第22話 闇夜の白昼夢
ステージの予定なんて特になく、ただスタジオに入るだけ、数回練習したら解散ってなバンドばかりやっていた頃からわかっていたが、8月に入ると仙台の貸スタジオのほとんどが常に予約で一杯になる。さあ来週の練習は何曜日にしようかなんて言ってる学生は、まったくスタジオをとれないことになる。ただそれも、弾薬庫の日曜午前零時から1時までの1時間だけはもちろん別だ。俺たちがいる限り。
きっと他のスタジオなら、俺たちみたいな予約のとり方は許されないだろう。2時間とってくれとか、金だけ2時間分払えなんて言われるはずだ。そんな言葉の出てくる感覚がどこにも存在しない弾薬庫に、俺たちは感謝するべきなんだろうなと思う。でもソーヤはただクソ真面目な顔にほんの少し笑いじわを浮かべ、弾薬庫の番人に挨拶するだけだ。じゃあまた来週、と。
こっちから変更を入れるまではとにかく毎週、日曜午前1時から2時まで、田村爽也は通年予約を入れてある。そこに2時間分の金が使われている形跡はまったくない。俺とソーヤが半分ずつ出して1時間分しか払ってないのである。そして番人が嫌な顔をするなんてことも一切ない。
あの正式名称不明なスタジオは、俺たちにとっては間違いなく「愛と平和の弾薬庫」だ。愛に満ち、平和に受け入れてくれる、世間にぶっぱなされる楽曲という名の弾薬をどんどん溜め込んでいく場所だ。
自転車から降りると、熱帯夜の空気の重みがまたのしかかってくる。もちろん夏は暑いほうがいい。夏に生まれたからかどうか知らないが、本気でそう思う。大体にして、北半球で8月に生まれた人間にまで疎まれたんじゃ夏もうかばれないってもんだ。というわけでこの暑熱の圧迫感も嫌いじゃない。でもこういうのは嫌いだ、と俺は思った。公園の公衆便所の周辺に立ててあったり、銀杏の木に立てかけてあったと思しき自転車が10台近く、公園の中の歩道や芝生の上に倒れているのだ。
倒れてるだけなら風のせいだと思える。でも今日一日、少なくとも自転車に乗っている時以外には風なんて感じなかったし、もし百歩譲って風で倒れたんだとしたら同じ方向にタイヤを向けているはずだ。でも目の前の自転車は全部、違う方向にばったばったと倒されている。まるで一台ずつ投げ飛ばされたように。
来てるのかもしれない。
殺伐とした情景と親友の仇という言葉が重なった。
あの向日葵模様のドアを開けて、早めにその中に入るべきなんだろうとは思う。でも俺は待たなけりゃならない。午前1時5分前を。あいつらが闇の中から姿を現すのを。それなしに弾薬庫に入ったら、きっと俺は何も歌えないし、弾けない。それどころかきっとジーバの横顔も、奈美恵のとんがった口元も、ソーヤの黒々とした目も俺はまっすぐ見られなくなる。
ドアの前まで行き、あまりに見慣れた、いつも俺を黙って待っていてくれるちっぽけな存在が指し示す時刻を確かめる――1時9分前。
「来るならとっとと来やがれ」
自分の呟きの不穏さを否が応にも噛みしめながら、もしかしたら、とも思う。こんなのはただの酔っ払いの大暴れの痕跡でしかないのかもしれない。こんだけ暑けりゃいくらだって転がってそうな情景じゃねえか。でも笑えない。広野がやったことだと勝手に思い込んでいる自分を、俺は笑えない。
用心するにこしたことはない、とか思って固くなってるわけじゃない。ただとにかく何一つ、笑えるネタはないってことだ。
1分が過ぎた。俺の自転車は銀杏の木にワイヤーでつながれている。すぐそばの大通りでは車同士がやたら飛ばし合っているが、誰かが歩いて来る気配はない。重たい空気が気配をさえぎっているように思えてくる。車の音は存分に聞こえてくるのに、人の足音だけが耳に届いてこない。それだけが聞こえなくなっちまったみたいに。
1時7分前。ギターケースと背中のあいだでTシャツがぐっしょり濡れている。おいおい、だ。いつもなら着いたらすぐに足元に下ろしてんだろ。
