確かめねば。受け身でいるのはうんざりだとして。

「……やれるか?」

 ベルハートの後ろについて来ているアニーが不愛想に発する。

「誰に言ってるの?」

「そうだな……」

 言っておくけど、なる前置きをしてからアニーも告げた。

「僕らももう、戻れない」

 その意を、互いを模る血肉の慟哭もひしひしと感じている。ベルハートが負った手の傷が既に癒えてしまったことでより実感してしまう。己たちは普通の人間としてはあまりに、かけ離れすぎた存在になってしまった。

 静かに歩み始めた二人を、一つとして貫いた剣だけが黙々と寄り添う幕がここで一旦下りた。


 そうした事態が、南国で事が起きてから幾日が過ぎた頃のことである。

 ベルハートとアニー、そして白線は先陣で向かったバハムートレヴァニアの一団に遅れること――とはいえ、あの一団がどこへ向かったのかの正確な位置は知れないのだけれど。ともかく、東へと向かう山道を進んでいた。

 ところが、東へ向かう地上の街道はどの道も尽く荒らされていて、直進できない場面に度々出くわした。大雨があったわけでもないのに、手近な山が丸ごと崩壊でもしたのか。谷の川もせき止められている様子から想像するに容易く、人が通る道など尽くなくなっていたのだ。

 行く手を大量の土砂や瓦礫に阻まれたベルハートたちは、仕方がなしに一旦、北へと進路を変えて南下する遠回りを選んでさえ東を目指した。

 険しい山々を幾つも越えて。月明かりだけが頼りな道なき道を歩んだ先で、景色が開ける場所に出ると。

「またか……」

 奇しくも呟くベルハートは、二日前にも同じことを発言していた。正しくはこれで三度目だ。

 見晴らしの良い高台より見下ろせるが為に、山間でもそれなりに栄えていただろう村の様子がよく窺えた。

 襲われる前までは、人々がここを終の棲家とし、畑を耕しては手に手を取り合って細々と暮らしていた痕跡が、ほんの僅かながらに残っている。その大半は、何か巨大かつ凄まじい破壊力をもってして、地中より耕かされた不気味な穴や、掘り返された無数の掘削によって土の中へと落ち込み、果てている。

 ベルハートはその場でしゃがみ込み、口元に手を当てて思わず唸った。

「何なんだ、これは……」

 村の集落を土深いところから根こそぎ耕し、荒らしてしまうものとは、いったい。


 東の中心へ進めば進むほどに、平らであったはずの大地も少なくなってゆく。倒木した木々、荒らされた森。人々が営み、住み暮らしていたはずの町の跡形すら失った場所もあった。そして遠くを見据えても、この先に明かりは一つも窺えない。人為的な出会いを求めても、もはや無駄か――。

 静まり返り、小さな虫の音と鵺の末裔が寂し気に鳴くだけの沈黙の間。これ以上、東に進んでも何の望みがないことも明白となった。

「音信不通になる訳だ」

 東からの、救援を乞う知らせすら届かなくなったのは大分前の話である。その間、西や南が何もしなかったわけではない。手間が抱える問題だけで精一杯となる中、東の諸国は尽く滅び尽きていたのだ。

 目下の問題は、何によって――の一点に集中する。

「何だと思う?」

 ベルハートは相棒に訊ねていた。

「……わからない。こんなことができる生物って、それこそ竜くらいだろうけど。いる?」

 村を丸ごと呑み込み、大地を引っ掻き回し、耕しながら進むものなど聞いた試しもない。

「あれを見て」

 アニーが指示した先は、深い山の谷間であった。

「おかしくない?」

「……あぁ」

 ベルハートは立ち上がって歪な谷間を凝視した。雄大な山々が折り重なる谷間の淵を、何やら巨大なものが地を這い、進んできた道には違いない。なれど、残された痕跡が尋常ではなかった。

 普通なら何かしらの生物が通った形跡は、大なり小なり一頭であれば一本筋のはず。それが三つも四つも。最大では八つとも数えられる複数が一度に暴れた跡となって残っているのだ。


「――そう言や」

 奇妙な形跡が残る山肌を調べている途中で、ベルハートは一点の思い付きを口にしていた。

「東の果てにある国に。胴は一つだが八つの頭と、八本の尾を持つ竜がいるとか」

八又ヤマタ大蛇オロチ?」

 アニーは「あぁ」と勘づきながら、改めて辺りを見回す。

「その体は谷八つ、丘八分にも相当する蛇龍だけど。伝説のはずじゃ……?」

 認めようとしないアニーに、ベルハートは言った。

「なら俺たちが遭遇しているこの現実は、単なる夢か?」

 押し黙ったアニーは、思慮に耽る。ざわつく深慮が、警笛を上げてならない。

「――待って」

 アニーたちが東側へと深く入り込む都度、悲惨な光景は時すでに遅しを晒している。

「ねぇベル――こいつ、西へ向かってる」

 もっとに早く気付くべきだったと、ベルハートは天を仰いだ。――しまった。北上している間に入れ違ったか! 

