朽ちいた瓦礫の最上段で

久麗ひらる

前編


「――また竜狩りが殺されたらしい」

 男は大衆居酒屋の隅で、背中越しに呟かれた話を耳に入れていた。食事に使うナイフとフォークが擦れ合う音や遠くのテーブル、カウンター越しに大声で笑い合う者、怒鳴り合う者の賑やかな店の中でも。常に緊張の糸を張り澄ませた耳に、続きが聴こえる。

「最近、その話よく聞くさね」

「こんなちっぽけな村にも聞き及ぶくれぇだ。西国一の帝都じゃ、そら大した騒ぎらしい」

 決して栄えているとはお世辞にも言えない、山間の小さな村の一角に唯一の酒場はあった。村に住まう大抵の男は日が暮れ、仕事を終えると一杯をやりに訪れる。

 そこでの話の種は、もっぱらビールジョッキやつまみ料理が乗った皿を器用に運ぶ、村唯一の若い女の色恋話か、仕事の愚痴か。日中、山仕事か家畜、農作業ばかりの男たちの肌は小麦色に焼けている。だから余計に、言葉を発する度に覗く白くも黄色くもある歯が、テーブルを照らすオイルランプのてかりに反射して薄気味悪くも揺らめき、花が咲く。

「見るも無残に、ズタズタだったって話だ」

「恐ろしいこった」

 しかし、誰も「酷いねぇ」との同情は寄せていない。それもそうだ、と聞く耳を立てていた男は、一杯だけと決めていたジョッキの中身を一気に煽り、空にした。同業者の末路なぞ、耳にしたところで何になる。

 幾重にも重なる防備をその体に纏っていても、衣類の下には逞しき肉体が備わっているだろう男が木製の椅子を引き、立ち上がると木目の床が擦れて鳴きを上げた。独り身の旅装備――とは言え、手を伸ばして掴んだ大剣に。如何にも鎖鎧を入れているが為に重いのだと言わんばかりのずた袋を手早く屈強な体に纏えば、見ず知らずの者にでも彼が冒険者、如いては剣豪かと容易く想像できるだろう。

「あんた、もしかして竜狩りかい?」

 足早に立ち去ろうとした男に、話のネタを持って来た白髪交じりの男性が尋ねていた。

「……だったら何だ、じいさん」

 無言でやり過ごすことも出来た。けれど、これより先は一本道だ。どの道、用を済ませたのちにはここへ戻って来ることになる。仕事を終えた後の一杯を煽れなくなるのが、些か寂しく思った。

「へへへ」

 三人組の初老衆は、ビールを片手にお互いの顔を見やっては笑いながら、三十路に窺える男を仰ぎ見る。酔いも程々に回っているのか、一度堰を切った口火は次々に止まらなくなった。

「旦那、そりゃあ無茶ってもんよ!」

「そうさね、やめときなって。今は殺されるのがオチだって、お仲間さんはみーんな転職するか、なりを潜めて息すんのも怖ぇってガタガタ震えてるって話さ」

「旦那がどれほどの剣士か狩人かも知らねえけんどよ。知らねえのかい? ここらで名立たる勇者さまも騎士団ご一行さまもみーんな死んじまったぁよ!」

「そうさね。竜狩りは一攫千金、花形なご時世だけんど今は分が悪すぎる。腕試しなら余所か他でやったほうがいい」

 他のテーブルやカウンター席に座っているのも大よそ、この土地の者だろう。皆が口々にそうだ、その通りだと賛同する光景を一瞥した男は。発言の大元を見やって静かに述べる。

「俺は竜しか殺さない、ただの竜狩りだ。噂も、竜狩り殺しにも興味はない」

 渋い声色を押し出した、心からの本音だった。

 竜に対しては怒りと恨み、復讐の念しか抱いていない。己以外の竜狩りに何があろうとも全ては自業自得の世界。人の何十倍の姿形を持ち、人間の幾百倍の力とパワーと、幾万の生息力を誇る恐ろしき竜と対峙し、退治しようとする側にだって相応のリスクがあるのも百も承知。

「あっちは竜狩りしか殺さねぇって話さ」

 この世に人間という名の種族と、竜という生物が共存するようになってから常に互いの存在は対局にあった。その首を捕った者は英雄となり、喰われた者はただの餌となるだけの。より強きものだけが生き残れる実力世界。

「それでもあんた、竜を狩ろうってんのかい?」

「あぁ。それが生きがいだからな」

「……旦那。あんたも他の、やられた竜狩りと一緒さね」

 その男に何を言っても無駄と覚った初老は、小刻みに首を横に振りながらビールを口に運ぶ。

「明日も同じネタで酒を飲むことになりそうだ」

 冷やかしと、哀れ不憫が交じり合う白い眼を一斉に背へ受けながら、男は酒場を後にしようとした。

 すると初老の一人が、名残惜し気に立ち去る寸前の男を呼び止める

「旦那ぁ、あんたの名は? 一応、聞いといてやる」

 もしもの場合に備えてのことか、話のネタにする為かもどうでも良かった。ただ、そういう男もいたとする証拠には違いないとして、大剣を腰に装着した男は素直に自らの名を口にしていた。

