エピローグ 地上の者たちの小さな独り言
四月十日。水曜日。新学期。
紘たちは三年生に進級した。もう、受験生。あっという間にこんな時期。
そういえば、春休み中には妃芽菜が消えた代わりのように、陸が戻ってきた。妃芽菜がいたあの三か月間がなかったかのように、普段通りに生活している。ただ、顔に出さないだけで、絶対、妃芽菜のことを引きずっている。陸の態度がそよそしい。
昼休み。廊下にはあちこちで固まって雑談を繰り広げる集団がちらほら。三年生はクラス替えはなくすべてのクラスがそのまま持ち上がりだから対して騒いでいないけど、一年生と二年生はクラス替えがあったから騒がしい。ガヤガヤとした騒音の中、ちらほらしていた集団のうち一つに混ざっていた沙也が、目ざとく紘を見つけて、声をかける。脇には
「ひろくん、ねぇねぇ、今日って、部活休みだって。小薬が季節外れのインフルかかったってー。」
「えー、うつすな、小薬。なに今頃ひいてんの。」
「だよね、なんで今頃。」
「うん。まぁいいや、部活休みね。ラッキー。一週間休みか。楽器持ち帰った方がいいかな。」
「そうしたら?」
「そうする。じゃぁ。」
そう言って沙也に背を向ける。最近全然遊んでいなかったから、久しぶりに作とどっか行こうか。そんなことを考えつつ、歩き出す。
その時、
「あ」
と沙也が後ろで声を上げる。
「おに——じゃない、ひろくん、ねぇ。」
「なに。」
苦笑しながら振り返る。今でも時々、こいつは間違えるのだ。変なところが抜けている。
「あのさ、今日、一緒に帰っていい?」
「別にいいよ。」
「よかった。じゃぁ、前町の交差点の前で。」
校門近くでたまっていると、生徒指導の先生にいつも早く帰れと叱られる。沙也の言った前町の交差点はよくそんな生徒の待ち合わせに利用されていた。
「うん。わかった。」
そう言って、今度こそ、沙也に背を向け歩き出す。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ひろくん」
待ち合わせ場所の交差点で、すでに沙也が待っていた。
「いこうか。」
二人並んで歩き出す。
「ひめ、浜ノ浦学園に行ったんだって。」
「浜ノ浦⁈あの!」
浜ノ浦学園は吹奏楽の名門校。中高一貫で中等部、高等部ともに全国大会で金賞をとっている。
「すごいね。」
思わずつぶやきが漏れる。
「……そっか。」
「ひろくん」
沙也が言う。
「ひめは、全部言ってくれたよ。」
「は?」
「ひめは、今回の事件のうち二件が自分がやったと認めたよ。」
沙也は続けて言う。
「今回の事件の犯人はひろくんだよね。」
「妃芽菜ちゃんのうわさは聞いたんじゃない?妃芽菜ちゃんが上野中を出てきた理由。」
「うん、聞いた。」
最初に聞いた嫉妬されてイジメられたというのはおそらくデマだ。事実は違う。
三年生の先輩というのはストーカー化した妃芽菜の元彼。追い詰められた妃芽菜は元彼の楽譜ファイルにカッターを仕込んだ。けがをした彼は出場を断念。ソロを吹く予定もあり、妃芽菜は皆に強く責められた。しかしその次の日、妃芽菜は自分を責めた人全ての持ち物にカッターを仕込んだ。多くの人がけが。妃芽菜は病んでいる、とうわさされ居場所をなくした。それが最も信憑性の高かった話。
「ひめは倉田圭の教科書にカッターを仕込んだ。クラスが同じ妃芽菜ちゃんなら可能。ひめの常套手段。」
「大伴は?」
大伴と妃芽菜はクラスが違う。
「香にやらせたって。」
「かおり?峰?」
「そう。峰香。大伴の元カノ。ひめが持ち掛けたって。香、振られて散々大伴の罵ってたから。まぁ、振られる原因になった人間に持ちかけられるのも、それはそれで嫌そうだけど。」
「そう、だったんだ。」
「それで、そのことを聞いた時にね、ひめ、ついでにって感じで教えてくれたの。」
紘のことを無視して沙也が言う。
「自分に告白してきた男子でいまだに事故にあっていないのは前野善也先輩とあともうひとり、竹臣紘だけだって。」
『……この子だよね。紘の好きな子って、この子だよね。』
夕暮れの音楽室。春香は金色のサックスをかまえて笑う竹中妃芽菜をまっすぐ指さす。
そうだよ。その通りだ。
俺が好きなのは、竹中妃芽菜だ。
最初は、ちょっとした出来心だった。