 よもや南へと引き出されたのはこの為か、とも勘ぐれる。細々と生き延びる南国は虫の息。この大陸で残る大国は帝都のみだ。


 アニーは西の果てに視線を向けた。常人はもとより、ベルハートの目でも宵で暗むその先は見通せない。されどアニーは、微かな大気の振動などからも察する能力に長けている。

「いけない、西国が襲われてる! 帝都騎士が応戦してるけど、あんなの持たないよ! 早く戻らないと!」

「戻るってお前……」

 ベルハートたちが南国を離れ、ここへ至るまで既に数日が経っている。急いでとんぼ返りしたところで、果たして間に合うのか。

「飛んで!」

「あぁ!?」

 矢継ぎ早に何を言うのか、と棒立ちであったベルハートは。首根っこを掴まれながら山の斜面を転がるように駆け出した。引き立てたアニーの手が首元を離れれば、次に何をすべきかを了承もして。

「俺に飛べって!?」

「嫌なら走る?」

 二人は呼吸を合わせたわけでもないのに、同時にがれ場の地を踏みしめ飛躍した。その先を読み、待ち構えながら掻っ攫って行くのは両翼を広げて飛行してきた白線だ。

「乗るのは苦手だ」

 いつぞやに鷲掴みの挙句、放り出された経験がトラウマになっているベルハートにアニーが告げる。

「好き嫌い言わないで!」

「クウェールルル!」

 白き尾に僅かな凍火を携えた白き竜は、「まかせて!」と言わんばかりの咆哮を上げて。夜空に残光の尾も引きながらの全速力で西へと向かって翔けて行った。


 西。最後の都、帝都では。

「陛下! ここはもう持ちません! お早く!」

 西国が誇った騎士団が、突如として襲来した八又の竜に苦戦を強いられていた。否、完全に防戦一方で民たちを、城内に避難させるのも途中で諦めざるを得ない状況に陥っていた。

 側近の兵が帝都の王に避難を促すも。白髪の王は、「わしはここを動かぬ」と言って腰に下げている剣に手を伸ばす。

「南国に使者は?」

「とうに走っております」

 早馬でも一日半は掛かろう、その返事は期待するに足らぬか。

「のろしは?」

「今朝方より上げ続けたものも、まもなく燃え尽きます」

「我が戦力は?」

「半分を失いました。残る兵も、負傷した者や離脱する者が続出し、もはや統率し兼ねる状況です」

 側近たちからの報告に耳を傾けていた王と、取り囲む兵らの足元に。ドンと下から突き上げる衝撃が走った。一度、二度、そして三度。必ずや打ち破るから待っていろとの余韻すら残響に残る、頭突きの連打が止まない。

「八岐の大竜め! 難攻不落といわれるこの城扉を打ち破る気か!」

 王が、堅く閉じられている城扉のある方へと歩み出るのを執政らが取り囲んで行く手を阻む。

「あれが打ち破られては、もはやこの国も終わりです」


 朝早く。帝都の民たちは遠くより近づく地鳴りでまず目が覚めた。棚に置いていた花瓶が、地中より伝わる振動の反復に踊らされて床に落ちれば。ただの地震ではないことにも気づいた。

 人々は家の外に出て、振動の原因を探ろうと奔走した。

「ありゃあ何だ?」

 夜明けを知らせる東の空の下、帝都に接近して来る物体があった。八つの頭がうねうねと個別に蠢く黒き物体。

「竜か?」

「いやぁ。翼がねぇぞ?」

「にしても妙な形だ」

 最初は好奇心で満ちていた民の関心は。「城の中へ急げ!」と囃し立てる騎士たちの怒声で我に返った。

 黒光りする鋼鉄に似た鱗を全体に生やし、満々と越えた腹はこれまでに食い尽くし、擦り潰してきた人やもののけたちの血がべっとりこびりついているかの赤で染まっている。

「早く逃げよ!」

「城の中へ!」

 城の下には天然の洞窟があり、古くから緊急避難の場所にあてがわれていた。そこだけで全ての帝都民を収容できるかどうかは別にしても。


 地鳴りを轟かせながらやって来ていた八岐の大竜が、帝都を取り囲む城壁の手前で姿を消した。ふいに影すらもなくした事態に、城壁で槍を構えていた兵が身を乗り出して辺りを窺うもやはり、姿はどこにもなかった。いったい何処へ――。