「ベルハート」


 酒場を一歩と出た外はとっぷり日も暮れ、軒下の先、雲の隙間から覗いているのは満点の星たち。その輝きを綺麗だと共に見上げ、美しさを共有したい家族も身内ももういない。

 必ずや討ち果たす――。ベルハートの心は滾る懇願で燃えている。

 俺は他の竜狩りとは違い、決してどじなど踏まない。そう思っていた。酒場を後にして一人、明かりのない山道を歩き、峠に差し掛かるまでは。


 月明かりだけが頼りな砂利と木の葉が積み重なる道なき道を一人、たっぷりある時間をかけながら孤独に進んでいると、自由気ままにほうほうと鵺が囁く鳴りがぱたりと止んだ。

 ベルハートは呼吸を殺し、気配を忍ばせた。深い森の木々の中で五感を沈ませ、周囲の様子をじっと見据える。研ぎ澄まされた聴力に拾える音は届いてこない。ならば夜に盛んな鵺を黙らせた主は――。

「っ!」

 はっと、峠の頂点に視線を上げる。宵に慣れた暗闇の中でも、その姿は容易に視界に飛び込む。

「……」

 ごく自然と息を呑んだ。

 これまで六の大竜と雑食のワイバーンを数十匹。人食いのワーヴニルの首を幾つも獲ってきた。それでも未だにドラゴンとも龍とも呼ばれ称される竜の全種類に出くわした訳でもなく、羽根ある飛翔蜥蜴に分類される凶悪なワームドブルムを直接拝んだこともない。そもそも竜狩りを名乗るには、三年目の経験値ではまだまだ駆け出し。新人の部類に過ぎない。

 その竜が本当に人間へ害なす竜なのか、はたまた人と共存してくれる優しき竜なのか、見た目での判断は極めて困難である。だのに、岩場の上でひっそりと佇んでいる空の王者、翼ある生き物を美しいと思うとは。

 大抵の竜やワイバーンの姿は、真っ赤に噴き出したマグマが冷え固まり、ごつごつとした黒や灰色が混じる溶岩を纏ったかの不気味で分厚き皮膚で覆われていて、人の成りとは一線を概しているのに。今、ベルハートと一対一で対極している竜は、白亜の光で艶めく体毛を風に靡かせ、瞬く瞳は我が子を見守るかの如くに慈悲深き眼差し。星を背に、揚々と広げた両翼は、満天の星々が透けて見えたのかと見間違うかの、それは。個性豊かな柄を持つ蝶や花々たちだけに許されたはずの美しき流線型やドットの点が、麗しき紋となって展開しているではないか。はっきりとした青でもなく紫でもない、見方によっては虹色にすら窺える真っ白な全身がぼんやりと鈍く光る発光の手前、幻想的な光景となって見入る者を圧倒してしまう。

 ――よもやこれが世界に指折り数体しか存在が確認されていない希少なベイモスサラマンダーか。しかしサラマンダーにしては体格がやや大ぶりすぎやしないか。ならば、まさかのバハムートか。どちらにせよ初対決の初顔合わせ。鼓動も震える。

 ベルハートが踏ん張る足元は山の急斜面。次なる一歩を踏み出し攻撃態勢を取るか、防御の姿勢を取るかで己の生死が決まることなど知れている。いずれにせよ、腰に下げている大剣を抜かねば刃は、本懐をつげぬままただの鋼に成り下がり。遭遇してしまった以上、何らかの行動を取らねばならない。

 ゆっくりと剣の鞘を左手で持ち構え、右手で柄を握り刀身を露わにする巨漢の体重を支えていた足元で、パキリと小枝の折れる音がした。

 とても小さな音であったのに、森閑する闇と森の中ではやけに大きく反響して響く。

 月光を帯びた鋭利な刃渡りも、キンと冷えた無垢な牙で静かにどよめく――あれは敵だ。

 夜も更け、晩秋の冷え込みが厳しくなった吐息がうっすらと白く棚引き。物言わぬ同士の視線と視線が、瞳と瞳でじっと動じぬ交錯を続ければ。先に動いたのは峠の牙城であった。


 人間の数十倍はあろうかと目測される躯体を、真っ暗な夜空へと舞い上げるに必要な羽ばたきは大中小を含めて五回ほどあった。直上したかに思えた飛翔体は、一途の頂点より今度は落下の勢いをつけて滑空態勢に移行する。

「ふん。やはり食う気か」

 やつらは所詮、人間を食料とだけしか思っていない。

 ベルハートの周囲には高い木々が立ち並び、生い茂った枝葉が虹色の白炎尾を引く白竜の姿を見え隠れさせながら。頭上で旋回しては、食らいつくタイミングを見計らっている一手にどう立ち向かうかを試案していると、背後に人の気配を察知してはっと振り向く。

「誰だ」

 こんな時に。こんな場所で何をしている、なる野暮は吐かない。ここは戦場。紛れ込むのは見物人か同業者と決まっているけれど。大剣すら向けた先に立ち竦んでいたのは、歳にして十五くらいか。実に細身の少年であった。

 ――子供だ。甲冑も纏わず、薄い布きれと簡素な革細工のみを身に着けているだけの少年は、ベルハートをじっと見据えて述べた。

「あんたも竜を狩りに来たの?」

「何?」

 大袈裟に眉をひそめたベルハートの中で警鐘が鳴っていた。まだ幼き面影をありありと残す童顔の少年はひょろりと細く、頼りない姿であるのに、その瞳には確かと雄々しき怒りのオーラが宿っていたからだ。何より漂ってきた体臭が獣臭い。――こいつは普通じゃない。そも、竜と生死を分ける最前線で、剣も防具も身に付けぬ軽装などあり得ない。

