花丸先生
並兵凡太
花丸先生とあの頃の少年
懐かしい坂道を下っていくと、見えて来た。
桜並木の奥に見える桃色の建物。
今になって見ると、案外小さくも見えない。
――僕は、花丸先生に会いに来た。
思い立ったのはいつだったろうか。
大学に入って二年が過ぎる春休み。
去年も感じたことだが、僕はこの春休みに虚無感を覚えていた。
うちの大学は冬休みが存在しない代わりに、春休みが長かった。下手をすれば夏休みに匹敵しかねないくらいに。僕はそんな春休みを無駄に過ごしていた。
もう三年目になろうかという大学生活で友人はもちろんいる。だが春休み中一緒に過ごせるような濃い関係でもなく、まして地元を飛び出して来た僕には他に当てもなかった。
起きて、食べて、寝ての繰り返し。
まったく何にも追われない生活というのも一種の極楽ではあるのだが、繰り返せば当然飽きてくる。それに、俗に言うニートになったような気がしてあまり手放しで楽しめるものではなかった。
そんなある日だった。
「花丸先生……」
僕は無意識にそう、呟いていた。
無意識にしては突拍子もなさ過ぎるが、それは僕自身も全く同意見だ。でも口に出していた。
花丸先生とは、僕の恩師である。……と言っても一年間担任をしてもらっただけだ。それに先生の生徒だったのは小学一年生である。
何故十年以上前にお世話になった先生の名を思い出したのか。それは結局わからずじまいだったが、僕はその言葉から行動を起こすことにした。
「そうだ、花丸先生に会いに行こう」
そうして故郷に帰ってきたのが昨日のこと。
幸いにも、花丸先生は僕の卒業した小学校にまだいらっしゃった。我ながら凄く幸運だと思う。
「春休みだからいるとは思うけど……」というのは母の言葉だ。いることにはいるだろうが、なるほど、この時期は新入生迎え入れの準備で忙しいかも知れない。
でも思い立ったのが小学校でよかった。これが中高だったら「このクソ忙しい時期に!」と叩き出されていたかも知れない。だからこそ、僕は花丸先生を思い出したのかも知れなかった。いや多分違うけど。
桜並木を下っていくと、校門に辿り着く。『花散郷東小学校』。紛れもなく我が懐かしの小学校だ。当然だけど。
校門は記憶よりずっと小さかった。そう言えば小学生の僕はひどく背が低かった。卒業時でさえ百三十センチなかったのだから、今の僕のへそまでもなかったわけだ。そりゃチビと言われるわけで。
そんな校門を過ぎると、桃色の校舎がでーんと僕を迎えた。……こんなにピンクピンクしてたっけ。僕の記憶ではもう少し白かったんだけど。もしかしたら塗り替えたのだろうか。
しかしそんな母校も、構造はあの時と全く変わらなかった。来客用の玄関を過ぎた僕は事務室で手続きをする。そのついでにこんなことも聞いてみた。
「今日花丸先生っていらっしゃいますか?」
「えぇ、おりますよ」
「ありがとうございます。……今更ですけどお邪魔していい時期ですかね?」
僕が心配になって聞くと、事務の人は苦笑しながら、
「仕事はありますが、そう忙しい時期ではないはずですよ」
と親切にも答えてくれた。安心だ。
僕は事務の人に改めて礼を言うと、そのままの足で職員室へと向かった。十年前と言えど六年という歳月は伊達ではないようで、僕の足は迷うことなく目的地へ辿り着く。
『職員室』。今となっては軽く手を上げただけで届くそのプレートに、少しだけ緊張する。やはり職員室はいつまで経っても慣れない。自身で教員にでもならない限り無理だろう。
そう言えばここに通っていた頃、職員室には掃除の時間くらいしか入らなかったっけ。
そんなことを考えながら僕は職員室の引き戸をノックした。中から誰ともわからない声が、「どうぞー」と返事してくれる。これが僕が通っていた頃からのやり方だった。
「失礼します」
不思議と声が上ずって、僕は職員室に入る。引き戸を後ろ手で閉めながら、中を見回した。
縦長の広い部屋に、先生たちの机がズラリと並んでいる。春休みだからか、三分の一ほどの先生がのんびりと仕事をしていた。
……なんというか、全体的にスケールが小さくなったように感じる。天井も、先生たちの机も。改めて、体だけは大きくなったんだなぁと思い知らされた。
「おや、来客さんか。……お兄ちゃん若いし、さては卒業生だね?」
入口近くに座る、男の先生が話し掛けてくれた。僕のノックに答えてくれたのも多分この先生だ。気さくな先生だ。きっと子供たちにも好かれていることだろう。
「どんな用事だい?」
「あ、あの……」
花丸先生はいませんか。
僕がそう言おうと口を開いた――そのとき。
「あら……柏木くん?」
ふと、隣から女の人の声がした。そうだ、僕の名前は柏木。でも名乗ってないのに、何故……?