 まだ夜が明けきらない夜明け前。火を灯した松明を掲げ、見渡しても地響きだけしか感じない。

 いや、感じる。何かが、地の底から上がって来る。体に感じる振動は本物だ。

 城壁の兵は、姿を見失った地点を再度見入る。荒野の街道に黒くぽっかりと空いた穴は、深くて大きい。

 そして芽生えた。城壁の下を潜り、大地の中を潜水するかに進んだ八又の頭が、長い首が。ドドンと地中より爆発的な浮上をした胴体が顔を覗かせた時。盛り上がり、跳ね上がった土砂や瓦礫が放物線を描いた先から落下すれば。帝都は大混乱に陥った。

 一つの頭は、逃げ惑う人の一人を容易く捕食し。二つ、三つ目の頭もそれに続く。相当に腹が減っていたようだ。何せ、東の国々での食料は尽きた。その大半が、ワームドブルムたちによって食い尽くされていたのだから余計に。数少ない餌場を求めて西へとやってきた大竜は、矢や鉄砲、剣で応戦しようとする者たちを八つの尾で薙ぎ払いながら胃を満たすことに専念している。

 人間が持つ小さき武器などでは、硬い地中の岩盤にさえ負けない大竜の皮膚を傷つけることさえ敵わなかった。


「何たることだ……」

 西国の王は、ドシン、ドスンと底から突き上げる振動に揺さぶられながらも城壁より。城下内で暴れまわる八又の竜を見定めていた。

 あれの襲撃を受けて、無事であった国や街があろうものかと絶望しながら。それでも、諦めずに火を灯した矢を射て、大きな岩を機具で投げ飛ばし。侵攻と捕食を止めようとしている者の姿を認めれば。王として、この場を離れる訳にはいかない誇りが。城壁の淵を掴む手を震わせて留まらせている。

 騎士団の一派が、竜狩りの時に使用する楔と鎖の縄を用いて八又を封じ込めに入っていた。明けゆく夜明けの麓で。大竜が動くたびに鳴動する大地と城下。人間の言葉では表現できない、耳を劈く奇声の咆哮が上がるだけで人々は耳を塞ぎ、ガラスが割れる。

 勇敢な騎士たちにより、大竜が誇る八つの首や胴、好き勝手に暴れまわる八つの尾にすら野太い鎖の連環がかかった。あとは抑えにかかり、その暴れ狂う体力が事切れるまでを待つか。または燃してしまうか、とにかく。人と竜の力の差など比べようにも歴然である中で講じた苦肉の策の、一見功を奏したかに見えた作戦も。金切り声ならぬ、猛りの号哭を上げて。内から外へと放出させた剛力だけで鎖をぶち切られては。もはや人間側に成す術はなしか――。

 鋼鉄の如く硬い鱗で覆われた長い首と頭部を振り回し、胴体より長く伸び出る八つの太い尻尾は、それぞれが独立して動き回るので次に何をするかの予測も不可能。退避する兵たちもろとも建ち並ぶ民家ごと押しつぶし。潰した瓦礫の中から『もったいない』とばかりに漁る重心の移動がある度にドン、ドドンと、腹の底をびりびりと擽る終焉の重低音がこだまする。

「陛下!」

 あれを、と促されるのと同時に。八又の大竜に火の花が咲いていた。


 それは城下に最も近い海岸線より、海に浮かぶ艦からの砲撃であった。

「南国の船です!」

 家臣の一人が、艦に掲げられた白と金が織りなす旗を指差す。それは一隻だけではない。夜明けの日の出をまともに受けた帆船の一団は、一糸乱れぬ陣形より大筒の大砲を陸の標的に向けて立て続けに打ち込んでいる。

