第24話 まぼろしの彼ら


「丸っきり伝説のバンドになっちまったわけだ」

 ドリッパーにお湯を注ぎながらマスターは言った。

 まるででかい石を湖面に投げ込んだかのようだった。


 俺の伝えた事実がマスターの頭の中で、初めはひとごとだったのが次ぎの瞬間には残念なことになり、ついには怒りの対象になっていったのだった。

 責める口調でマスターは言う。

「テープの1本も残ってないのか」

 今はデジタル録音器とか携帯電話の何とか機能で録れちまうらしいよ、と言おうと思ったが、そのあたりは俺も全然知らないから、「そうだね」と言うにとどめた。


 そうなんだよな、と俺は思った。言われて初めて気がついたことではなかったが、あらためて言葉にして言われるとけっこう淋しい。


 初めは呆れ、次にぶっ飛んで、それから「いつでも聞けるもの」になったジーバの演奏も、その演奏が大きな素材で調味料で下地でデコレーションだったラフ・ブルーの音も、宇宙の果てまで霧散しちまって、もう誰にもかき集めることはできないのだ。


 1時5分前、弾薬庫で待っていると奈美恵が一人、当り前に人間の歩き方で現れる。俺が手を上げると無理して笑って応える。それから俺たちは二人で、どこかで聞いたようなリズムパターンを繰り返し、誰にも何も訴えようとしていない歌をまくし立て、やけになったようにギターをかきむしる。まるで愛のない、欲望だけにかられたセックスでもしてるみたいに。


 病院でそのことをそのまま正直にソーヤに言ってみたら、ソーヤは「そりゃあね」と頬を満足そうに膨らませた。「元々そういう、体の相性は最高って感じの四人でやってたんだし。だからあとはもう一つ、そこに何かが降ってくるだけでよかったんだ」


 そんな時間に俺みたいな見舞い客がいてもいいのかどうかわからなかったが、ソーヤは俺の前で簡素な食事をとっていた。

 メニュー用の撮影で散々霧吹きをかけられたような白身魚、プラスチックの器の中でひっそりへそを曲げているほうれん草、それに干からびかけた白米と味噌汁。味噌汁だけがスペシャルだった。シジミがたっぷり入っていたのだ。本当かどうか知らないが、気の利く看護婦が入れてくれたんだそうだ。

「どんなにまずそうな物でも残さないで食べるからご褒美だってさ」

 ソーヤはにんまりしながら言った。

「で、栄養たっぷりだから今度の土曜は行くよ」

「歩けんのかよ」

「歩けなくたって行けるさ」

「ジーバが呆けなかったら、ソーヤなんていらねえんだけどな」

「呆けたはないだろ。でもまあ、それは言えてる。……シジミ・ヘンドリクス……」

「今なんて言った?」

 シジミの小さな貝殻をつまんだ箸を、くすくす笑いながらソーヤは見つめた。


 ソーヤの弾くキーボードはほぼ完璧に、シジミ・ヘンドリクスの穴を埋めた。

俺の目の前で、尻ポケットにドラムスティックを突っ込んだ奈美恵に手を引かれて肩を借り、タクシーからやっと降りたソーヤはタクシーのトランクからベースを下ろすでもなく、完全に手ぶらだった。肩を貸す役を代わろうとしたら、奈美恵に「デカすぎ」と断られ、俺は向日葵模様のドアを開けた。


「おお、もう大丈夫なのか」

 俺がドアを抑えてソーヤと奈美恵が中に入ると、番人のモトミヤさんが声を上げた。ほぼ、と苦笑いしながらソーヤは答えた。

「立ってベースは無理っすけど」

 そしてソーヤはスタジオに備え付けのキーボードの前に座ったのだった。そしていきなりソーヤは弾きだした。

「ライト・マイ・ファイア」のイントロを。


 驚いた顔なんてしたくなかった。誰かのやることであっけになんてとられたくなかった。俺は21年間、誰が何をするのにも驚いたことなんてなかったし、ましてやあんぐり大口を開けて見つめるなんてざまを見せたこともなかった。でもいきなり「ライト・マイ・ファイア」だ。生まれて初めてってぐらいのパーフェクトな敗北感に包まれ、俺はソーヤと彼の弾くキーボードを見つめた。


 約束した場所に、シルバーのボディに何本も錆の筋を施したシビックを運転してきたのは奈美恵 だった。

「マジ助かったよねえ」

 奈美恵は俺を見上げてうんうんと頷いた。

「ガメラのおかげで免許の更新に間に合ったもんねえ」

 俺のってよりは広野のおかげだ。

 さらには奈良巴にも本当の自分を取り戻させた広野は、ソーヤがそう言っているように、本当に訴えられちゃいけない人間なのだ。いまだにまともに立ってられないソーヤさえ許せば。


 シビックは、奈良巴の自衛隊時代の友達の親戚から借りてきたものだった。

「見てくれの割にはギアもスムーズでさ」

 奈美恵はここまでの運転を楽しんだようだ。

「ガンガンくるんだよね。欲しくなっちゃった。こんだけボロいんだからタダでくんないかな」

 助手席に乗ってきた奈良巴は弾薬庫から借りてきたアンプ2台とキーボードを次々に車から車道に下ろした。台車は、と訊いたらただ一言、

「何言ってんの、すぐそこでしょ」

 ときた。俺はまた、途方もなくジーバが懐かしくなった。


 定禅寺ストリートジャズ・フェスティバルは、かなりの確率で雨に祟られると聞かされたのは全部終わってからだった。

 ドラム、キーボード、ギターをそれぞれセッティングしているあいだに、雨粒は少しずつ大きくなっていて、俺たちがいるステージの司会担当みたいな女の子が俺たちのバンド名とソーヤが出したバンドの自己紹介文を読み上げる頃には、傘なしではその場にいられないぐらいになっていた。