声の方を向くと、そこには少し小柄な、女の先生が立っていた。彼女は僕の顔を正面から見ると、嬉しそうに笑った。
「やっぱり柏木くんじゃない。大きくなったわね」
僕は、わかった。
十年以上経って少し雰囲気も変わったけど、変わらないあの優しい空気。声色。笑顔。
僕は子供みたいに、彼女の名前を呼んでいた。
「花丸先生……」
「この教室だったわよね……今の君にはちょっと小さく感じるかしら?」
職員室で再開を果たした僕と花丸先生は、昔、僕と先生がいた教室に来ていた。
春休みで、がらんとした教室。子供たちはみんな荷物を持って帰っているから、机と椅子、そしてロッカーは何も入っていない。次の子供たちを待っていた。
「えぇ……」
手を伸ばせば、きっと天井にも手が届く。
僕は花丸先生に頭を下げた。
「お陰様で、大きくなりました」
「どういたしまして」
ふふっ、と花丸先生は笑った。
机と椅子の一角に、二人で並んで腰を下ろす。足が机の下に収まらず、ひどく窮屈だったので僕は横を向いた。
そして改めて、挨拶をする。
「お久しぶりです、花丸先生」
「えぇ、久しぶりね」
花丸先生はにこやかに返してくれる。
僕が大きくなったぶん、先生は年をとった。しわも増えている。髪にもちょっと白髪。でも花丸先生は、あの時の花丸先生だった。
いざ目の前にして、何も話す内容を考えていなかったことに気付く。咄嗟に話題を思いつく訳でもなく、下手に緊張した僕は少し俯いてしまった。……そう言えば、昔から先生を前にすると俯いてた気がする。
「元気だった?」
ふと、先生の声が降ってくる。その懐かしい感じと、教室の香りとが僕を少しだけ、小学一年生に戻した。
「……はい、元気です」
『ハイ元気です』……この小学校で朝の出席確認のときは、先生に名前を呼ばれるとみんなこう答えていた。声をおおきく、はきはきと。何回も先生に言われたのを思い出す。
顔を上げたけど、大きくもはきはきともしてない僕の言葉に、花丸先生はいつもの朝みたいに微笑んでくれた。
「良いお返事です」
……出席を取ってもらったからだろうか。そこからはスムーズに話せた。
先生とは小学校卒業以来会えなかったから、話すことはいくらでもあった。中学生で急に身長が伸びたこと。高校からテニス部に入ったこと。今は都会に出て、大学生をしていること。
「そっか……あの柏木くんも大学生か……そりゃ大きくもなるよね」
「まぁ、はい。いっぱい食べましたから」
「小学生のときには給食食べ終わるのに昼休みまるまる使ってたのにねー」
「それは言わないでください……」
そうだった。小学生の頃、僕は極端に食べるのが遅くて、女の子も外に遊びに行ってる中教室で給食を食べ続けてたんだっけ……そう言えばそのときも、こうして先生が一対一で相手してくれた。
「どう? ニンジンは食べられるようになったの?」
「はい、どうにか……」
僕は恥ずかしさで俯きながら答えた。
「よかった」
花丸先生はえらいえらい、と頭を撫でてくれた。
まさか大学生になって頭を撫でてもらうとは……。
普通なら「子供じゃないんだから」と避けていたかもしれないが、不思議と花丸先生にされるのは嫌じゃなかった。
……あの日と同じ、優しい手だった。
「あ、そう言えば」
すっかり話し込んでしまった頃、花丸先生は「今更だけど」と切り出した。
「柏木くん、どうして私に会いに来てくれたの? 何か話したいことがあるんだったらどうぞ」
何故来たか、僕自身それはよくわかってなかったけど、話したいことがない訳じゃなかった。
「……実は僕、留年しそうなんです。大学」
俯いて話し出す僕に、先生は黙った促してくれた。少しずつ、言葉を選んで、話す。
「別に怪我とか病気があった訳じゃなくて、その……俺が真面目にやらなかったから悪いんですけど、でも……これでいいのかなって。僕の選んだ進路は、これで良かったのかなって……思っちゃって…………」
素直な言葉が出た。
花丸先生の前だから、素直になれた。
しばらくの沈黙の後、先生が口を開いた。
「あのさ、柏木くん」