「ギルディン……っ!」

 西国の王は驚きの表情を隠さないまま、放たれた砲弾の行き先をすぐさま目で追う。

 複数同時の着弾を受けた大竜は流石に困惑し、堪らないと感じたのか帝都の端にまで後退してゆくではないか。

「陛下!」

 側近の一人は、勝利を確信したかに思え。王もまた、強張らせていた頬を緩ませる。

「南国より、海戦の王が駆けつけてくれたぞ!」

 突き上げられた王の拳と。鼓舞された陸の兵士たちに一時の希望が射した時。どん底は、口を開けて待っていたのだ。


「前衛の艦は弾が尽きるまで砲撃を続けよ。後方艦は?」

 ギルディンは王の船で陣頭指揮を執っていた。応じる水兵たちも皆、必死だ。

「所定位置についています。残りの船は沖合に」

「操舵長。我が旗艦を港につけてくれ」

「上陸を?」

 命じられた者を差し置いたトゥエインが呆れ顔の首を横に振った。

「無茶を言わないでください。あのど真ん中へ行くつもりだなんて」

「リオーデル陛下には貸しがある」

 義理堅いギルディンは、副官の制しをけんもほろろにして命じたものの、すぐさま譲歩に変わる。

「一師団だけでいい」

「馬鹿を言わないでください」


 王の艦が港に着岸するや否や、ギルディンは最も頼れる一師団を率いて艦を降りた。その中に見知った顔を認めれば。

「お前は残って艦を頼む」

「次に。僕に下手な命令をしたら許しませんから」

 ギルディン王の要とされているトゥエインが、最も得意とする大長銃を抱え直しながら吐き捨てた。これを傍目から見れば、どちらが王であるのかが判らなくなる。その二人にだけ許された特別な関係を知る部下たちは、激戦の最中であっても口先に一時の笑みを浮かべられるのだ。これだからついてゆけると。

 丘に上がったギルディンは腰の剣を抜いた。背に控えているのは気心も知れ、勝ち目のない戦を共に戦った歴戦の戦友たちだ。

 ここへ来たのは何も西国だけのためではない。参戦し、共にここで持ち堪えなければ南国さえ落とされる。さすればこの大陸に、もはや安息の地など無いに等しい。

 朽ちた瓦礫の再建もままならないこの戦時下において。民だけはと船や艦に分散させて、辛うじての命だけは繋いできた。

 それも、あのような化け物がのさばる大陸に。行きつく場がここしかないからと、わざわざ東の果てより大陸を横断してやって来た八又の大竜をどうにかしなければ、明日への望みもあろうものか。

 西国城下への突撃を前にして、ギルディンは引き連れる一団を顧みながら告げる。

「ここから先は有志だけで良い。離れたい者は遠慮なく艦へ戻ってくれ」

 すると、誰からともなくの発言があった。

「お忘れですか、陛下。この第一師団は、あなたが王となる前からの親衛団ですよ?」

「生きるも死ぬも、あなたと共にと決めた者のみ」

「何を今さら。陛下の行かれる道が、俺たちの道です」

 誰一人として、その場を引き返して後にする者はいなかった。

「さ、行きますよ」

 反対に。最後に発言したトゥエインを筆頭として戦禍へと進む一団の後にギルディンはつく恰好となるのだった。


 ギルディンたち一行が西国の王、リオーデルが留まる城内へと急ぐ中。陸と海上での距離にもどかしさ感じていた八又の大竜は、とうとうしびれを切らせていた。

 所詮は人が作り出した武器の過ぎない砲撃で、大竜側に決定的な致命傷が出来たわけではないけれど。小賢しき破裂の衝撃に耐え続けるのも、我慢の限界に達したようだ。

 大竜は、八つの首を絡み合わせて一つの束を作り、天へ向けてひとしきり咆哮したあとで頭蓋を地中へ突っ込ませた。あとは得意の掘削で地面の中を掘り進む。大地の中を易々と進めるに最適な角は硬い岩盤など容易く穿ち。前足と後ろ足に備わる指と指の間に張られた大きなひれに似た指間膜で、巨大な体を通すだけの穴を広げる土を次々に掻き出す流れ作業は進化の真髄。大きな体をぐるぐると一本の矢にして回転させながら突き進むスピードも各段に早く。人々が「どこへ潜った?」と狼狽える間にも、八又の大竜は海岸線へと達していた。

 大地が震え続ける地鳴りの震源が海底深くにまで移動したのちに急上昇すれば、砲撃の的を見失っていた海上の艦が一隻、船底からの頭突きを受けて海面より持ち上がり。艦の中央より真っ二つに割れると残る弾薬や砲弾に火が付き、大爆発を起こしながら海の藻屑と化してしまう。