「荒木……」
ギターをドアの脇に立てかけている時に声は聞こえた。でかいため息を吐きながら俺は頭を上げた。
道を挟んで向かいの公園で、街灯のあかりを反射してちらちらと、高そうなナイフが無機質な光を弱々しく放っていた。それを握っている手が震えているのだ。
ナイフで一瞬止まった視線を上げていくと、大小の穴があいたジーンズにモスグリーンのTシャツ、その上にあの顔があった。切り抜かれたことで一番記憶に残ったあの顔は、俺の記憶よりも丸くなっていた。むくんだ感じだ。似合っていると思ってるのか、髪は金色のぼさぼさで顎にはこんもりと苔のようなひげがあった。
「ガメラだよな。そんだけでかけりゃ荒木ガメラだ、間違いない」
自分の名前を確認したやつの名前を俺は口にできなかった。それより大事なものが目の前に現れたような気がしたからだ。誰のどんな行為にもそいつを消されたくなかった。
なんか、俺は感じていた。どこだったろう。こいつのどこを見た時に、あの「なんか」は、こめかみのあたりを小さくかすめていったんだろう。
川を眺めている時によく感じるあれを、俺は確かに感じていた。俺は目を細めて広野大樹を見つめた。顔から少しずつ視線を落としていく。深緑のTシャツ、おそらく筋肉のそれほどついていない両腕、震える光を放つナイフ、だっぷりした穴あきジーンズ。
「お前たちの中の誰か、つうかよ、お前だよなぁ、俺を仲間の仇みてえに言ったのはよ」
声が震えている。ナイフも震えている。光が揺れる。ちらちらと俺のほうに飛んできては逸れていく。
ソーヤたちはもう来てるはずだ。どこでこれを見てるんだろう。いや、気を散らすな。見つけろ。白昼夢の入り口を見つけろ。
「俺はなんも、お前らの考えてるようなことしちゃいねえって」
酒を飲んでるんだろうか、それとももっと過激なものか――そんな考えがこめかみのあたりをよぎる。邪魔だ。今はそんなこたどうでもいい。揺れる光に俺は集中した。
誰かの祈りを聞き入れて光の震えは止まった。まとまったあかりがそこらじゅうをぼんやりと照らし始める。朝、いや真昼間の光だ。その情景に俺は全身で入っていく。
まったく。受かったやつらにぴったりの五月晴れだ。いやいや3月に五月晴れはないっての。ひらすたのんびり歩いて来たつもりだったが、ついに受かったやつらに追いついちまった。富岡が交差点で信号待ちしている。でもなんだか影薄くね? どうしちまったんだ、受かったくせに、とか思いながら「俺」は横に並んだ。
交差点の中央に向けられた目から涙。ダラダラボロボロだ。でも顔は笑ってる。真昼間の交差点で泣きながら笑ってんじゃねえっての。受かったのがそんなに――こんなとこで泣けるぐらいうれしいのかよ。まあ、うれしいんだろうな、そりゃあ。
それプラスあれだ。施設なんかで育つとうれしいことに敏感なんだろう。俺たちの何倍も。よかったじゃねえか。ほんとによかった。マジめでたい! 俺なんて落ちて当然、おとなしく私立に行くわ。
「おめでとぉ!」
俺は声をかけ、俺なんかの何倍も勉強してきたに違いない同級生の肩を叩いた。軽く。ほんとに、ぽん、と軽くだ。なのに、なんでそんな派手につんのめんだよ!
何人も叫んだ。でも聞いてたよな、俺はおめでとうって言ったんだ。心からの祝福をこめて。見たよな、ほんとに軽く叩いただけだ。なにげに親しげに。
なんで逃げてんだ? 逃げたりしたらかえってダメだろ。なんで俺は走ってんだ? 戻れ! 戻れ!
「そうだったのかよ……」
俺の口から間の抜けた言葉がこぼれ落ちた時、ソーヤが俺の前に立っていた。そして俺はソーヤの背中を受け止めていた。
ジーバが道の真ん中で誰かを抑え込んでいた。奈美恵がそのそばに倒れていた。左右両方から来た2台のタクシーのヘッドライトが、3人を照らし出していた。
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