「竜を狩りに来たの? って聞いてるの」

 ベルハートは頭上の動向を五感で察知しながら、少年とも対峙する。二人の間には、互いに飛びかかっても避けられるだけの充分な距離はある。危機感のハードルだけは下げず、一先ず構えた大剣の矛先を斜面へと下ろして相手の出方を探る。

「……そうだ」

 ベルハートが余韻を与えながら返答すれば、少年は即座と質問で返してくる。その応答に迷いはない。

「どうして狩るの?」

「それが俺の生きがいだからな」

「竜を狩る理由は?」

「竜が、人を狩るからだ」

「人間が先に竜たちを狩り始めたのに?」

「竜が、人間に手を出すからだ」

「確かに中には悪さをする竜もいる。でも人を守り、人を敬い、人と共存できる良い竜だっている」

 ベルハートは淡々と話を進める少年を睨みつけ、会話に終止符を打とうとした。今宵は御託が多すぎる。

「ここで詭弁とやかく議論する気はない」

 少年は切なき半眼を流した肩で息を深く付き、諦めの境地でベルハートを見定める。

「どうしても竜を狩る?」

「そうだ」

 ベルハートは言い切った。

「俺は竜しか殺さない。それを生業にしている。この先も、永遠にな」

 さすれば少年も明確に宣誓する。

「僕は、竜を狩る人しか殺さない」

 ――こいつめ! 互いにそう思っただろう思惑の枷が外れた。


 対竜なら場数を踏んできたベルハートも、歳いかぬ少年と竜を同時にまさかの夜戦とは思いもよらないことだった。

 ベルハートを仕留めようとする少年の殺意は本物であり、彼を援護するかの白竜は四方、様々なところへ気を配り、または見張っているかの素振りで本気の攻撃はしかけてはこなかった。なれど少年の立場が危うくなると、すかさず決まって助太刀を申し出る厄介な連携プレーにベルハートは翻弄され続けた。

「はぁ、はぁっ。くそう」

 大概のものと対峙した時に、物怖じしない性格も備わる俊敏さも全て、持って生まれた天性だ。大陸最大の都市で宮廷にすら仕えていた元師団長が、竜狩りに鞍替えするのも容易かった。剣の扱いにも格闘技にも優れていた相応の腕もたった。けれど仲間の援護も見込めない個人的な長期戦になればなるほど、歳三十を過ぎたベルハートには体力的な面では相当不利となる。ましてや腕は未熟なれども、若さあってのすばしっこい相手に手を焼かされるなど。後手に回れば回るほどに取り返しがつかなくなることは目に見えて明らかだ。

「くそったれ!」

 少年が攻撃に使う摩訶不思議な力に疑問も抱く。剣を使う訳でもなく、銃のような飛び道具を使用している訳でもないのに。手の甲を覆い、指先だけが覗く黒い皮手袋が器用に振られ、踊りを舞うかの動作を取る度に、何らかの波動攻撃を受けるのだ。

 目には見えない透明な空気の、圧力攻撃を最初は避けきれずに、真正面からドンと押し出される衝撃をまともに受けた。結果、大きく仰け反り、後方へと吹っ飛ぶ。そこは山の急斜面。場所によっては砂利に似た岩肌がむき出しの箇所すらあって、草すら生えていないところで滑り出せば、勢いづいた転倒は加速を辿り。背の着地から始まった後方回転を繰り返し、止めどなくごろごろと転がる先の、ようやくの堰変わりとなった太い幹の根本で転落を止めることが叶う。

「何なんだ!」

 強打した後頭部を摩り、出血の有無を確かめた矢先の視界に。少年が、今度は腕を大きく横一文字に薙ぎ払う仕草を捉えたものだから。ベルハートは咄嗟に、尻もちをついていた場所から即座に真横へと飛び避け移動すると。遅れてやってきた無味無臭の空力波動は、大の大人が両腕を回しても抱けないほどの幹を持つ大木を根本から、ばっさりと切断していたのである。

 斜面で傾き、真っ直ぐ立っていられなくなった大木は重力に従い、片寄りが出る側へと倒れるしか術はない。

「嘘だろおい!」

 避けやすかった方向、つまりは斜面の下り側へと避難していたベルハートに向かって、頭をもたれた大樹がメキメキと淀みながら伸し掛からん勢いで倒れ込んでくる。

 山肌の一角で、地響きを伴うバウンドが一回轟いたのちに静寂が訪れる。しかしその号砲は、一発だけでは終わらなかった。続いて二発、三発と続く爆音が鳴り響けば。近くて遠い麓の村でも異変を察知する者が現れ始めていた。


 時は既に夜更けも進み。多くの村人はすっかり寝入っている時刻。冷え切る月は、流れ込む暗雲に白亜の姿を隠され。ぷんと匂った鉄とも、埃臭いにも似た独特の香りが鼻先に漂えば。やがて降り来る雨を予感させる。

「おおい、向こうの山のほうが何やら騒がしいぞ?」

「ありゃあ何だ? 時々白く光ってるのは……?」

 男たちが暗闇に目を凝らし、細めても丸めても状況はまるで窺い知れない。

「概ね、さっきの竜狩りが暴れてるんじゃねぇのかい? ったく。もっと余所でやって欲しいもんだね」

「しかしあの峠にゃ、今まで竜が現れたことなぞ一度もねぇがね?」

 男衆を中心にした村人たちが松明を片手に村の中心へと集まり、姿を窺えずとも地鳴りがどよめく山間を見入っていた。

「なんだ?」

 目を凝らしても見えない山側ではないどこからか、耳障りな音を聴いた気がした男が一人、まだ真っ暗な空を見上げた。バサリと羽ばたく音も聴こえたような気がして人知れず、松明を持つ集団より数歩と離れた暗天を見入る。――気のせいか。

