最終話 忘れな草

 僕は、都内のアパートで一人暮らしをしていた。


 彼女が渡米してから6年ほど経っていた。

 彼女が僕の前から去ってからの期間は、短くも感じたし、長くも感じた。

 ただ彼女のことを考えない日は一日たりともなかった。


 僕は最後に彼女に会ったあの日のあと、彼女からのLINEを密かに待っていた。

 しかしそれまで頻繁にやりとりしていたLINEは、ぱったりと鳴らなくなった。

 僕は居た堪れなくなり、衝動でLINEのアカウントを削除した。

 だからあれ以来、僕は彼女と一度も連絡を取っていないし、会ってもいない。

 僕は26になり、彼女も27になっていると思われた。

 彼女は最低でも4年向こうに居ると言っていたが、その4年も過ぎた。

 彼女が帰国しているかどうかも、僕には知る由はなかった。


 彼女と会わなくなってから、何度か別の恋もしたが、長くは続かなかった。

 好きになったような気がするものの、彼女に感じたような愛しい気持ちは、感じることは出来なかった。

 そんなこんなしているうちに、6年はあっという間に過ぎたのだった。


 僕は相変わらず同じ会社で会社員をしていた。

 都内に引っ越してからは、その通勤のしやすさに、舌を巻いたものだ。

 僕は会社とアパートの往復だけを行き来する毎日を過ごしていた。

 任される仕事も増えて、やりがいもそれなりに感じていた。

 だから僕はその生活には満足していた。

 願いがあるとしたら、美しく大人の女性になっているであろう彼女に、もう一度会いたいということくらいだった。

 しかし僕は、彼女の連絡先はLINEくらいしか知らなかったし、それも今では判らない。

 当時どこに住んでいるのかさえも知らなかったのだ。

 もう彼女には二度と会えないと、頭では判っていた。

 

 僕は今でも、リメンバー・ミーをたまに部屋に一吹きしては、彼女のことを思い出していた。

 その香りは、いつだって僕の心から彼女への愛しい気持ちを引き出して、二十歳の頃の僕をありありと蘇らせた。

 その思い出は、短い期間に凝縮されている所為か、とても美しかったのだった。


 一目ぼれした彼女と、たった一回だけ行った花火大会。

 あれ以来僕は花火を見ていない。

 彼女が居なくなってからは、あのレンタルビデオ屋にも行かなくなり、映画も観なくなった。

 花火も映画もまた、僕に彼女を思い出させる素敵な記念品となっていた。

 それは本当に、いい思い出だった。


 僕と彼女の接点なんてあの店しかなかったものだから、風の噂すら入ってこなかった。

 彼女が今どんなところで、どんな生活をしているかなんて、全く判らなかった。

 彼女のことだから、勉強も頑張って、きっといい成績を残し最低の4年で帰国したのだろう。

 そしてその習得した学問を活かした仕事に就き、あの時のように生き生きと働いているのだろう。

 それとももしかしたら向こうで現地の人に見初められ、結婚したかもしれない。

 彼女は色んな可能性を秘めている女性だった。

 容姿もそうだし、内面も素晴らしかった。

 彼女の今の生活は、きっと充実しているに違いない、そう思えた。

 僕は彼女の幸せを願っていた。

 そう思うことで、僕の気持ちは昇華されるような気がしていた。




 暮れの寒い冬の夜だった。

 僕はいつも通り適度に残業して、帰宅の途についていた。

 電車に揺られ、最寄り駅につき、反対側のホームへと階段で移動して、改札に向かっていたとき、僕は急に強烈に懐かしい気持ちになった。



 ん?これはなんだ?



 一瞬僕自身も何故なのか判らなかったが、すぐにあの忘れな草の香りだと気づいた。

 あの感覚が蘇る。あの愛しい感覚。

 改札に向かう人の流れの中、僕は立ち止まり、振り返った。

 香りは見えないのでその主は判らなかったが、代わりに視界にも強烈な懐かしさを覚えた。

 電車を待つ人の列の中に、見覚えのある美しい横顔を認めた。

 僕は息を呑んだ。



 馬鹿な、最寄り駅だぞ。

 こんなところに彼女がいるわけないじゃないか。


 

 しかし長い黒髪、やや短めに切りそろえた前髪、小さい顔、白い肌。

 その姿は僕の中の思い出の彼女そのものだった。

 そして今嗅いだこの香り。

 リメンバー・ミーだ。

 間違いない。だって僕は、定期的にこの香りを嗅いでいるのだから。

 彼女だ。

 確信した。

 僕は暫く立ちすくんだ。

 まさか、こんな家の近くに彼女が居るなんて。

 信じられなかった。

 でも僕を確信させたのは、紛れもない、あの花の香りだった。

 僕がそうしたように、彼女もインターネットでまだ売れ残っているその香水を見つけては、購入したのだろう。

 今でも僕はたまに、懐かしんでその香水を検索するが、オークションなどでも見かけることもあったのだ。


 声を掛けようかどうか迷った。

 忘れられていたらどうしよう。

 しかしその時、電車の到着を知らせるアナウンスが構内に鳴った。

 僕は決心した。


 僕は茶色のダッフルコートを着て寒そうに立っている彼女に、ゆっくりと近づいた。

 すると近づく男の気配に、彼女も気づいたようで、ちらりとこちらを見た。

 すぐにその顔は驚きに満ちた。

 彼女はゆっくりと両手を口に当てて僕を凝視した。

 僕はその手に指輪がないことを確認した。

 電車がホームに滑り込み、その風で彼女の髪の毛は靡いた。


 彼女の目の前に立つと、僕は深呼吸して彼女に声をかけた。

 初めて僕から彼女に声をかけて渡した紙に書いた言葉を僕は覚えていた。

 この言葉に彼女はLINEで返信をくれたのだ。

 この言葉から、すべては始まったのだった。



「その香りは何の花の香りですか?」



 驚いていた彼女の顔は見る見るうちに笑顔へと変わった。

 ふんわりと、あの忘れな草の香りが漂っていた。

 僕は、あの頃と同じようにまた、愛しさの窮地へと追いやられた。

 目の前の笑顔の彼女はあの頃と変わらなかった。

 僕を見上げる大きな目。白い肌。血色のよい唇。


 彼女は、一瞬だけ泣きそうな表情になったが、また笑って、鼻で大きく息を吸うと、あの時と同じ言葉で答えた。



「忘れな草です・・・・!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕を愛しさの窮地へと追いやる、あの花の香り。 キヅキノ希月 @kzkNkzk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