第8話 月の都

 あれから、そろそろ一週間が過ぎようとしていた。

 しかし、いまだに吹奏楽部の中には重たい空気が漂っていた。


 あの陸が、事故にあった。


 明るくて、人懐っこく、先輩の受けも同級生からの評判も良かった、陸が。

 いつもきゃぁきゃぁとはしゃいでいる沙也たちのグループもここ最近やけにおとなしい。大きな声で器具室で今日の予定を決めながら、教室で楽器を出しながら、トイレに行くといって練習を抜け出しながら、いつも騒いでいたのが嘘のようにみな顔をしかめ、無言で黙々と動く。

 中でも落ち込みぶりが激しいのは妃芽菜だった。当たり前だった。自分の彼氏がけがをしたのだ。しかも、それの原因が自分にあるかもしれないという恐怖が常に付きまとっている。普段通りに生活できる方がおかしかった。

 家に帰って自分の彼氏にLINEでメッセージを送ったが、いつも律儀に返してくれるはずの返事が来ない。既読すらつかない。最初はただ単にまだ帰っていないだけかと思ったが、夜の八時を回っても連絡がない。不審に思い、電話をかけたがつながらない。どうしたんだろうと不安に思っていたところに事故にあったという連絡が入った。沙也がそう話を回してきた。——どれだけの恐怖にさいなまれた事か。

 陸は脳震盪を起こしていた。少しの間だが意識を失っていて、後遺症の可能性もあるという。今は普通に起きているが、病院での絶対安静が命じられているという。


 入れ替わりとは言ってもなんだが、作が退院し、学校に帰ってきた。今まで通り、一緒にしゃべって帰ったり。ここにだけ、日常が戻ってきた。

 そういえば、最初に学校に姿を見せた時、作は『一体あのとき何が起こったのか』と皆に質問詰めにされた。作は一瞬きょとんとした顔をしたが、すでに何回も聞かれていたらしく、普段通りの笑顔でこう答えた。

「わすれちゃった」



「もう終わった?」

 十二日火曜日。卒業式の前日。

 毎年、吹奏楽部は卒業式にバックミュージック代わりの演奏をする。今、紘たちは、それに必要な楽器を運び込んでいた。

「この後グロッケンが来るはず。それで終わり。だからもう体育館の方手伝っといて。」

 紘の問いかけに、北校舎から出てきた洸はそう答えた。それを聞いて紘は今来た道を引き返す。途中妃芽菜とすれ違ったのだが、同じようなやり取りをし、三人で体育館に向かう。後ろから来ているのはグロッケンを持った神原美里かんばらみさと。その四人以外は体育館でのセッティングを行っているようだった。

 妃芽菜がくしゅん、と咳をする。最近寒さがぶり返してきている。体調を崩す人も多い。大丈夫かな、と心配する。

 体育館では大伴が大声を上げて指示をしている。普段体育館で部活をしている、屋内運動部の皆さんも手伝っている。どうやら最初は保護者席にパイプいすを並べいたらしいが、それが早めに終わったので手伝ってくださっているとのこと。ステージ上では在校生代表の言葉の練習をしている生徒会長と思しき人もいる。屋内運動部の皆さんが運んできてくださったパイプいすたちを合奏体形に並べていく。十分ほどで作業は終わり、明日の打ち合わせを行った後、解散になった。この後、先生方で打ち合わせがあるそうだ。早く帰れ、と小薬が言う。

 妃芽菜がまたくしゅんと咳をした。

「大丈夫?ちゃんとあしたきてね。」

 そういうと、妃芽菜は困ったように愛想笑いを浮かべた。陸がけがをして以来、妃芽菜はこんな笑い方をする。今日も、この笑い方か、と思ったが、それを顔には出さず、

「妃芽菜さん、じゃぁね、また明日。」

 と言ってその場を離れる。


 しかし、

 それが、紘の妃芽菜を見た最後の瞬間になった。


 紘たちの目の前から、忽然と姿を消した。



 卒業式の日の朝。

 紘たち吹奏楽部員はリハーサルを行うため、早くから会場となる体育館に集まっていた。集合予定時刻の七時三十分を回った頃、部長の大伴が人数確認をし始めた。

「フルート。」

「いまーす。」

「クラ。」

「「「いまーす!」」」

 クラリネットの皆さんは朝からハイテンション。何故かは、聞かないでおこう。クラの三年生の先輩方には、強烈な性格のお姉さまがたくさんいたというだけだ。

「サックス。」

「いまー……せん?」

 妃芽菜の声が聞こえず、紘の声だけが宙に浮いたように響く。紘と大伴は顔を見合わせた。

「竹中妃芽菜さーん。いますか?」

 大伴が呼びかけるが返事はない。

「いなそうだね。珍しい。」

 初めてだった。

「パーカス……」

 人数確認の続く中、沙也と紘は顔を見合わせた。

(えー?)

 沙也が声に出さず、大げさな顔をしてそう言う。

(そうだね。どうしたんだろうね。なんか聞いてる?)

 紘も口だけ動かして返事をする。

(知らない。)

 沙也も口だけ動かしてそう答える。

 何があったんだ ろう、昨日咳をしていたから風邪かもしれない。大丈夫かな。そう、心配する。



 しかし、妃芽菜は風邪で休んだのではなかった。


 竹中妃芽菜は他校への転校が決まっていた。

 親の仕事の都合らしい。上野小の彼女の妹も、同時に転校していた。



 誰一人とて、それを聞かされた人はいなかった。


 後で聞いたことだが、陸ですら、何も聞かされていなかった。




 余談だが、その日の朝、善也先輩の下駄箱には、今まで自分が妃芽菜にあてて書いた手紙がすべてひとつ残らずおいてあった。

『ごめんなさい。』

 一言そう書かれたメモ用紙と一緒に。






 ……御文、不死の薬の壺並べて、火をつけて燃やすべきよし仰せたまふ。そのよしうけたまはりて、士どもあまた具してやまへ登りけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づけける。

 その煙、いまだ雲の中へ立ち上るとぞ、言い伝へたる……

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