作が事故にあった。あれはただ単なる事故。紘は何の関与もしていない。
ただ、その前に聞いていた『あの事』が、紘の中にくすぶっていた。
竹中妃芽菜が陸を好きだということ。それが耐えられなかった。奪いたい、そんな独占欲が、自分の中にあることを知ってしまった。それに抵抗できなかった。
ほんのちょっとした遊びだった。ひめを汚す愚か者に天罰を与える。そう書いてみただけだった。
だけど、事件は自分の知らない所で独り歩きを始めた。倉田圭、大伴行人の二人が相次いでけがをした。あれは明らかに誰かが意図的にけがをさせていた。誰が?それを探る目的も兼ねて、紘はあの『脅迫状』を書き続けた。でも、そんなことをしなくても倉田圭のけがは妃芽菜がやったことだとなんとなくわかってしまった。それを知ってしまったら、もう止められなかった。隼人の事故も、陸のけがも紘がやった。隼人の背中を押したのも、陸がいずれ使うとわかっていた梯子に細工をしたのも紘だった。
「ひめに、黙っいてってお願いしたんだって?まったく。」
沙也が憤慨の表情を作ってそういう。
妃芽菜に告白したのはウインターコンサートの一週間か二週間前辺り。たぶん、宮二中で一番最初にしたと思われる。笑ってはぐらかされた。作にでさえ、きちんと断りの連絡を入れていたのに。
(ふざけんなよ、チクショウ)
今回こんなことになったのの理由の一つはこれと言えるかもしれない。
「いやか?俺が妃芽菜のことを好きなのは。」
ふと、冗談半分にそう聞いてみた。
「いいよ、別に。お兄ちゃんがだれ好きだろうが私カンケーないもん。」
「そ。」
そう返事をしながら、脇にいる沙也の胸ポケットのあたりに視線を向ける。
宮第二中学校
倉田圭にいじめられて、泣かされて、それを逆に懲らしめた前の善也先輩に喝采を送っていた、紘の妹、沙也。
『——竹臣君いるか?』
音楽室に来てそう言った美術教師の那須。あいつは竹臣沙也を探していた。
「ひめが転校して寂しい?」
「どうかな。」
そうはぐらかす。
「寂しそーな顔してる。」
「うそ。」
「そう、うそ。引っ掛けようとしただけ。」
「なんだ。」
俺は、寂しいのかな。妃芽菜が転校して。
——でも、どうだろう。もう、会いたいとは思わない。
卒業式の次の日。楽器を体育館から器具室に運び込んでいる時。
パートの楽譜ファイルの棚に見慣れないファイルが一冊、おいてあった。
『——ん?』
取り出して広げる。その時、ポケットに入れず挟んでいたと思われる紙切れが一枚、はらりと出てきた。思わず、拾い上げる。
『今までお世話になりました。
——竹中妃芽菜』
ファイルを慌ててめくる。中にあったのは今まで紘が妃芽菜に渡してきた数々の楽譜だった。
音出しのメニュー、スケール(音階)、リズム練習などの基礎練習の楽譜から、ウインターコンサートや、卒業式、コンクールでやる予定だった曲もすべて。
きっと新しい場所に行く妃芽菜にはここでの思い出は必要なくて、すべてここに置いていく。持って行っても、邪魔なだけ。全てをリセットして、新しいところでふさわしい生活を送る。
——たぶん、この先何かのきっかけで紘と会ったとしても、たぶん、ろくにしゃべってくれないだろう。それがふさわしいと思うし、そうされてもあきらめがつく。だけど、だからこそ、このままでいて欲しい。都合のいい、幻想でいて欲しい。そんな思いが、胸の奥でくすぶる。もう、どこかあきらめがついているのだと思う。
「ねぇ、さや。」
そういうと、沙也はこっちを見上げて
「なに。」
と聞き返す。
「やっぱ何でもない。」
その顔を見ていたら、なんだかすべてがどうでもよくなって、そう返事をしてしまった。
『——今までお世話になりました。——』
妃芽菜が残していったのは、善也先輩あてのメモと紘に託した楽譜だけ。陸にも、仲の良かった友達にも、他に何も残さなかった。
うっすらと、妃芽菜の甘い香りが匂うあのファイル。
あれがあるなら、他に何もいらない。
目の前には白い月がぽっかりと浮かんでいた。
なよ竹のかぐや姫 ~竹取の翁~ 月村はるな @korehahigekinokiokudearu
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