「はい……?」
怒られるかもしれない。いや、失望されるかもしれない。僕は恐る恐る顔を上げた。
でもそこにいた花丸先生は、怒ってもいなければ失望もしてなかった。代わりに僕を、真っ直ぐ見つめていた。
「私が花丸をあげる基準って、わかる?」
「花丸をあげる、基準……」
そう言えば。
花丸先生の花丸はちょっと特殊だったように思う。
テストで満点近くを取っても貰えないこともあれば、全然低くて悔しいときに花丸が小さく貰えたこともあった。
『よくわかんない』と子供心に思ったものだ。
「わかんない、です……」
僕が首を横に振ると、先生は教えてくれた。
「あのね。私は、頑張った子にはどれだけ点数が低くても花丸をあげるの。『よくやったね、がんばったね』って」
花丸先生は続ける。
「子供って、得意不得意が極端だから。勉強が得意な子もいるし、運動が得意な子もいる。歌が得意な子もいれば、絵が得意な子もいる。それは人それぞれ。だからもし、苦手なことで失敗しても、それが精一杯頑張った後の失敗なら私は花丸をあげるの」
先生はもう一度、僕の目を見た。
僕の目の、奥の奥の奥を、見つめた。
「柏木くんは、今の自分に『花丸』あげられる?」
「今の、僕に……」
僕は考える余地もなく、首を横に振った。
花丸先生はそんな僕を、慰めるように撫でた。
「じゃあ、ここから頑張ればいいの。もしこのまま留年してしまっても、大丈夫。それで人生が終わる訳じゃないでしょ?」
「……はい」
「じゃあ今の失敗は、次に活かせる。自分に出来る精一杯をやって、自分に大きな『花丸』をあげられるようになって」
「大きな『花丸』を、自分に……」
花丸先生の言葉が、すっと心に入ってくる。
自分に大きな『花丸』をあげられるように。
自分の精一杯を。
先生の言葉を反芻するうちに……いつの間にか、僕は泣いていた。
「あと、忘れないで」
よしよし、と僕を撫でながら先生は僕に伝えた。
「私は何年経っても、何十年経っても、柏木くんの先生だから。いつでも、話においで」
僕は涙を拭いて、先生の目を見つめ返す。そして元気な、返事を。
「……はい、先生」
ふとそのとき、町内放送が流れだした。蛍の光と共に、訊き慣れたお姉さんの声が流れてくる。
『暗くなる前に、おうちへ帰りましょう。おうちの手伝いをして、早寝早起きをしましょう――』
慌てて腕時計を確認する。もうこんな時間か。
「すみません先生、こんな長い間お邪魔してしまって……」
「いいのよ、どうせ仕事も少ないんだし」
僕は帰ろうと荷物を持って、花丸先生に頭を下げた。
「じゃあ先生、僕はこれで――」
「待って柏木くん」
僕がそそくさと帰ろうとすると、花丸先生が止めた。
頭に疑問符を浮かべていると、先生はゆっくりと教室を前の方へ進んで、教壇に立った。
「先生とじゃんけん、ね?」
花丸先生はそう笑った。
小学一年生の頃、帰りの会が終わると僕らは決まってみんなで花丸先生とじゃんけんをしていた。先生に勝った人から帰れるという制度で、あいこや負けが続くと帰れなくて困ったものだ。
ぼくは拳を上げて待ってる先生に苦笑すると、同じように拳をあげた。
「じゃあいくわよ?」
「はい、先生」
二人で掛け声を合わせる。
「「じゃーんけーん、ぽん!」」
先生がグー。そして僕……も、グー。
「あら、これじゃあまだ帰れないわね?」
「……ですね」
もう一度。
教壇に立つ先生と、席で立っている教え子。
僕らの関係は、あの日から全く変わっていなかった。
「「じゃーんけーん、ぽん!」」
先生がチョキ、そして僕は……グーだった。
「先生、僕の勝ちです」
「そうね」
僕は改めて頭を下げた。
そして『さようなら』と言おうとすると、先生がそれを遮った。
「じゃあ柏木くん、また今度」
その言葉に、一瞬呆気にとられた僕は、会釈をして教室を去った。
「はい、また今度」
花丸先生 並兵凡太 @namiheibonta0307
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