 その顔に、ぽつりと一滴の水滴が当たり、男は手で拭った。

「雨か」

 夜が明ける頃には本格的な雨になろう。さすれば折角の農作業が遅れてしまう――とする心配より先に、するべき対策があったはずなのに。遅れた。


 それは突然の、名もなき訪問者だった。ノックもない。挨拶もない。せめて、これから襲うとする雄叫びの一発さえ上げていれば、村人の一人は食われずに済んだのかも知れないが、後の祭り。

「うわああああっ!」

 近くで集まっていた村人たちが、蜘蛛の子を散らさんが勢いで四散する。

「竜だあ!」

「人食い竜が現れたぞおお!」

 ある者は、嫁や子供らが何事かと外に出ているのを認めては「家に入れ!」と身振り手振りを大袈裟にして戸を閉め。ある者は大の大人一人に食らいついては掻っ攫いながら軽く丸のみした飛翔体を茫然自失と目で追うしかできずにいる。次はお前だと睨まれ続けてもいるからだ。その獲物を定めたオレンジ色の、瞳孔も縦長が特徴的なのは人食いワーヴニルに違いない。知性は低い。じめっと淀んだ湿地や湿気の多い場所をより好み、腹が減ったら姿、形はよく似ている雑食のワイバーンですら共食いしてしまう肉食竜の底辺属だ。あえてワイバーンとの違いを上げるならば、捕食の際に一匹狼であるのがワーヴニルで、常に集団行動で群れを成すのがワイバーンだと、この時代の書物には記載されている。

「馬鹿野郎! 早く逃げんか!」

 村の長老は、棒立ちとなっている男の背を殴るようにして叩き押し出し、「警鐘を鳴らせ!」と若い男に怒鳴りあげた。一匹とはいえ、村が全滅し兼ねない恐ろしき事態に変わりはない。


 山の麓より、カンカンカンと鉄の鐘が鳴り響くのを、肩で息を切るベルハートの耳にも鮮明に届いた。丁度もその時、切りたった崖の最前線で後にも先にも引けない絶体絶命の立ち位置であったからこそ、よくよく麓が一望できたからだ。

 音のする方角へと視線をやれば、村の隅々で大きな火の手が上がっているのも見て取れる。明らかにあの村で何らかの異常が起きていて、助けと応援を請う狼煙も上がっている。切羽も詰まった、危険な状態に陥っているのは一目瞭然。

 しかし襲われているのは村だけではなく、自身とて――。

 一瞬、警鐘に全神経を奪われたベルハートが。まずは現状を打破せねば、と態勢を如何に整え直すかを思案した時。命を奪うことだけに専念していた少年は、すっかり戦意を沈めて村を見つめていた。

 ベルハートにだけ専念していた敵意の視線は今、間違いなく村へと向けられている。彼とて気にしているのか――、とベルハートが少年の視線を追った矢先。

「フィッ!」

 短い口笛を口先だけで吹き鳴らした少年は、一歩と引けば足場のない絶壁の下へ落下するのみとするベルハート目掛けて突進して来るではないか。

 駆け出した猛進が、一心不乱で直進してくる少年に対してベルハートは大剣の矛先を向けるしか術がなかった。

「くそったれ! 俺は人には手にかけねぇ主義なんだよ!」

 ベルハートは人斬りではなかった。これまでも、獲ってきたのは竜の首だけだった。人殺しにだけはならないと、人の道だけは外れないとしてきた信念が今、大きく揺らごうとしている。よりにもよって、最初の相手が子供とは。

 大剣を構え、打ち払うか薙ぎ払うかを直前まで判断し兼ねたベルハートなぞ横目に流した少年は。自ら断崖絶壁の淵を踏み込み、空高くへと跳躍していた。

「おいっ!」

 ベルハートが飛んだその背に声を発したのも、もはや手遅れ。少年の身は軽々と宙を舞うどころか、放物線を描いた先より遠い地面目掛けて落下していた。

 いったい何を考えてのことか。自ら奈落の底へとつながる崖から飛び降りるだなんて――とする思考が纏まらない内に。ベルハートは真後ろから迫った衝撃に押され、あっと声を発するよりも先に。その体も空中に移動していた。


 ベルハートの胴体を鷲掴んだ白き竜は、凄まじい飛行スピードで滑空している。――あいつを拾う気か。

 冷たい大気を裂くかに飛んでいる速度も速いが、風を切る寒さは、薄っすらとだけ開ける事が叶う目によく染みる。それに風圧で頬がぷるぷると震えてまともに息も吸えずに呼吸が苦しい。

 バサリ、と白竜が一つ翼をはためかせれば。また一段と空を翔けるスピードがぐんと上がった。暗闇の中でも近づく地表。少年はこのまま深い谷底へ落ちゆき、激突してしまうのではと内心はらはらとしたベルハートの心拍数も急上昇している。

 あと少し。ほんの何秒とコンマの差であっただろう。少年は、谷底すれすれの地点で白竜が最大限に伸ばした長い首の頭に細い腕を絡め、拾われる形で着地した。直後、今度は一気加勢の急上昇でむしろ、後ろ足で鷲掴みにされているベルハートの足が、地表の肌を舐め掠めて冷や汗をかく。

