8.「この橋、渡るべからず」
ハルスは悩んでいた。サラは新しいおもちゃをもらった子供のようにニコニコしていた。
二人の前に、深さ五百メートルはあろうかという谷があった。そして、こちらの崖から向こうの崖に向かって、五十メートルほどの頼りない吊橋が架かっていた。その橋の前に、そんな看板があったのだ。
「『この橋、渡るべからず』と言われてもな…次の街は向こうだ」
「渡らないと、今日は野宿することになりますね」
左右を見ても、この絶壁に架かる橋はこれ一本しか無かった。
「一休さんみたいに真ん中を歩きますか?」
「いや、そういう問題じゃ……もしかしてそういう問題なのか?」
「さあ?」
サラは看板に触れた。
「何を考えるべきなんでしょうか。この橋を渡ってはいけない理由なのか、渡るためのトンチか、それとも…なぜ看板があるのかについてでしょうか?」
「誰かがこの橋を渡らせたくないと思ったんだろう?それはどんな理由からだろう…」
「不思議なものです」
「うん?」
ハルスがサラの方を見ると、サラは橋の前に座り込んでいた。
「犬や猫ならとっくに渡っているでしょう。この看板は文字の読める人間だけに効く壁なんですね」
何もない空間に、サラは手のひらを当てていた。
「だいたいおかしいじゃないか。渡るなと言うならどうして橋なんか架けたんだ」
「それもそうですね。じゃあハルスさん、どうぞ」
「ん!?」
「渡ってください」
「えっ、僕が!?」
「そうです。見たところ橋の強度に問題はなさそうです。谷なので相当の横風があるのかと思いましたが、あそこに飛んでいる鳥は特に風の影響を受けていません。もし足元が抜けるなどの罠がご心配でしたら、そこにある木の枝を切って、長い棒を二本ばかり作りましょう。落ちても前後で引っかかるように」
「いや、それはわかるけどなんで僕が」
「女の子に毒見をさせるんですか!」
「僕は毒見役か!」
結局、ハルスは落下防止用の棒を脇に抱え、橋の前に立った。
「しかし…やっぱり看板で禁止されている行為をするのは気が引けるな…」
「そうですか。では」
そう言うと、サラは看板を引っこ抜き、谷に投げ捨てた。
「あっ!ちょっと!!」
「これで壁は無くなりました。さあ!」
「もう…」
結局のところ、ハルスは何のアクシデントもなく渡ることができた。続いてサラもささっと渡ったのだった。
「あの看板は何でもなかったな」
「みんな気にし過ぎなんですよ、言葉を。目に見えない壁なんか、気にすることはなかったんです」
「そんなものかな」
腑に落ちない様子のハルスに、サラは言った。
「本当に大事なことなら、目に見える形で表すべきです。目に見える形で表せるのにそうしないなら、それは大して重要ではないということです」
だいたい、渡っちゃ駄目というなら橋なんか架けないでくださいよ、と文句をたれるサラの背中に、ハルスは手を伸ばしかけたが、少し俯いて考えると、やめた。
人類は危機にあり 銀狼 @Silberwolf
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