第23話 A Strange Day

 ただすれ違って通り過ぎるだけのはずだった、2台のタクシーの運転手のどちらかが警察に電話をした。現場は警察が来るまでのあいだ、タクシーのヘッドライトが照明の、ドラマの撮影現場のようになった。俺たちが出演者だ。


 主演は誰だろう。

 俺の前に飛び出して結局太ももをざっくり裂かれたソーヤだろうか。

 一番早く俺と広野のあいだに到達して広野の顔に飛びつき、腹の高さにあったナイフを太ももまで下げた黒猫――奈美恵だろうか。

 警察が来るまでずっと広野を抑え込んでいたジーバだろうか。

 ジーバに放り投げられてタクシーに轢かれてしまったアコギだろうか。

 それとも、一緒に卒業を迎えた同級生たちや高校で同級生になったやつらから疑いに満ちた目で見られ続け、家族からもまるでよそ者の居候みたいに扱われるようになり、目の前でトラックに巻き込まれた級友の最後の姿を常に額の奥に映し続け、自分以外の誰かを生け贄に仕立て上げ、そうすれば混乱しつくして混濁さえし始めた日常から脱出できると信じて、それを実行に移した広野大樹だろうか。


 少なくともただぼんやりと、見えるはずのないものを見ていた俺じゃない。

 それは絶対に見えるはずのないものだった。でも絶対に見なくちゃならなかったものだった。

 俺がやったんだ、あれは。

 でも捕まったのは広野大樹だ。

「捕まるのも一つの救いだよ」とジーバは言った。「法律のいいところはそこ。最悪のことさえしない限りはシェルターにもなりえる」

 自衛隊なんてところにいた人間の言うことだ、と俺は思った。そしてジーバは続けた。

「でももし爽也さんが言う通りにできれば、そこにさえ入ることもないし」

 ジーバが「爽也さん」なんて言葉をその口から発する日が来るとは予想だにしていなかった俺は、いまだに戸惑っている。広野の顔面に飛びかかってそのまま、ぼさぼさ頭とアスファルトにサンドウィッチされちまった奈美恵が、それきり人間でしかいられなくなったのはうれしいことだが、「爽也さん」なんて言えるようになった代わりにアコギを失い、それどころか俺のテレキャスを持たせても「何これ」みたいな顔しかできなくなったジーバには、やっぱちょっとがっかりだ。

 そんなのが俺のわがままでしかないのはわかっている。ジーバはやっぱ奈美恵にとっての黒猫――とりついている何かでしかなかったんだし、相馬奈良巴に戻るのが彼女にとってはあるべき人生の姿なのだから。


 ソーヤは「できれば訴えたくない」と警察に言っている。今回のようなことを誰が事件だと判断するのか、誰が起訴するのか、つまり刑法的にどんなふうに扱われるかはわからないけれど、自分は被害者になるつもりはないと言ってくれたのだった。もちろん俺と広野の関係を考えてのことだ。


 病室のベッドで足を吊られているソーヤに、すべてを聞いてもらったのだった。トムの事故から、そこに俺が抱いた間違った確信、それで俺の卒業写真集がどんなになったか、そして光る入り口から入り込んでいって知った六年前の真実。でもそれは白昼夢でしかないということも含めて。

 他の誰かが聞いたら笑っちまうような部分も、ソーヤはいつも通りの黒々とした瞳に、いつもより鋭い光をたたえて黙って聞いてくれた。そして俺は最後に、

「信じてくれるのか?」と訊くとこう言った。

「どうして俺がガメラと彼の前に飛び込んじまったか、わかるかい?」

「俺が呆然と立ち尽くしちまってたからだろ」

「そう、こりゃダメだと思ったから。ギターを盾にしたら刺されることはないだろうと思ったし」

「そしたら奈美恵がナイフの切っ先を下げちまった」

「太腿に火がついたと思った」

「うん」

「とにかくこっちがどうにかしなきゃと思うくらい、ガメラは固まってた。プラモデルにでもなっちゃったみたいにね。それに……」

「それに?」

「俺がドアーズで一番好きなアルバムがどれだか、覚えてるかい」

「ああ……」

 ソーヤの言いたいことはわかるような気がした。言葉で言おうとするととんでもなく面倒臭いけれど、でもその回りくどい、まるで大小の輪っかが絡み合った知恵の輪のようなイメージが、俺の中にふっと自然に浮かんだのだ。