 ――何がしたい。俺をどうする気だ。まさかこのまま上昇軌道の最高地点より放り出す気ではないだろうな。と思いを馳せたベルハートの思惑は当たっていた。


 少年を頭部に乗せ、ベルハートを後ろ足で掴んでいた白竜は、ワーヴニルに襲われている村へと直進している。刹那、村一番の広場で応戦しようと試みている長老と力自慢な男衆たちの間に、ベルハートは放り出された。

 華麗なる着地などない。投げ捨てられた先は、乾燥した俵山の上だった。突っ込んだ速度もかなりのものであったので勢いは止まらず、俵山をぶち抜いた先でもごろごろと転がり、五、六回転したのちにようやく止まる。それでも大剣だけは手放さずにいた自分を褒めてやりたいと思う心に余裕がある自身にも驚きながら。――まだ俺は生きている。

「……の野郎」

 何時間も掛けて登った山々よりたったの数秒。振り出しに戻るでは割にも合わない。折れずにいた大剣を杖替わりにして、ベルハートは唇について離れない藁の繊維をぺっぺと吐き出しながら、ボロボロになった姿を立ち上げた。

 降りだしていた小雨は、霧雨を通り越して本降りへと変わっている。水を含んだ大地は泥へとも変わり、足元は容赦なくぬかるみ条件は悪くなる一方だ。

「旦那!」先の酒場で名を訊いてきた初老が叫んでいた。「後ろだ!」

 ベルハートは動じなかった。

 振り向くよりも先に舞った大剣が鋭く、背後より大口を開けて迫ったワーヴニルの首を根こそぎ掻き切った。大よそこの世のものとは思えない耳を劈く断末魔が上がり、恐怖に慄いていた人々の顔色は、耳障りな悲痛を叫ぶ悲鳴に耐え兼ねた苦悶で歪む。

 一撃で仕留められた躯体からは体液と血しぶきが迸り、大剣に絡みついた血液を振り払った流線は、ねっとりとボタつく点と点で結びつく。

「すげぇ……」

 降りしきる雨の中。鍬の手を手にする血気盛んな若者が、ずぶ濡れになるのも気にせず豪傑なベルハートを惚れ惚れと眺めている。流石は竜狩りを名乗るだけのことがあり、振るった剣も伊達ではなかった――と感心するその背に忍び寄るのは。

「もう一匹いるぞおおお!」

 周囲から発せられた誰かの怒号で若者が振り返った時には、それはもはや避けられない目前に迫っていた。


 まさかのペアか、珍しい。

 ベルハートは若者を食らわんとしていたもう一匹のワーヴニルが、宙より音もなく忍び寄った白竜によって首根っこごと掻っ攫われ、仕舞いには命を絶たれる光景を他人事のように淡々と見ていた。

 つい先ほどまで、あれに殺されそうになっていたというのに。白竜は人を襲おうとしたワーヴニルを逆に躊躇いもなく殺めた。結果的に人間を助けたのだ。これでは少年が言っていたように、竜にも善悪の区別がつくという実証になってしまう。

「そういや……」

 あいつはどこだ――。ワーヴニルを仕留めた白竜にくっついてはいなかった。

 ベルハートは周囲を見渡し、未だ混乱と混沌で満ちている土砂降りの中。薄っすらとではあるものの夜明けを感じ取りながらも彼と、一つの可能性を探し求めて村外れにまで移動していた。

 自分は英雄ではない。ベルハートはそう自負している。どれほど竜を狩ろうとも、勇者気取りで狩った数を自慢する気も毛頭ない。中にはそれで貴族の地位を得たり、大金で豪邸を築いた者もいるにはいるが。ベルハートは金儲けでも、生計を立てるでもない別の大義名分で竜狩りを成り立たせている。

 村の外れも外れ。見捨てられた納屋の淵で少年は佇んでいた。

 藁仕立ての屋根も朽ち果て落ちた、古びた小さな納屋の中では。幼き男の子と少女が二人、肩を寄せ合い、寒さと恐怖で震えていた。

 親は、貧乏暮らしに悲観でもして子を置き去りに村を出て行きでもしたか。ベルハートは納屋の片隅で座り込んだまま怯える子供たちに向けて、静かにそこに居ろとだけ指手で合図を送る。

 いい子だ――、そんな視線を外した後で。先まで死闘を繰り広げていた少年の背中越しの先に。もう一匹のワーヴニルの姿を視認した。

 やはりいたか、とは心の中で呟く。

 ワーヴニルは仲間同士で群れを成すことはない。一頭完結。ペアであることは子作り、または子育て以外では考えられず。厳冬を控えたこの時期に。雄と雌が同時に狩りに出る理由はただ一つ。竜とて我が子は可愛い。腹を空かせた我が子の為に、それは必死となって餌も探そう。

 かの少年が対面しているワーヴニルは、先ほど村を襲った成竜とは違い、小ぶりであった。見るからにまだ己では狩りも成し得られない、雨に濡れた翼とて飛ぶには未発達で、未熟さが見て取れる。

「あう、わう」と威嚇で吠えるにも圧倒的な声量すら持たない子竜を、少年は憐れむかの眼差しで見つめているだけだった。


 少年は、背後へと近寄ったベルハートにふいに訊ねた。

「竜狩りなんでしょ?」

 だったらこの子も狩れば、と小首も傾げられ。ベルハートは真意を掴めず返答にあぐねた。不思議とは今は少年に襲われる気がせず。納屋の中に子供がいる所為かは定かではないけれど、少年からは殺気が微塵も感じられなかったので近づけた。