 ちなみにソーヤが、まだ4人編成の頃に考えて提出した文面はこんな感じだった。


 狂ってることは別に悪いことじゃありません。ほんの数十分、ちょっとだけ狂ってみませんか。


 午前1時5分前、俺たちは出会い、ちょっとずつ狂ってみた。誰にも見えない場所で弾薬をそれぞれ体内に詰め込んで、溜め込んだ。

 きっかけはもしかしたらジーバだったのかもしれない、と思う。ジーバのジミヘン・アコギがなかったらソーヤと奈美恵は地味に、しかし極めてお上手に、それこそまさにジャズフェス的なドアーズ・コンビに落ち着いていたかもしれないのだ。


 俺にとってはもちろんトムだ。

 あの大人しい、俺がいなかったら一等先にいじめの標的にされていたに違いない、トムが見つけ出した宝が他ならぬドアーズだった。

 

 仙台市内各所に46のステージを設け、二日間で700以上のグループが参加するジャズフェスに名前を冠されている定禅寺通りから200メートルほど離れたビルのエントランス前には、驚くほどの客が集まっていた。

 なんと30人とちょっとだ。

 こういう場所だとソーヤから聞かされた時には、はっきり言って、終わった……と思った。普段からライヴハウスなんか演奏してきているバンドならともかく、初めて演奏するのがジャズフェス、しかも46のステージで一番北のはずれじゃ、空に向かって演奏するしかねえな、と覚悟していたのだ。

 なるほど、と俺は妙に納得した。これがジャズフェスなのだ。普段ライヴハウスなんかには行かない、でもただでロックバンドが見られるなんてなんかうれしい、はてさてどこでどんなバンドがやってんのやら、ああ、狂ってんの? いいじゃん面白そうじゃん、とか思ったりした人が、どれどれ、と大して期待もしないでこうして30人ぐらい集まってくれている、これがジャズフェスってやつなのだ。

 でも、期待がない分この人たちには執着もない。なんだ……と思ったら次の瞬間にはとっとと南下して行ってしまう。でも、だからこそ、と確信のようなものが胸に芽生えてくるのを俺は感じる。

 この人たちは――北のほうから来てここに最初に立ち止まった人は別として――ソーヤの自己紹介文だけを根拠にここを目指してきて、さらには俺たち三人の風体を見てもそれほど嫌悪感を抱くでもなく、もしかしたら嫌悪どころか期待感を1.5倍ぐらいに膨らませたりしつつ、こうして俺たちが始めるのを待ってくれてるのだ。


 つまりこの人たちは絶対に、俺たちの音を好きになれる人たちなのである。

 なんつってもこの人たちは狂った音が聴きたくてこうしてまんじりともせず立ってたりしゃがんでたり、とにもかくにも俺たちの演奏を聴こうとしてくれてるんだから。

 そして俺たちは愛と平和がたっぷり込められた狂気の弾薬をたんまり、あそこで詰め込んできたんだから。


 旅行の集合写真みたいになって俺たちを囲んでいる30人の集団の左端のほうに結城さんと夏子は並んで立っていた。

 ほとんど同じぐらいの背丈の二人は、まるでお似合いの夫婦のように見えないでもない。

 ごく当たり前に清潔そうでスリムな風体の結城さんの若奥さんにさえ見えてしまう夏子の何が、俺をあんなにまっすぐに求めてくれたのか、実は俺にもまったくわかっていない。


 俺がそっちに気を取られた瞬間、夏子が口角を上げて小さく手を振ってくれた。

 右隣に奈良巴が腕を組んで立っている。

 反対の左側では結城さんがにたにたしながら誰かと話していた。

 相手のけっこう体格のいい、60才ぐらいのおじさんもにたにたして、結城さんが何か言ったのに頷いた。

 俺にはすぐにわかった。

 あの人だ。

 あの人が「ラフ・ブルー」の名付け親だ。きっとそうだ。


「ではラフ・ブルーの皆さんの演奏をお楽しみください!」

 司会進行の女の子の甘ったるくて甲高い声が発砲の合図になった。


 まずは派手にかまそうよ、という奈美恵の意見通り、俺たちはド派手に不協和音のキーボード、ハウリング混じりのローリング・ストローク、タムとシンバルの乱打、そんな調子でまずは唯一残したドアーズのカヴァーを三人で一斉に歌い始めた。1時5分前というタイトルのあれだ。


 ジャズフェスの北のはずれで、雨に濡れたほとんどは初対面の、狂った音楽に飢えた30人の人たちを連れ、あの黒猫みたいにちっぽけな奈美恵はしゃがれた声と徹底的に確実なドラムで、副作用覚悟で化膿止めをばっちりキメたソーヤは天才的な高速フレージングとクールな面構えで、バカみたいにでかいだけの俺はとにかくジーバの分までと必死こいて、どっかに行っちまったジーバへの、黒猫への、広野大樹への、そしてトムへの思いをこめて世界に向けて攻撃を始めたのだった。

                        

                                 おわり

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1時5分前の弾薬庫 いずみさわ典易 @roughblue

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