天を仰ぐは
久環紫久
第1話
夏の夜に、君を見つけた。
遠く、星空の下で、空に届けとばかりに手を伸ばす君。
僕はそんな君の姿を少し離れた街灯の下から見ていた。
この街灯の明かりからもれてしまったら、もう君の姿が見えなくなってしまうんじゃないかと、そんなくだらない妄想にとりつかれて、けれどその妄想はきっと真実に変わってしまう自信もあって、なぜかはわからないけれど、僕は、とにかく僕は、遠く、空へ手を伸ばし、星をいくつかつかみそうな君の姿にすごく、ものすごく、とてつもなく、時がとまったかのように、世界がひらけたように、僕が世界をみつけたように、そんな衝撃に心を揺さぶられながら、君を見つけて僕は、ただただ君に惹かれてた。
声をかけようか迷ったが、僕にそんな勇気はなかったものだから、そのまま君を見ていることしかできなかった。君は美しい。僕はそう思った。空へ伸ばすその右腕の指先から、夜風に揺れる黒髪も、地面について体を支えるその足のつま先まで、そのすべてが美しいと思った。これが一目惚れというものなのだろうと、そう思ったら、すごく気恥ずかしくなった。
今の今まで恋をしたこともなかったが、枯れた青春時代を過ごすと思っていたが、そんな僕の前に現れて――たまたま僕が見つけただけなのだから現れたというのは適切ではないのかもしれないけれど、今だけは現れたということにしておいて――こんな言い方をしてしまう自分を気持ち悪いともセンスがないとも思うけれど、天使だと思った。
そう、天使だ。
センスがないなんてことはない。むしろいいセンスだ、自分をほめてやりたいくらいの、僕だけの住む世界の国民栄誉賞を贈ってあげたいくらいのナイスセンスだ。そう、君は天使だ。ロミオはジュリエットのことを天使だと言ったのだ。僕だって言うさ。君は天使だ。
抱きしめたいとかキスしたいとかそんなことは当然のことのようですぐに思いついて頭の片隅――記憶の源流から流れて行って、今はきっと下半身を通っていることだと思う――に追いやって、ずっと君を見ていたいとおもった。触れたい、会話をしてみたい、何を思っているのかを知りたい、キスしたい、抱きしめたい――巡り巡って戻ってきたらしい――そんな風に思っていると、僕の耳に声が届いた。
「この幾千万の星をあなたにあげる。だからどうか、私の願いごとを叶えてほしい」
僕の耳と、君の口の距離はおよそ二〇メートル弱。
凛と澄んだ声だった。今夜のひどく湿った夏の夜を割いたように、まるでこの星空が君のものであるように、僕がそれを信じてしまうくらい、それくらい、君の言葉だった。
「もしもそれでも足りないというなら私のすべてをあげる。この目も、鼻も、口も、耳も、髪の毛一本からつま先の爪に至るまで、全部全部、あなたにあげる」
思わず僕は手に持っていたサイダー缶を落っことした。やっちまったと思った。これでこの魔法はとけてしまう。消えてしまう。僕が見たこの現実は幻になって、また僕はたいくつな生活にとけていってしまう。世界もなにも、僕の思い通りになるなんておもっていないけれど、それでも願わずにはいられなかった。どうか、今夜のこの出会いだけは、忘れさせないでほしいと。
今夜のこの夢は朝になったら覚めるだろうし、彼女はきっと天使だから僕は彼女と結ばれることはない、というかそんなこと考えてない。普通に話せればそれでよかった。そう、それくらい、思ってしまうくらい――嘘だ、本当はものすごくこの時間を終わらせたくなかったくらい、一生このままでもいいやと思ってしまったくらい、それくらい、初めて一目惚れをしていたから、だから、このサイダー缶がコンクリにぶつかって、乾いた音を立てたとき、僕は生まれたてのこの世界が、この思いが缶から漏れる二酸化炭素の気泡のように、しゅわしゅわと消えていったように思った。
「あ、ああ、あの、聞いてました……?」
そんな二酸化炭素の残り香が、僕に奇跡を起こしてくれた。
君の口と、僕の耳の距離は今だ変わらず二〇メートル弱。けれど、その声は、僕だけに向けられた魔法じゃない、僕への君の言葉。
「好きです」
思わず言ってしまった。
「好きです」
また言ってしまった。
「好きになってしまいました。どうしようもないくらい」
またしても言ってしまった。それどころか言葉が増えてしまった。