「一匹やるのも二匹やるのも、同じじゃないの?」

「だったら。お前がやればいいだろ」

 正直、気が乗らなかった。だからといって、この子ワーヴニルを見過ごしたところで成長した暁には、人を喰らうだけのワーヴニルが一匹増える結果も目に見えている。

「相手が子供だから?」

 ベルハートは困惑の表情を灯しながら振り返った少年を黙って見やる。

「僕は、竜狩りしか狩らない」

 なるほど、そうか。合点がいった。それで俺を連れてきたのか、と今になって覚る。

「俺はいつでも狩れる、か」

「そうだよ。僕は、竜は狩らない」

 ベルハートはささめ降る雨の中で、深く長く溜息を吐いた。

「――お前、名前は?」

「聞いてどうするの?」

 確かにそうだと自問もした。訊いたところで何になると。

「最期に教えろよ。折角だから」

 何の因果でこうなった、と今になって走馬燈も過る。

 少年はしばらく考え込んでいた。そして「アニー」と告げた。たったの一言。


 結局、幼きワーヴニルの命はベルハートが引き受けた。その間、アニーはじっとその様を見入るに留まり。人間側を救ったはずのベルハートは何とも居た堪れない境地にも陥っていた。

 そして、一つの村を助けたその後に。雨も本格的な土砂降り模様を呈する中で。ベルハートとアニーは、人知れずの山奥へと対峙の場所を変えて対決する運びとなった。

 何度も大剣と、殺傷能力の高い見えない風圧との鍔迫り合いを繰り広げ。交わした先で直撃を受けざるを得なかった大木がまた一本、巻き添えをくらって倒れ込むのを。ベルハートは見届けることなく振動だけで感じ取る。

「そんなに俺をしとめたいか?」

「僕には僕の、道理がある」

 双方の意見が合意に至ることはなかった。

 ただし、最後の場所はベルハートが自ら進んで選んだ場所だった。深い森の木々がひしめく谷と谷の間。倒木の後も生々しい急斜面を目と鼻の先にした、わずかに開けた窪地に神聖さや色気があるかなどは求めていない。

 茶色く濁った流水が、あちらこちらの山肌から噴き出ている。それだけの雨が降り、山中に吸収できなかった水分は相当な量であるのだろう。時には小石がころころと山腹を転がり落ちてゆくのは、二人の人間が生死を賭けて暴れまわった反動か。とにかく辺りはどろ沼だった。


 その頃にはすっかり夜は明けていたものの、低き暗雲が立ち込める空はびっしりと淀む灰色の雲で覆われていて明るくはない。ベルハートの展望を予期するかのように。

 少年アニーは本気でベルハートを殺そうとしていた。アニーより繰り出される目には見えない風の切断波動を避ける体力も気力も既に、ベルハートからは失われていた。寒さと雨風で奪われ続けた持ち前の持久力も尽きかけ。この対決に勝敗をつけるなら、当に決着はついていたのだ。

「はぁっ、はぁっ……」

 大剣を振るう腕力にも自信はあったが、とっくに力はこもらない。片膝をつき、大剣を支えに踏ん張る足へ力を込めようとしても、筋肉はぷるぷると震えるばかりで立ち上がれないところにまで来てしまった。

「あぁ、くそ」

 ――これで俺も終いか。ベルハートは短く刈り上げている頭髪、頭皮を伝って頬を滑り落ちる水滴に赤いものが混じっているのもお構いなしに手で拭う。その手の感覚もしびれがきていて酷く鈍い。

 ――まぁ、ここらで充分なのかもな。そう思ったベルハートが何より大切にしていた家族や仲間を奪った竜は六頭目で仕留めていた。記念すべき本懐を遂げた後はなし崩し。焼野原となった故郷に帰っても出迎える人も見知った顔もない。何一つ残らぬ場所へ帰る気にもなれず、当てのない放浪の旅へと出払うことしかできなかった。竜を狩り続けるしかない、とする一本の剣だけを頼りに。

 転々と行く先々で、ワイバーン襲来に悩む町や村を何度となく救う内に。自らを竜狩りと称し始めて天職とした、この矢先。明るい未来や輝かしい将来を展望したこともない。いつかは終わる。その形がどうであれ。いつだって覚悟はしていた。なれど、その終わりがこのような少年によってとは――。

「なぁ……。俺も、訊いていいか?」

 ベルハートは片膝をつく態勢も疲れたのか、雨でぬかるむ山肌にどっかりと腰を据えた。訊ねるにも、折り曲げた体は軋んで言葉をひねり出すのも苦しいのに。

「お前が竜狩りを狩るのは、竜たちの為、とも言ったか?」

 アニーもまた走り回った際に跳ねた泥や、反撃を受けた証拠でもある痣や切り傷より流れ出る流血もそのままに。散々に手を焼き、奮闘の果てにしゃがみ込んだベルハートの目前にまで歩み進んで立ちそびえる。

 実のところ、ここまで手こずった相手は初めてだった。反応も、これまで殺めた竜狩りたちとは一線を画すベルハートに対して、アニーは相当苛立っていた。この男は生かしておいてはならない。絶対的にそうだと確信しては強く握っていた拳を解き、いつでも首をはねるに必要な風圧を繰り出す指先の状態は整っている。

「そうだよ。人間が勝手に竜の所為にして、竜狩りと称するあんたらみたいな私利私欲に飢える、傲慢で利己勝手な人間の自己満足の為に竜が狩られ続けて、この世界がどうなってると思ってるのさ!」

