第15話 吐息
その日は彼女の仕事が休みだった。
なので僕の仕事終わりに合わせて会うことになった。
いつものように、いつもと同じガストに行って、いつもと同じように食事を摂った。
そしていつも通り彼女の車で帰り、別れ際になった。
もう僕たちが会えるのは残り数日になっていた。
その日の彼女はうっすらと化粧をしていた。どこかに出かけたのだろうか。
「今日どっか行ったの?」
「うん、留学の最終手続きに」
僕たちは体を寄せ合い、顔を近付けておでこをくっつけた。
僕は片手を彼女の輪郭に添えて顔を包み込んだ。
「いつ発つの?」
「ギリギリに。9月入ってから」
吐息のかかる距離、微かな声だけで会話した。
明確な日付は教えたがっていないの様子だった。
空港までついてこられたらいやなのだろう。
鼻と鼻をくっつける。
「いつまで会える?」
「8月の最後の週まで」
唇が僅かに触れあう。
そして僕は堪らず彼女の唇に自分の唇をつけた。
唇で唇を求め合う。
次第に舌を絡ませ、今度は舌で求めあう。
いつも通りの、僕たちのキスの仕方。
鼻に彼女のあの香りが強く入ってきた。そして唇には彼女の唇の、舌には彼女の舌の感覚。
僕は愛しさの窮地へ追いやられ、堪らなくなった。
僕は思わず、こらえきれなくて彼女の胸に手をやった。
彼女は抵抗しなかった。
初めて触る彼女の胸の感覚に、僕の中の何かが触れて、切れた。
僕は身を乗り出し、彼女に覆いかぶさるようにして激しくキスをした。
すると彼女は息継ぎをするように唇を少し離し、
「達樹くん・・・」
と、吐息で僕の名を呼んだ。少し息が荒かった。
「うん?」
「時間、ある?」
時間など作るつもりだった。
「あるよ」
そう言うと僕は我慢できずまた彼女の唇を求めた。
暫くそうすると、彼女はまた少しだけ唇を離した。
「ホテル、行こう?」
荒い呼吸で彼女がまた吐息で言う。
僕は脳天に何かが届いたような感覚を得た。
改めて彼女にキスすると、顔を離して座席に座りなおしながら僕は、
「僕もそう思ってた」
と言った。
彼女はそれを聞くと気を取り直すような顔をして、ギアを入れなおし、車を発進させた。
彼女を抱ける・・・。
僕は嬉しかった。
彼女がそう言わなくても、僕が同じ台詞を言っていただろう。
「どこでもいい?」
「どこでも構わないよ」
車はやがて246に乗った。
するとすぐにそれらしき建物があり、彼女はそこを目指し、道を左にそれた。
彼女に最後に会ったのは、8月最後の平日だった。
僕たちはあの日以来会うたびにホテルに行き、お互いを求め合っては体を重ねた。
その日もガストで食事を食べ、彼女の運転でホテルへ行ったあと、僕の家まで送ってもらった。
別れ際、車内で軽くキスをしたあとに、彼女は元気そうに言った。
「いってらっしゃいって、言って」
ああ、これが最後なのだな・・・、と僕は察した。
なんともいえない気持ちになった。
信じたくない気持ちと、けりをつけなければ、という気持ちが混じっていたと思う。
僕も覚悟はしていたつもりだった。
僕は助手席からまっすぐ彼女を見つめた。
「気をつけてね」
「うん」
彼女は大きく頷いた。
僕はそんな彼女を見て、また愛しいという気持ちが溢れ出した。
「勉強も頑張って」
「うん」
彼女は気丈にしていたが、目には涙が溜まっていた。
「元気でね」
「うん」
僕も泣きそうになったが堪えた。
「・・・いってらっしゃい」
「いってきます・・・!」
彼女の元気そうないってきますを聞き終えると、僕は一気に車を降りた。
腕に力が入らなかった。
それでもなんとか懇親の力で車のドアを閉めた。
弱々しく閉まった車の窓から中を覗き込むと、彼女はこちらを見たまま口を真一文字に閉じ、大きな目から涙を流していた。
彼女が泣くのを見たのは初めてだった。
可愛く泣くんだな・・・。
そう思い、抱きしめたいという衝動に駆られたが、愛しい気持ちを無理矢理ねじ伏せて、僕は踵を返した。
マンションのエントランスに入ったとき、後ろで車が去る音がしたので振り向くと、もうそこに車も彼女も居なかった。
取り残された僕は呆然とした。
もう、彼女には会えない。
そんな事実、まだ受け入れられなかった。
空っぽになった頭の中で、もう会えないんだ、という言葉だけがくるくる廻っていた。
僕はぼんやりとエレベーターに乗り、自宅の鍵を開けて中に入ると、自分の部屋へと向かった。
電気をつけて、部屋を見渡すと、適度に散らかった狭い部屋が一望できた。
そんな中、ベッドの脇のあの香水がふと目に入った。
僕は何も考えず、それを手に取り、部屋に一吹きした。
たちまち部屋は彼女の香りで満たされた。
・・・愛しい。
僕はその中で、もうこの香りを彼女から嗅ぐことは出来ないと感じると、急に寂しくなり、涙が溢れた。
もう会えない、そう思うたびに泣けた。
僕はベッドに顔だけ突っ伏して、声を殺して泣いた。
それが、彼女と会った最後の日だった。
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