ココナッツサブレの歌を聴け

大澤めぐみ

1965-2016

 鼠は溶けたようにカウンターにうなだれながら、大声でそう怒鳴った。細かく砕けたココナッツサブレの残骸が、夏の想い出のように名残惜しそうに一瞬舞い上がり、スポットライトを反射してキラキラと光った。

「クソさ」鼠はもう一度そう言って、腕の間に埋めた頭を拭うように肘に擦りつけた。もしかしたら、涙を流していたのかもしれないと僕は少し思った。

 もちろん、僕はそんなことをわざわざ口に出して言ったりはしない。

 代わりに僕は「22枚を一時に食べきることは難しい」と、ココナッツサブレを擁護するようなことを言ってみた。とは言っても、僕が本当にそんなことを考えていたというわけではない。僕にとっては、それはどうでもいいことだった。それは所詮、ココナッツサブレの話なのだ。たとえば、僕のレーゾンデートルの話ではない。いったい誰が自分自身のレーゾンデートルよりもココナッツサブレのことを本気で気にしたりするものだろうか。

「28枚だ」

 不意に漏れた鼠の言葉は、間が空き過ぎていて、僕の台詞に対する返答だということが咄嗟には分からなかった。

「28枚」と鼠は続けた。「それはその昔、ぜんぶで28枚あったのさ」

「一袋で28枚?」と僕は聞いた。

「一袋で28枚だ」そう言って、鼠は実に悲しそうな表情で首を振った。

「28枚」試しに僕は言ってみた。口に出して言ってみると、それはとても現実的な規模の大きさの数字だとは思えなかった。28枚という数字には、まるでアメリカの宇宙開発予算のような響きがあった。まだソビエト連邦が存在していて、ドイツが東西に分かれていた、世界にひりつくような緊張感と未来に対する無根拠な楽天的な希望が満ちていた時代を彷彿とさせる響きだった。

 もちろん、それらはもう、とっくの昔に失われ、打ちのめされ、打ち捨てられてしまったものに過ぎなかった。その残骸が、スポットライトの熱い光の中でだけ、一瞬の陽炎のように立ち上った。

「そう、28枚だ」鼠は空になったビールの缶を潰して適当にフロアに投げ捨て、吐き捨てるように言った。

「はっきり言ってね。途方もない数字さ」

 28枚。当時の僕たちにとって、その数字は無限とほとんど同じ意味のように思えた。1965年、高度成長期の真っただ中にココナッツサブレは発売された。当時としては画期的な、ココナッツ風味とシュガーテイストのサブレとして、瞬く間にお茶の間の人気者となった。地味な存在ながら今なお多くのファンを持つロングセラー商品であり、その風味そのものは発売から50年を経た今日でも発売当初から変わらず守り続けられている。

 ココナッツサブレがその内容量を28枚から25枚に減らした時、特にプレスリリースなどは公表されなかったし、あるいはどこかでひっそりとされていたのかもしれないけれど、どちらにせよ誰もそんなことを気にしてなんかいなかった。28枚のココナッツサブレが25枚になったという、それはそれだけのことに過ぎなかった。25枚のココナッツサブレは28枚のココナッツサブレよりも3枚少ないが、それでもまだそこには25枚ものココナッツサブレが残されていた。

 25枚のココナッツサブレだ。それは無限とまでは言えないものの、未だに途方もないような数字であるように思えた。それは無限よりも、たったの3だけ小さい数に過ぎなかったのだ。

 やがて、バターサブレやセサミサブレと枚数を横並びに統一させるという名目で、ココナッツサブレの枚数もまた22枚にまでその数を減らすこととなった。

 22枚。それは途端に、現実的な数字になってきていた。未だ途方もなく大きい数ではあったが、。22枚。それは20枚よりも、僅かに2枚多いだけの、それだけの数字に過ぎないのだ。まだ十分に大きな数字だけれど、それは20枚に比べて2枚分の余裕しか持っていなかったのだ。もはやここでギリギリのラインだと思われた。

 しかし、実際には話がそこで終わるなんてことはもちろんなかった。


 2016年の10月に、ココナッツサブレはついにその総内容量を20枚に減らし、、それらは5枚ごとに個別の袋に小分けにされて、躾けの行き届いた少女が玄関で脱いだ靴のように綺麗に行儀よくプラスティックのトレイの上に並べられていた。それはどう見ても20枚のココナッツサブレですらなく、5枚ごとに小分けにされた4袋のココナッツサブレに過ぎなかった。5枚ごとに小分けにされた個別包装のココナッツサブレをどれだけ集めたところで、それらはたくさんの5枚ごとに小分けにされたココナッツサブレでしかなかった。そこには28枚のココナッツサブレに宿っていた、あるいは25枚のココナッツサブレにもまだかろうじて宿っていた、ある種の「大きな数」が失われていた。