 ベルハートも残る気力を振り絞りながら、見下ろすアニーの弱弱しく見上げた。

「世界がどう、とは?」

 アニーは小刻みに首を横に振り、「はっ!」と呆れて視線を逸らす。そしてどこへとぶつけてよいのか知れない、わだかまりの塊を両手に持つようにして。不快な拳を両手で握っては放す行為を繰り返す。

「ほうら、やっぱり。何もわかってない!」

 立ち竦んだと思えば、落ち着きなくその場を行ったり来たりと歩むアニーを。ベルハートはただ目で追うのみ。

「わかってない、とは?」

 開いた口が塞がらないとした表情を灯したアニーは、「ふんっ」と荒く鼻息を吐く。

「言ったでしょ。あんた達が何も考えずにただ竜を片っ端から狩るから。世界の均衡は崩れていってるんだよ」

「……そんな話は、初めて聞いた」


 ベルハートが竜狩りになった理由と同じく、アニーにはアニーの言い分もあった。

「……ねぇ」

 アニーは、大剣を握っているだけのベルハートの手を、泥まみれの足で振り払った。

「っ!」

 力無き手首は簡単に反り返り、攻撃と防御の要であった剣は容易く主の元を去り、腕を伸ばしても遠く及ばないところまで飛んで行ってしまう。

 もはや余力もなき降参を呈したベルハートの前で、アニーはしゃがみ込んで目線を合わせる。

「あんたは六頭の竜と、ワイバーンを数十匹。ワーヴニルの首も数えきれないほど獲ってきたんでしょ?」

 絶対に許さないとする、揺るぎのない瞳をベルハートは受け入れるしかない。ならば何故、先ほどは村を救うような行為をしたのかなどさて置き。

「……そうだ」

「ねぇ……」

 アニーは首を傾げながら、教えてほしいと問いかける。

「この世に生まれる命って、人間が一番偉いの?」

 この期で、少年が何を言い出すのかと思えば――の、ベルハートは最後まで自我を放棄できずに答えるしかない。

「偉いとは、思わん」

「人間と、竜と。どっちの命が重いの?」

「……」

 流石に疲れた。死闘の末のやり取りがこれでは、と。眼を閉じて天を仰ぐ。

「……どちらも、同じだろう」

 本心だった。この世に生まれてくるものは、大なり小なり命に変わりない。そして気づいた。

「……そうだな」

 一時の間を置いて、ベルハートは自ら告白する。

「狩った竜たちの命を、一つの生命とするなら俺は。殺めた分だけ、同じく人を殺したに等しい、か」

「僕はね。竜に助けられて育てられたからこそ、余計に。尊い命を沢山みてきた」

 ベルハートは皮肉な笑いを口の端に含んで言った。

「奪いもしながら、か?」

 アニーは飄々と、さも当然とばかりにさっぱりと告げる。

「そうだね。僕も沢山の命を奪ってきた。でも、殺めた分だけ、己に返ってくることも全部、承知の上でやってる」

 ここまでくれば、腹を割りきる以外に何ができよう。

「お互い、地獄行きだな」

 あっちでも殺し合うかとする文言を、付け足そうとしてやめた。不毛だ。

 屈んでいたアニーが無言で立ち上がり、いよいよベルハートに最後の時が訪れようとしている。

「俺が死んだら、その。乱れた世界の均衡とやらは整うのか?」

 竜狩りの見下ろすアニーの瞳は曇っていた。薄暗い曇天の所為か。はたまた降りやむ気配のない雨の滴が幼き顔の頬を伝えば、世の末を悲観したかに見えなくもない。

 堅く一文字に結ばれたまま無垢を通した、答えなきそれが彼なりの返答だろう。時をかけて振り上げ、振り下げた時には男の命が途絶えるものを予期して震える、その手も。その時。

 カラカラとコロコロと。山頂付近より最初は小さく崩れ流れて出たものが、やがては一瞬にして雷鳴等しく。轟音と爆音を掻き立てながら一気に生じた波が、着実に二人を目掛けて襲いかかってきていた。


 山肌の一部はもろくも崩れた。油を塗った板の上を、水滴がいとも簡単に転がるように。土砂と岩と樹木が入り乱れる山の急斜面で、ひとたび表層崩落が始まれば足掻こうとする人の力など到底及ばない。後は成り行き。全ては自然に任せるのみのきっかけを作ったのも、二人の大暴れによるところであったにせよ。土砂崩れの先端は切り立った崖っぷちにも達し、ベルハートとアニーは押し流される大量の土砂や樹木と共に奈落の底へと落ち行くのみだった。

 その場所が元にどういった場所であったのかの予測もつかない、崩壊した土砂瓦礫の最上段で。どす黒くも茶色くも汚れ、埋もれた隙間からベルハートは辛うじて息をすることが叶っていた。

「はっ、うっ……ぐっ!」

 ベルハートはアニーとの戦闘中に、山肌に走る複数の亀裂を確認していた。やがて必ず表層崩れを起こすに違いないと予想して。無駄に逃げ回り、無用な木々らも伐採させて。時には己の大剣を地表に突き刺し、一か八かの賭けで亀裂を広げてみた結果がこれか。

「あぁ……」

 まさかこれほど上手くいくとは思ってもみなかった。仰向けの背で支えとなっているのは大きな一枚岩だ。これも一緒に落ちたのかと思えば末恐ろしく。生きているのが不思議なくらいだ。