「陸も海も関係なしか!」

 城内に達したギルディンは、仲間の艦が燃え上がる光景を城壁より見つめていた。八又の大竜に、本当の潜水力があろうとは予想外なこと。

「まずい」

 このままでは兵を乗せた艦も、南国で生き残った民が唯一の避難先とした沖合の船ともども、一隻残らず餌食になってしまう。

「トゥエイン!」

 彼の副官は、その一言だけで全てを承知したのか。トゥエインの身長とほぼ同等である長鉄砲を大きく一回転させたのち腰を据えて構え、狙いを定めると同時に弾丸を発射したのだ。


 オレンジ色した煙の尾を引き、甲高くぴゅるるとも鳴いた一発の弾頭は、海岸沿いで艦を襲い続ける八又の竜へ向けて発射されていた。

 風を切り裂く鳴りの音に八又の大竜は即座に反応している。煙った匂いに黒鱗の鼻もすんすんと嗅ぎ寄せ、岸壁の淵を踏み潰し、叩いたしぶきも跳ねさせながら海より上がる。

「こっちへ来ます」

 トゥエインが狙い通りの展開に戻った報告を上げるより先に、ギルディンは連なる部下たちに指示を出していた。ここまで何の考えもなしに、また手ぶらで来たわけでもない。

「頼んだぞ」

 古くからの戦友たちは、了解なる頷きを返してから二人一組み木箱付きとなってそれぞれの場所へと散会して行く。

「うまくいくと良いが」

 トゥエインは、長鉄砲に次の弾丸を込めながらギルディンの腕を叩く。

「何を今さら」

 失敗したのなら、己たちも終わりであろう。


「リオーデル陛下」

 至る所にひびを入れた玉座の間に進んだギルディンは、西国の王との再会で手を取り合った。どちらからともなく伸びる手と手が、がっしりと結ばれる。

「おお、ギルディン! よう来てくれた! よう来てくれた!」

 眉毛もまつ毛すら白くなった西国の王は、何度も何度も礼を述べる。

「まこと、来てくれるとは思わなんだ。そなたたちの存在が、どれほどの勇気と希望になったか」

 涙ももろく、手に手を取った拳に老いた額を擦り付けるリオーデルに、ギルディンは優しく述べる。

「それはこちらとて同じです、陛下。我ら南国と西国は、固い友情で結ばれております」

 顔を上げたリオーデルは、王としてはまだ若い指導者を仰ぎ見る。

「して、この先どうする? どうやってあれを倒す? ベルハートらは東へ旅立ったまま未だに戻らぬ」

 ギルディンは凛として言い切った。

「彼らは必ず戻ります。それまでに、まだ避難できていない民の救出を優先しながら、時間を稼ごうかと」

 揺るぎのない、堂々たる態度を受けたリオーデルは老いゆくだけの目元を細めた。初めて出会った時から逞しき青年であった男は屈強な戦士として日々、王たる王へとも成長しているではないか。

 ――かのような息子を授かりたかった。

 切なく願った思いは心の内に留め、リオーデルは執政や側近たちにギルディン王らと共闘するよう命じるのだった。

 

「充分に引きつけろ」

 八又の大竜が海岸沿いより、城を取り囲む城壁に向かって陸を進んでくる。行く手を阻む軒や民家などは自慢の赤い腹で押しつぶし。鋭い爪の手足と長い尻尾を器用に駆使して前へ前へとやって来るその一歩に、ズシン、ドシンと響く重き低音がついてくる。

「あまり近づけすぎると、ここも城壁もろとも崩れますよ」

 迫り来る大竜の延長線上にいるギルディンとトゥエインは城壁の縁で、その時を待っている。

 城の奥底にある洞窟では、避難した民たちが身を寄せ合って震えている。ただ恐怖で怯えているのか、身を竦ませる震撼が伝う度に驚いているのかも混同された時間だけが長く過ぎ。大竜は海側に面した山腹の城壁に最も接近していた。

「今だ!」

 ギルディンの掛け声と同時に。トゥエインが再び合図の砲声を今度は天に向けて発射していた。さすれば、城の片側で連なる山の一角が、多発同時的爆破の発破を受けて崩落し始めたのだ。