 ソーヤの一番好きなドアーズの『ストレンジ・デイズ』は、アルバム全体で「現実は時としてひどくよそよそしくなる」「そんな時、キミは現実を離れてしまう」というイメージを喚起し続けている。


 現実がよそよそしくなると、孤独が強固になる。

 現実を離れれば、寄りかかるものはなくなる。

 そこにはもう、自由しかない。

 自分が見たものを信じて、自分を生き切るしかない。


 俺は現実を離れ、真実を見ていた。

 俺がどんなものを見ているのか、ソーヤは直感した。

 その直感は『ストレンジ・デイズ』を、ドアーズで一番などと溺愛する人間だからこそ持ち得た。


 俺が数秒間、頭の中の知恵の輪と格闘し終わるより早く、ソーヤは口を開いた。その顔には、とても『ストレンジ・デイズ』好きとは思えないような千客万来的な朗らかさが溢れていた。

「とにかく信じられるんだ。どんなに奇妙なことも、信じられる人間が言うことならね」

 あまりの屈託のなさに思わず俺の鼻が鳴った。まったく……そんな顔、見てるこっちが小っ恥ずかしくなってきやがるっての。

 でもまあ、こういうことだろう。

 ソーヤはとことん自分の感性を、大地を踏みしめる如く信じている。その感性で荒木ガメラという人間を信じてくれる。

 どうやら、と俺は思う。俺とソーちゃんはそういう間柄になったらしい。

「でも、だったらさ」

 どんな言葉に対しての「でも」で「だったら」なのか、俺が眉間にしわを寄せたら、ここでソーヤは自分からは訴えたくないという意思を表したのだった。「俺的には治療費さえどうにかしてもらえればいいんだ。訴えるとかはしたくない」

 どこまで人がいいのやら、だ。傷は結構深くて、もしかしたら以前のようには歩けなくなるかもしれないのに。

 でも、とも思う。一見よさそうに思える意思表示が、広野を再び混濁の日々に逆戻りさせちまうかもしれないのである。それに、広野大樹は高校も結局は一年半でやめちまって部屋にこもりきりだった。そんな息子を、彼の親はまるでどこにも存在しないかのように扱ってきた。そんなやつらの誰かがソーヤの治療や入院の費用を払ってくれるんだろうか。

 もしどこからも出ないなら、と俺は思う。ばあちゃんに泣きついてでも俺が出すしかない。


 トラックに轢かれた中学生の背中を誰かが押した、誰かってのは同じ高校を受験して落ちた同級生だ、そんな情報が街の一部に広がったことに、結局俺の提出した小さな顔写真は少しも加担していなかった。現場に居合わせた数人の人物が携帯電話のカメラ機能で撮影したものがインターネットに乗り、広野を悪者に仕立て上げてしまったのだ。

 警察から事情を訊かれた清水はありのままを話した。おめでとうと言って軽く肩を叩いただけだ、と。そのあたりを本人の言う通りだと証言してくれた女性もいた。

 広野の全身を蝕んでいったのは、真実がどっちだろうが自分の人生にはまったく影響しない無思慮な「第三者の視線」だった。それは広野の視界や皮膚からじわじわ入り込み、ついにはその中心部――精神を食い尽くしていったのだった。

 俺もこの「第三者の視線」と同じベクトルを心に抱いていた。「親友の仇」だと確信して、警察に写真まで持っていった。でも広野は、トムを祝福しようと軽く肩を叩いただけだった。

 俺はなんてのんきにのほほんと、間違って生きてきたんだろう。誰がどこでどんなふうに行く道を間違えちまったのかも、その先に何が待っていたのかも知りもしないで。

 しかしそれにしてもよ、トム、お前だ。なんでお前はそんなにふわふわした状態で交差点に突っ立ってたんだよ。



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