 滑りくる土砂や流木に呑み込まれ、方向感覚も失いながら咄嗟に。落下すると認知した体は咄嗟に、崖っぷちの木の根を掴んでいた。片方の腕だけでそれを掴んだのは、もう片方の腕にはアニーを抱えていたからだ。

 何故にの判断など出来得るに足りない一瞬の判断であった。自分自身でも、どうして少年を放り出さなかったのかの考えなど及ばぬうちに。今度こそ余力は尽きて結局、無残ひしめく土砂の頂上に落下するに至った。


 起きた順番はどうあれ、ベルハートはまだ生きていた。背中を打ち付けたのは、腹にアニーを抱えていたからだ。彼を庇う気など毛頭なかった。だけれど何かしらの本能が、ベルハートの中で生まれていたに相違ない。

「うっ!」

 二人の体の上には何も覆いかぶさっていないにも関わらず。ベルハートの体は、ぴくりとも動かぬアニーを抱いたまま動かない。少年とは言え、人ひとりを抱えての落下の衝撃は予測を遥かに上回ったようで呼吸が苦しく、痛みも激しい。仰向けの眼には、低く立ち込める灰色の雲より落ちる雨が染みて、泥をも跳ねさせる悲壮の降雨が打ちつける。

「あぁ……」

 かろうじて木の根を掴んだ右腕が動くことを認識したのちに、鼓動の聞こえぬアニーの頭部に手を持ってゆく。

「おい……」

 揺らしても返事はない。泥にまみれた手でも触れ、ぬるりとぬめったものが大量の血であることを視認すれば。

「……」

 少年は、散々に死を願った男の上で息絶えていた。土砂崩れに巻き込まれた時に、流れ来る岩で頭部だけではない全身を強打したのであろうそれは、運と。運命の分かれ道。

 とにかくアニーは亡くなり、ベルハートはまだ命があった。小さくとも命を燃やす燈火はまだ、消えていないとした幸運に感謝をした時だった。


「……っ!」

 遅れてやってきたのは、己の大剣だった。主を求めて追いかけてでも来たか。ベルハートたちが落ちた崖の先で、かろうじて引っかかっていた剣は、降りやまない雨の重みか。地盤の緩みか。いずれにせよ絶妙なバランスで落下を凌いでいた均等は崩れた。そして回転しながら落ちてしまう。

 とす、と剣の切っ先が難なく着地を決めたのは。大きな岩場の上で重なり合って横たう二人の中心。アニーの背を貫き、ベルハートの腹をも突き刺し抜けた剣は、大岩の頂点で二人を串刺しにしていた。

 それでもなお、ベルハートは生きていた。己のしぶとさに無念や自業自得の自問自答を繰り返しながら。否応なくも、アニーより流れ出る血が己にも流れ込み、染め上げ、滴り落ちてゆく量に比例して。少しずつ少しずつ、耐え灯っている燈火が消える時を粛々と待つしかない時間だけが無慈悲に過ぎる。

 大岩にすら食い込んだ大剣は抜こうにも抜けず。そも、そんな力など、どこにも残っていないベルハートは唯一自由のきいた腕をだらりと下げた。

 ――何てことだ。とんだ最期だ。

 もはや悪あがきもこれまでと、観念して瞳を閉じれば。ばさり、と両翼で舞うものが接近する音が耳に届いた。

 空より舞い降りたのは、アニーの守護神かの如く、忠実な部下とも取れる行動を取っていたあの白竜だ。

 ベルハートと白竜の付き合いはごく短い。なれども白竜が至って冷静沈着にしてクールな性質だとは感じ取れていたものが。今や、主か友かの関係も知れない存在を亡くした悲痛で狼狽えている姿が、薄っすらと目を開けたベルハートにも見て取れる。

「アウニイイイイー!」

 大よそ、竜の咆哮はギイギイと甲高くもあり、腹の底にどっしりと響く低音も入り乱れるため、人の言葉とは違って正しくも言い表せないけれど。ベルハートにはアニーを偲び、その名を呼んでいるかにしか聴こえない。

「アアアウニイイイイイー!」

 白竜の優しき眼には涙さえ浮かんで見えて、一頻り吠えた後には恐る恐るで岩上へと近づいて来る。

 薄ら横目のベルハートにはまだ意識がある。悲哀と苦悩で満ちた白竜の瞳には、「何故だ!」とせめぎ立てる苦悶も滲んでいるかに思えて、ベルハートは静かに囁く。

「俺を、喰らうか?」

 それも本望。どの道、ここで絶える命だ。いっそ楽にしてくれても構わない。全てはこれまで怒りに身を任せ、竜を殺してきた天罰を悟ったベルハートは目を閉じた。その最期に、「すまない」なる謝罪の言葉を添えてもして。


 白竜は嘆き悲しむ遠吠えを上げた。それは曇天によく響き、山々にもぶつかってよくよくこだました。

 先にベルハートが救った村にもその号哭は届き、片付けに追われていた村人たちは何事かと不安げに空と、山々を見やることしかできなかった。

 しとしとと降り続いていた雨は、ごうごうと叩きつける雨脚と強まり。ざぁざぁとどよめく雑音が、さも粛々と。たったの一夜で、世界の均等が完全に崩壊したと知らせる号砲となって鳴り響いているものとも知らずに。


 そして、朽ち果てるのをただ待つだけの瓦礫の最上では。一部の望みをかけて芽生えた蕾がひっそりと、人知れずに産声を上げようとしていた。

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