 八又の大竜は、片方より大量に押し寄せた森の木々を大量に含む山崩れによって押し流され、逃げる間もなく、あげくは足を取られて絡まりながら押し倒された。

「おのれ!」と取れる罵声を上げたか。耳を劈く金切り声の咆哮を上げながら。大竜は総崩れとなった山と瓦礫の中腹で生き埋めとなっていた。

「やったぞ!」

 作戦を遂行した者や、城壁の淵で防衛線を張っている兵たちから喜びの拳が付き上がる。

 なれど、これで終わりだとはギルディンとて思っていない。

「放て!」

 三度、司令塔からの伝令発煙砲が上がると。海上で陣形を整えていた艦より再砲撃が始まる。追い打ちの着弾先は、土砂と瓦礫に埋もれた中よりわずかに覗く、頭と頭。

 トゥエインは長筒を肩を使って一回転させながら弾薬を取り換える。そして狙うは八又の目だ。どれほど皮膚が硬かろうとも頑丈であろうとも、目は弱い。

 大砲の着弾を受けて火花や土砂が入り乱れる混沌の隙間を狙い、トゥエインは引き金を引いた。

 その一発は見事、八又が持つ十六の目のうちの一つを射止めていた。動けぬ身を悶えさえ、悲痛な猛りがこだまさせたそれは。大竜の怒りを爆発させもして。


 八又の大竜は渾身の力で喘ぎ、のたうち回る隙間を大きくさせながら。埋もれた中から全身を露わにしながら起き上がった。

 爆発的復活により、共に舞い上がった土砂や瓦礫が城に、城下に雨あられとなって降りしきる。

「陛下!」

 側近が咄嗟に庇うも、リオーデルたちが居た玉座の間にも巨大な岩が降り転がってきた。人の身丈の数倍もある岩が城壁を突き破り、跳ねた先の玉座すら押しつぶす。

 それだけではない。土砂に含まれていたのは山に生えていた森の木々だ。朽ちた木々の破片や小石すらも鋭い矢ともなり人々を襲ったのだ。

「陛下! ご無事で?」

 執政が、玉座と大岩の間に挟まれる格好で座り込んでいるリオーデルに声をかける。庇おうとした側近は岩の下敷きか。姿を確認することも叶わない大岩は、「早くどけよ!」と命じる執政の思いとは裏腹にびくともしない。

「陛下!」

 リオーデルは盟友を呼ぶよう、長年の親友に最後の頼みを託す腕を伸ばしていた。

 知らせを受けて、その手を取ったギルディンの目は潤んでいる。こんなはずではなかった。まさかそんな、こんな結果が導かれようとは、との苦悶も満ちて。

「陛下。しっかりなさってください」

 左半身が、がっつりと大岩で押しつぶされているリオーデルは、逆流する赤い液で溢れる口を懸命に動かした。

「ギ、ルディン……」

「陛下」

 老いた手は、最後の力を振り絞ってギルディンの手を握りしめる。

「帝都を……、頼む」

 それだけを告げ、六十年余りに渡り西国を治めてきた王は事切れた。

 執政は項垂れ、側近たちは涙を流して悲観に暮れる。そしてギルディンは、握られたままの手をそっと離して俯きながら踵を返した。


 打ち破られた城壁より外に出れば。今にも城ごと踏みつぶさんとしている八又と目があった。

 この目をやったのはお前か――。そんな目と目が合う。

 ギルディンは、鞘に納めていた剣を抜いた。今さら、この人間一人。剣一本で何ができよう。それでもギルディンは、一歩と引く気にはなれない。

「来いよ」

 圧倒的であろうとも。無茶で無謀であるにせよ。こうでもしなければギルディンの気持ちは治まらなかった。

 八又の中央に位置する頭の一つが、仁王立ちより動かないギルディンを一飲みしようと口を開けて迫る。それを許さずとしたのは、崩れた城壁側へと回った狙撃手からの一撃であった。

 これで八又は二つの目を失った。苦痛でもがき苦しむ八つの首と一つの胴体、そして八つの尻尾がところ構わずのたうち回れば。形あるものは破壊され、瓦礫の裾野が広がってしまう。

 荒れ狂う尻尾の攻撃を受けて、後退を余儀なくされたトゥエインは。動きの読めない尻尾から目を離さず次なる狙撃の場所へと移動を試みたけれど。予期せぬ瓦礫の落下を受けて行く手を遮られた。ぬっと背後に迫った怒りの気配で振り向けば。片目を失いし、八つのうちの一つの頭が静かなる憤怒を滾らせながらじっとトゥエインを眺めている。

 いつでも覚悟は出来ていた。ギルディンは陣頭指揮を執る立場であるのに、自ら先頭をきって敵陣へと突っ込んでいく男であったから尚更。死ぬときは一緒だと誓った親友と、ここで潰えるのであればそれも本望。

 ただ、もう一撃でいい。残った残弾は撃ち尽くしてから本懐は遂げたいとしたトゥエインは冷静に、大筒一本で大竜に挑み。玉座前のギルディンもまた、剣一本だけで対峙していた。

