イグアナの冒険

花咲風太郎

イグアナの暮らす島

イグアナの一日は長い。四方を海に囲まれた孤島に暮らす。見上げれば陽光ようこう降り注ぐ太陽、そのまわりにどこまでも青い空。そのまま視線を下げてゆくと空と海が溶け合う水平線が蜃気楼のように揺れている。

水平線から朝日がのぼる。薄暗い夜はとても寒かったから、動かずじっとしていたのだ。ようやく東の海から、大きな太陽が顔を出してきた。

いっつも思うのだが、太陽てのは毎晩、海に潜ってなにをしているんだろうな。やっぱりあれか、なにかうまいもんでも食べているのか。魚か、海老か、それとも蟹とかそういうのか、それともおれみたいに海藻なのか。あれだけ大きな体だし、鮫とかイルカ、ことによると鯨ぐらいは食べてしまうのかもしれないな。それにしても、ずいぶん長いこと潜っていられるんだなあ。水面から顔を出した途端に満面の笑みだ。よほどうまいもんを食べてきたんだろう。

太陽がのぼってしばらくすると空気が暖まってくる。おれの体もじわりじわりと暖まる。さっきまでは目を開けるのがやっとだったけど、ようやく体を動かせられそうだ。まえ足の先を動かしてみる。コキコキ。うしろ足の先も動かしてみる。コキコキ。ああ、気持ちがいいぞ。一晩、さっむい中でじぃっとしてるからな。ちょっと動くと骨がなる。気持ちいいけどな。お腹をぺったりくっつけてる岩もいい感じに温かくなってきた。ううむ、温々ぬくぬくしてたまらん。動きたくないなあ。もうちょっとじぃっとしていよう。いいじゃないか減るもんじゃないし。ああぬくぬくい。

。。。おっと二度寝した!すっかり太陽は高くなったな。あれだけ大きな体でよくあんなに高く飛べるもんだな。毎日毎日。感心するね。羽根もないってのにどうやって飛んでるんだか。訊いてみたいもんだな。あいつには訊いてみたいことが山ほどある。

よく寝たよ、もう全身がポカポカしてる。やる気がみなぎるね。やるぞー!うおー!なんてね。そんな気分だ。よおし、今日こそおれはやるぞ、やってやる。何をやるかって?なんだかわからないが、でっかいことをやるのさ。おれはこんなちっぽけな島に収まる器じゃないんだ。おれのポテンシャルはいまはち切れんばかりなのだ。今日こそやるぞ、見てろよ。とりあえず、でっかいことを探しに島をうろつく。いつもの岩場を離れ、島の中心部に向かう。シダ類の生い茂る森がある。ここには足を踏み入れたことがない。おれはいっつも陽当たりのいい岩場でひなたぼっこをしているからな。ここらで出会うウミガメか、海鳥しか知り合いもない。森の中にはいったい何があるのか、そしてどんなやつが棲んでいるんだろうか。

でっかい森を目の前にして、壮大な冒険の予感におれはワクワクしていた。森の奥からは何やら聞き覚えのない鳥か獣の鳴き声が聴こえて来るようだ。いざ大冒険の一歩を踏み出そうとしたその時だ。

ぐぅぅぅぅぅぅぅ。。

猛烈な空腹がおれを襲った。抗うことの出来ない激しい空腹だ。なんてことだ!この大事な時に!この先に待ち受ける大仕事を考えたら、このまま進むのは危険過ぎる!おれは迷わずきびすを返し、森とは反対の岩場の方向へ駆け出した。更にはその先の岩壁へ、そうしてその勢いのまま海へとダイヴしたのだ。体温が上昇し、生気に満ちたおれの肉体は、まっしぐらに餌場に向かう。おれは持てる力の全てを注ぎ、持てる能力を全てあやつり、潜水で泳ぎ続けた。海藻の豊富な場所まで辿り着いたおれは、もう無我夢中でむさぼり喰った。海藻だけでは飽き足らず、岩壁にこびりつくように生える苔の類いまで、ガリガリとこそぎ落とすように齧った。そう、全身全霊で。こんないかつい顔をしているが、おれは草食なのだ。そこらいっぱいに泳いでる小さな魚なんかを食べたりしない。だからおれが潜って来ても、やつらは気兼ねなく近くを泳いでるんだ。まあ呑気なもんだね。たまには脅かしてやろうかと思って目の前でガバッと口を開けてみたりしたことがあるんだが、やつら面白がっておれの口の中にわざと入ってきやがった。それじゃあと思って、口を閉じてやったのさ。そしたらどうだ、やつらおれの鼻の穴からスイスイと抜け出して鼻歌まじりにどっか行っちまったよ。おれも馬鹿馬鹿しくなってもう二度とそんなことはしないね。だいたいそれどころじゃないのさ。海藻やら苔ばかり喰っても、ちょっとやそっとじゃあ腹一杯になりやしない。もう余計なことを考えてる暇はない。さあ喰うぞ、それ喰うぞ。ひたすら喰い続けるだけさ。

海水てのは冷たいよ。それも深いところはほんとに冷たくてな。あんなに暖かかった体もどんどん冷えてくる。自分じゃ分からないが、唇も紫色に染まってるに違いないね。いよいよ我慢の限界がやってきて、食事はここまでだ。おお寒い!なんて寒さだ!身体が凍っちまいそうだぜ。急げ、早く水から上がらないと死んじまうぜ。