 あるいは君はこう言うかもしれない。5枚ごとに小分けにされたココナッツサブレを6袋集めれば、そこには30枚のココナッツサブレがあるではないかと。

 しかし、そうではないのだ。どれだけ5枚ごとに小分けにされたココナッツサブレを集めても、そこに28枚のココナッツサブレが持っていた、あるいは25枚のココナッツサブレでもまだ保持していた、ある種の形而上学的大きな数性は宿らないのだ。それらは時代が過ぎ去っていってしまうのと同様に、もうどうしようもなく損なわれ、永遠に失われてしまったのだ。


「クソったれさ」鼠はそう言って、ココナッツサブレの最後の一枚に手を伸ばした。

 そのようにして、僕たちはまた一袋のココナッツサブレを食べ尽くした。



「5枚ずつに小分けにされたココナッツサブレなんて、ココナッツサブレを食べている気がしないって、あなたそう言っていたんじゃなかったかしら」

 彼女はカウンターの僕の隣の席に、まるで猫のようにスルリと滑り込んでくるなり、長細いハッカの煙草に火を点けてそう言った。

「うん、実にその通りだよ」と、僕はカウンターの上のココナッツサブレに手を伸ばした。既に3枚がそこから失われ、もはや、残っているのはたったの2枚だけだった。3枚食べると、2枚しか残っていない。5枚ずつの小分けにされたココナッツサブレを食べるという作業は、つまりそういうことなのだ。

 それはとりもなおさず、自分自身を受け入れるという作業に似ていた。

「つまりね」僕はココナッツサブレの粉をブルージーンで払いながら言った。「5枚ごとに小分けにされたココナッツサブレなんてココナッツサブレを食べている気がしないのは確かだけれど、でも、さえ思わなければ、これはこれでなかなか悪いものじゃない」

 彼女は唇をすぼめ煙を吐き出すと、カウンターの内側にカティ・サークを注文した。

「あなたは、そうやって与えられた環境によって規定されていくところがあるわね」

「それはそうかもしれない。でも、もうココナッツサブレは5枚ごとに小分けに包装されてしまったんだ。ココナッツサブレ5枚小分け包装宇宙においては、ココナッツサブレ5枚小分け包装宇宙的な僕のありようというものがある。それは仕方のないことなんだ」

 僕がそう言ってしまうと、彼女はしばらく黙った。ふたりの上に、長いハッカ煙草一本ぶんの、とても行儀の良い静寂が降り注いだ。

「宇宙のことはよく知らないけれど」

 ハッカの煙草を灰皿に押し付け、グラスのカティ・サークを飲み干してしまってから、ようやく彼女はそう言った。「あなたには確かにそういうところがあるわ。あんなに愛していたはずのココナッツサブレがある日突然に変わってしまったというのに、ひと月も経てばまたその新しいココナッツサブレを前と同じように愛し始めるの。まるで、前のココナッツサブレのことなんて忘れてしまったみたいに」

「ココナッツサブレは変わってなんかいない。ただ、減っただけさ」

 僕はなんとかそれだけを言って、すっかりぬるくなってしまったビールを飲み干した。

「そんなこと、これっぽっちも信じていないくせに」

 実にそのとおりだった。



 かつてココナッツサブレはひと袋28枚で、それはまるで宇宙のように途方もなく大きな数だった。僕と鼠は協力して、除雪車みたいに右から左へ、その途方もなく大きい数を端から順番に片づけていった。いつしかそれは25枚となり、22枚になって、やがて5枚ごとに小分け包装された4袋のココナッツサブレになってしまっていた。

 5枚ごとに小分け包装されたココナッツサブレをどれだけ積み上げてみても、それは解決可能な単位に分割された、解決可能な数でしかなかった。

 結局のところ、それはその他の、僕が後ろに投げ捨ててきた実に多くのものごとと同様に、とっくの昔に損なわれ、永遠に失われてしまったのだ。

「ねえジェイ。もう行くよ」

「帰るのかい。また寂しくなるね」

 僕はブルージーンの裾でココナッツサブレの粉を払い、ジェイと握手をして店を出た。夏はとっくに通り過ぎ、海からの冷たい風が街を打ちつけていた。


 あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを留めることはできない。

 そんな風に、僕たちは生きている。










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 1965年の発売より50年以上愛され続けるロングセラー商品が小分けパッケージになりました。いつでも開けたてのまま楽しめ、持ち運びにも便利になりました。


希望小売価格 150円 (税別)

内容量 20枚(5枚×4袋)

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