 しかし攻撃されるものを耐え忍ぶそれも、ほんの僅かな時しかもたない。海上からの砲撃はすでに止んでいる。砲弾が尽きたのだ。これ以上の策もない。

「あぁ!」

 ついには長鉄砲の先を咥えられたトゥエインが長銃ごと宙に浮き、振られて投げ出された先では丸腰となる。もはや喰われるしかない状況下に置かれても、この男は凛々しく八又を睨んでいる。

「トゥエイン!」

 ギルディンが相方の窮地を察して参上しようにも、頑丈な角で折れてしまった剣でこれ以上の何ができよう。

 八又はそれぞれ意中の人間を見下ろし、「さぁ大人しく喰われよ」と舌を舐めずる。幾重もの牙を剥きだしにして、いざ喰わんと被りつく――その前に。

 東の空より高らかと。「クウェールルル!」と鳴く白い竜が姿を現すのだった。


 あっという間の出来事であった。

 高く昇らんとする太陽を背に、白い竜が西国城下へ向かって超高速で飛行していた。大翼が一つと羽ばたく度に、尚の速度を上げながら。城下と西国全土に轟く大喝を叫んだあとは、その口と腹に大気を吸い込み。一撃の寒波を一方向へと吐き出した。

 猛吹雪と最強冷気を見舞う放出の先は八又の大竜。突然の飛来を受けて、襲い来るものに対応するべく体勢を整えるより早く、大竜の大きな体は生きたまま凍り付いたのだ。

 白い冷気の尾を引いた白線が、捕らえた獲物の頭上で急上昇すると。遅れてやって来るのは、二人の人間。竜の背にしがみついていた二人は、目標に到達する前に自ら間合いを測った地点より飛び降りていた。

 生身の滑空をもって一人は軽装素手の、一人は手に大剣を持つ男たちが連動する波動の矢を率いながら八又の大竜目掛けて突っ込んだのだ。

 互いに正面より衝突したかに見えた交差は、すれすれを行き交っただけの交錯に過ぎなかった。なれど、間近で大振りを切った大剣が八又の大竜の腹を真っ二つに掻っ捌くと。常人の目には見えない切断の凪が、八つの頭を喉元より切り落としていた。

 ベルハートはギルディンの手間に降り立ち、アニーは転がり着地した先で蹲っているトゥエインを抱き起しながらその場から即座に離れる。

 頭を失っても独立した反射的神経によってであるのか、尻尾が独自に震えだし。盛んに動き出そうとするのをベルハートとアニーは見逃していない。

「ピュイッ!」

 トゥエインを肩で支えながらのアニーが口元で鳴らした笛一つで、上空にて旋回していた白線が地上の淵へと舞い戻る。どっしりとしていても華麗なる白い足を城壁に掛け、再びの大気を吸い込み。放出に必要なエネルギーをため込む両翼すら広げる姿は光が輝き、神々しい。

 凍てつくものを振り払わんとしたのは尻尾や、頭をなくした首だけではなく。その頭も、考える思考を失ったはずの手足もまた、再び動きださんともがいているものを。永遠に凍らせてしまうかの冷波が襲う。そしてベルハートは。分断された八又の大竜を成していたものをもろとも。一打の一刀だけで粉砕したのだ。

 氷漬けにされ、あげくは粉々に割れた八又は。自ら暴れまわって作り上げた瓦礫の方々に散らばり朽ち果てた。

 これにて西国、リオーデルが刻んだ御世も終わった。


 その日や翌日は、茫然とする中でも片付けやら犠牲となった者の葬儀や追悼、生き残った者の救助活動などで忙しく追われ。暗く落ち込める雰囲気が漂う時間が過ぎた。

 人為的にも大打撃を受けた国を如何に再建してゆくかの方針まとめた時。民と官、全会一致の動議と採決により西国と南国のこれからを定めた三日後。亡きリオーデル王の後を継ぎ、直接託されもしたギルディンが西国の王に即位する儀が執り行われた。

 新調された王冠を、ギルディンの頭に乗せたのは西国の執政であった。

「リオーデル陛下が最期に望まれたことです。ギルディン陛下、我らが王よ」

 そう述べてから恭しく、臣下たちと共に新たな王の前で跪く。

 戴冠式には南国の兵や民たちも入り乱れて参列している。

 これにてギルディンは統治ていた南国を放棄した訳ではなかった。残された南国の民だけでは、あの港城下を再建するには水も食料も、資金も材料も人手も足りなさ過ぎたのだ。

 それこそ船だけは無事であったのが救いであった、その時に。頼ざるを得なかった西国が襲われている一報がもたらされた。見捨てる事など出来ず、使える武器や兵の全てをかき集め。身を守る術のない民たちも引き連れ、応援に駆け付けた次第である。