ざぶり。海面に顔を出したら一安心だ。まだ陽は高い。あとはこの岩壁をよじ登らなければならん。身体が冷えて動きにくい上に、腹一杯に食べたもんだから、身体自体が重い。ううむ。このまま海に落ちたら、もう上がって来る自信がない。がんばれ、おれ。

必死に、本来の字義通り必死に岩をよじ登る。動かない身体に鞭打ち、ようやく崖の上に這い上がった。遠くなる意識と戦いながら、いつもの寝床へと歩を進める。

どこでもいいって訳じゃないんだ。あの岩場の、あのデコボコがおれの身体にフィットして気持ちいいんだ。くそう、誰にも譲らねえぞ。

いつもの場所に辿り着いたイグアナはぐったりと気を失ったように突っ伏して目をつぶった。しかし、午後の暖かい陽射しを浴びて、時々は鼻の穴から空に向けて潮を吹き出していたのが、無意識なのかどうか、知ることは出来なかった。


その頃、イグアナの暮らす岩礁とは反対の沖から、一隻の船が島に到着した。

「コバヤシくん、どうだね?このパラガポス島に長期滞在してみて何か新しい発見があったかね?」いかにも研究者然とした男がねぎらいの言葉もなく早々に問いかけた。研究にしか関心がないのだから仕方ない。

「実は博士、気になることが一つあるんです。それがいったい何を意味しているのか、いまだ掴みかねているのですが。」

若いが、いまどき珍しく実直な風貌の男が続ける。

「一匹のイグアナなんです。特定の一匹が不思議な行動を。」

コバヤシは自身が把握しきれない事柄を説明するのに、どのように話すべきか少しばかり迷い、空中にまなざしを泳がせた。

「続けたまえ。」博士が先を促す。

「毎日のことなんです。毎日正午近くなると、岩場をねぐらにする全てのイグアナは食餌しょくえのために海に向かうのです。当然のことです。彼らの餌は海にありますから。しかし、一匹だけ、特定の一匹だけが不可思議な行動を取るんです。」

「ほう。どういう行動なのかね?」

「そのイグアナは、他の個体がみな海に向かうというのに、なぜか海とは反対方向に向かいます。」

「何があるんだ?反対方向に。」

「森です。イグアナが行く場所じゃないんです。そのイグアナも森の入り口で立ち止まります。ほんの少しの間なんです。本当にほんの少し。毎日のことなので、望遠でよくよく観察してみると、その間、じっと目をつぶっているようでした。そして結局は森に入ることなく引き返します。それも急ぎ足で元来た方向へ進み、みんなから遅れて海に飛び込みます。いったい何が目的なのか、私には納得のゆく説明がまだ見出せていません。博士、いったい彼は何をしているんでしょう?」

博士はコバヤシの説明を黙って終わりまで聞いていた。そして自分にこの不思議な行動の説明を求められていることを理解した。博士は知らないと言えない性格だった。だからいままでも説明がつかない不思議な現象に対して、適当な仮説を作って説明してきた。その想像力、空想力、はたまた妄想力が、博士をこの地位まで押し上げて来たとも言える。博士はもっともらしい顔つきを作り、コバヤシに言った。

「コバヤシくん、君はまだ若いな。このイグアナは新しい進化の一本の道筋だ。」

コバヤシは雷に打たれたように驚いた。

「え!どういうことでしょうか?博士、私は何か大きな発見をしたのでしょうか?」

「まだ公式に発表するには材料が少な過ぎるが、私には分かる。長年の経験でな。このイグアナはおそらく近海の餌不足に危機感を覚えた最初の種だ。この行動は餌を海でなく、森に求めようとする進化の方向を指し示す小さな一歩と見える。今後、数百年、いやもしかすると数千年の後に、彼らパラガポスウミイグアナは森に活路を見出し、パラガポスリクイグアナとなるのであろう。そして海に拘るパラガポスウミイグアナなる種は絶滅し、森の食物や生活に適応するパラガポスリクイグアナとなる種だけが生き残っていくに違いない。コバヤシくん、君はその最初の小さな手がかりを目撃したということだよ。」

自分で言いながら、うまいことを言ったものだとスラスラと法螺ほらを吹ける自分自身に、また舌を噛みそうな名前をスラスラと言える自分自身にも感心した。正解か、不正解か、どうせ数千年経たなければ分かりやしない。

「博士!」

コバヤシは博士の見識に感動し、さらに進化の歴史の一端を目撃した自身の発見に感激して涙を流さんばかりだった。


いつものように、いつもの岩場でぺたりと腹這いになり、ようやく体の表面が乾いてきた。まだ身体の芯が冷えていて、なんにもやる気がしない。だらりとした格好のまま、今日は何をしたかと思い返してみる。今日も腹一杯喰ったな。もう身体も冷えちまったし、身体も重いしで動けやしない。冒険は明日だな。やれやれ、と息をついたら、まだ体内に残っていた潮が鼻腔から吹き出した。

今日も一日が暮れようとしている。

イグアナは悠久を生きていた。

時間にも。

空間にも。

夢にも落胆にも、記憶にも縛られずに。

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