「一目惚れです。貴女の名前も知らないし、人となりも当然わかりませんし、今まであなたが見てきたものもわかりません。あなたの家族も好きなものも年齢も――これは失礼ですね、ごめんなさい――とにかく、あなたのすべてを知りたいと思ったそれくらいの一目惚れです」
思わず言ってしまった。好きですよりももっと深い思いを伝えてしまった。言ってしまった今更ながら、深いことだと思っているのは僕の勝手なのだから、それを聞いた彼女は不快と思ってしまっても仕方のないことなのだろうけれど、そんな風に思われたくないと思った。
完全にスパークした僕の脳みそは僕の考えを留めていることはできずにべらべらとスキャットマンだって顔負けな勢いで動き出していた。
落ち着こうと思い、なぜ今僕はここにいるのかを考えることにした。
夏の夜、夜なのだけれど、暑いし、今日はとくに蒸し暑い。だから僕はコンビニに飲み物を買いに行ったのだ。そうそう、コンビニで、電気代を気にせずにクーラーで涼もうと思っていたのだ。ところがコンビニのやつはクーラーが故障してしまったらしく店員も汗ダラダラの状態で、涼みに行ったはずがサウナにでも行ったかのような蒸し風呂状態に泣きたくなったのだった。仕方なしにとっとと飲み物を買って帰ろうとサイダーを手に取って会計を済ませ店を出た。家に帰ったら飲もうと決めていたのに暑さに耐えかねて僕は結局プルタブを引いてしまったのがついさっき。
なんとなしに携帯を開くとマサシから高校生活二度目の夏休みは実質高校生活最後の夏休みなのだからどこか行こうぜ、女でも見つけてよ! と一足先に大学生の気分満載の連絡が来ていた。そんな簡単に見つかるもんじゃないでしょと返事をした直後、目の前に天女と見紛うばかりの天使がそっと天に手を伸ばしていたのを目撃した。心臓がバクバクと高鳴って、バチバチと脳が回路切れを引き起こしたのが今。
それから。僕の視線がずっと吸い込まれるその彼女は、顔を茹蛸のように真っ赤にさせて、今にも蒸発してしまうのではないかと心配してしまうくらいに真っ赤にさせて、僕の顔を見ていた。
目が合って、いけない気がして天を仰いだ。遠く、空には星が瞬いている。僕にはどれがどれなんだかさっぱりだから、これはああでこうなので、君の瞳はああだこうだなんて星を用いた口説き文句は僕の辞書にはない。今夜はそんな自分を呪ってやりたいくらいに素敵な星空だった。愛を説くのに利用するだけじゃもったいないくらい、それくらい綺麗な星空だった。思えば、一目ぼれするほど素敵な女性と同じ時間に、それほど綺麗な星空の下にいられているというだけで、僕は幸せ者なんじゃないだろうか。そんなことを考えてしまうくらい、君は素敵なひとなのだといいたいけれど、気恥ずかしくなってきて言えたもんじゃない。
遠く、夜風に乗って虫の鳴き声が聞こえてくる。あれがもし求愛行動によるものなのだとしたら、僕もそれに倣って愛を伝えようと思った。もっと丁寧に、もっときれいに――だとしたらやっぱりこの星空は利用するほかないんじゃないだろうか――と考えていたら、
「あ、あの、か、考えさせてください! 一晩でいいですから私に時間をください!」
と、天使の詩が聞こえてきた。気づけば天使は猛スピードでこちらに走ってきていた。まるで弾丸のように僕の真横をかすめていった。その時、ふわりと香りがした。二酸化炭素の残り香には、石鹸のような清楚さとバラのような柔らかさがあった。
ずいぶんと時が経ったように感じて、後ろを見やると、そこには天使の姿はもうなくて、きっと天国に帰ったのだろうと思ったが、天国に帰ってしまってはそれは故人ということになるだろうから、どこか天使の人間界支部の事務所か何かでもあればいいなと夢を見た。
落ちたサイダー缶を拾い上げる。今気づいたけれど、ここは公園の入り口だった。彼女は公園の中央付近に並んだタイヤの上に乗って、少しでも空に手が近づくようにしていたようだった。そのタイヤの近く、三メートルくらい離れたところにあるゴミ箱にサイダー缶をぽいっとする。
今日の出来事が夢でありませんように。
そう思いながら、僕は少し満足気に帰路についた。
天を仰ぐは 久環紫久 @sozaisanzx
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