 今さら南国へ戻ったところで。住める処はなく。野や畑を耕しても、芽が出て実がなる収穫が可能となるのは上手くいけばの半年も一年も先の話。先の見えない展望の渦中、如何に民を路頭に迷わせず飢えさせずに済むのかを考えた時に。その答えは一つしかなかった。

 ギルディンは戴冠式で大衆を前にこう述べた。

「もはや西も南も関係ない。ここで皆で助け合い、共に歩もう。手を取り合って新たに始めよう。再び、あの美しい南国が復活する日を迎えるには、まず。この西国を豊かにしなければならない。幸いなことに――」

 新王の所信が表明される傍ら。こちらも新たに誂えられた新帝都騎団の装いに身を包む団長が姿を見せては王の隣に立ち、喝采で迎えられる英雄の名は。

「ベルハートは、我らと共に歩んでくれることを選んでくれた。これほど心強いものはない」

 演説が続く中で、アニーは崩れたままの城壁に腰かけ、白線と戯れていた。その装いは南国の白と金と、西国の紫色を取り入れた門出の正装にして、ベルハートと同じものである。


 戴冠式を終えてから、ギルディンとベルハートは再建の一歩を歩み出した城下を見下ろす城壁で語り合っていた。

「――リオーデル陛下の意志は尊重したい」

 めったなことで竜を狩ることなかれ。

「食物の連鎖、生きとし生けるもののバランスが重要なのもわかるんだが――」どちらか一方に傾いては、生ある世界そのものの均衡が崩れることを二度も学んだ。「人とは。忘れる生き物でもある。どうしたらこの争いをなくせる?」

 ギルディンの問いに答えたのは、先に城壁を陣取っていたアニーであった。

「なくならないよ。命が生まれるところでは永遠に。なくならない」

 呟かれたものを、ギルディンはどこか寂し気に見入っていた。

 活躍した白線は、竜にも良い竜と悪い竜がいる証拠であるとして民衆にも広く受け入れられている。その白線に、好物の林檎を笊ごと運んできたのはトゥエインである。

「食べる?」

 白線は甘え声を上げて鳴き、アニーは居心地も悪そうな態度を取りながらも顔を赤らめて林檎を受け取るのだった。


 そんな二人と一頭のやり取りを横目に、ギルディンはベルハートへと告げている。

「俺にも――」

 あんな力があれば、と続く言葉は声にならなかった。

 ギルディンの中で強烈に印象付いている、ベルハートの尋常ならざる力と剣技。まさしく彼は今、この地上で最も頼れる男であろう。

「……子供の頃から、夢だった。一撃で敵を倒す強者になりたいと願っていた。きっとそうなると」

「……」

 ベルハートは夢うつつに語るギルディンを眺めてから、視線を逸らす。

 空には満点の星々が栄光あれと、万雷の拍手をしているかに燦々と輝いている。そこで流れた一筋の流星はあっという間に消えてしまうけれど。

 東へ飛び立ったままのバハムートレヴァニアの消息は今でも知れない。アニー曰く、八又の大竜なぞに構っていられないものがあるのでは、と言うそれは憶測であるものの。誠であれば、おぞましき事態ではなかろうか。

「欲張らない方がいいんじゃないかな?」

 何だって、とギルディンはベルハートを見やる。

「お前は王だろ。誰もが慕い、誰も成し得なかった西南の王だ」

「お前は、竜狩り――か。ベルハート」

「あぁ」低く唸ってから続く。「きっと、意味があるんだろうよ」

 そう述べてからベルハートは、すっかりトゥエインに懐いたアニーや白線の光景に視線を向ける。

「……で? そろそろ観念したらどうなんだ?」

 ギルディンはいったい何の話かと目を丸めてから、やがて細めた口の端もにやりと上げた。

「……お互いさまだろ、友よ」


 それより離れたところで、二人の視線に気付いたアニーもトゥエインに訊ねていた。

「ねぇ。あれ、いつも何の話をしてるの?」

 トゥエインは和やかに微笑みながら言った。

「踏みきれない大の男の、大人げない話」

 アニーは瓦礫の最上段で。「何それ。全然わかんない」と小首を傾げて満天を見上げた。

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朽ちいた瓦礫の最上段で 久麗ひらる @kureru11

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