穴の眼

帆場蔵人

穴の眼

女が死んだそうだ。いや……殺されたのだったか。


私は自宅の近所を散策するうちに家々の立ち並ぶ住宅地の狭い路地へと入りこんでいた。この町に引越してもう一月が経つ。私は独り者なので整理が必要なほど荷物もなく、仕事以外は落ち着きつつあった。そんなある日の休日、町を散歩してみようと思い立った。ちょうど梅雨が明けようかという7月の初旬の事で、この数日は陰鬱な曇天は失せて晴天が続いていたからだ。

 そして私はあてどなく、初夏の日差しが降り注ぐ町を散策していたのだ。どれぐらい歩いたのだろう。私はふとあるものに目を止めた。そして女のことが頭をよぎったのだ。


女の話……ねぇ、あなた知っていますか?


誰かが耳元でそう囁いたように思った。だが、あたりには私だけだ。照りつける太陽の下、蝉達が夏の訪れを知らせるように煩く啼いている。私はポケットから引っ張り出したハンカチで汗を拭いながら、板塀に開いた歪みのある節穴をじっとみつめた。別にこれといって変わっているわけではなかったが、私はなぜかその節穴から目が離せなかった。そして、また……


あの白い……が裂けて……とても綺麗な……


誰かが頭の中で囁いた。私の声ではない。ああ、なんて暑いのだろう。止まらない汗をハンカチで乱暴に拭って、私は考える。白い? とても綺麗な? いつかどこかで聞いたように思うのだが、一体なんのことであったのか。それが皆目、解らない。それが気持ち悪く、不快で落ち着かない気分になる。蝉の鳴き声が一層、騒がしさを増した気がする。気が付くと私は板塀に身をもたせ掛けるようにして、立っていた。節穴はちょうど私の目の高さであった。


覗きたい


 そう思った。普段はそんなことは考えもしない。人様の家を覗くなんて非常識なことをいつもならしたいとは思わない。だけれども、この節穴を目の前にすると、私の道義心はグニャグニャの飴細工のように溶けて、不定形で頼りなくなんの主張もしていないガラクタに成り下がってしまったようだった。私はさらに節穴に顔を近づけていった。

 視界が陽炎のように揺れた気がしたが、瞬きほどの間に穴の向かいがはっきりと見えた。どこにでもあるような木造平屋建ての日本家屋だ。いや、近年では珍しいのかもしれないが、まだこの田舎町ではよく見る家屋だ。庭には幾つかの鉢植えと胡瓜のなった家庭菜園の小さな畑があった。家の木戸は開け放たれていて、縁側とその奥の畳敷きの和室がよく見えた。

女だ。黒髪を几帳面に結いあげて、黒い着物姿で座っている若い女の後ろ姿が見えた。その黒い髪と着物に白いうなじが、ひどく映えてみえた。

……そうだ、確か10数年前にこの家で女が殺されたのだ。美しい妻の浮気を疑った夫が妻を殺して自分も死んだ。そんな夫婦の話だったはずだ。ああ、そろそろだ。何故かそう思った。


 一目で解るほどに怒りに歪んだ顔でざんばら髪の男がその手に、鋭く尖った柳刃包丁を持って荒々しい足取りで女に歩み寄る。音も声も聞こえない。無音の即興劇を見るようだ。蝉の鳴き声だけが響いている。女が座ったまま男から遠ざかろうとじりじりと動く。男は地団太を踏んで駄々をこねる子供のように何かをわめき散らしている。とても正気に見えない。嫉妬に狂った男はここまで見苦しいものか。女の顔はまだ見えない。


やはり私はこの光景を知っている


やがて男は女を壁際に追い詰めた。ああ、顔が見える。白い陶磁のような滑らかな肌色に、端正な目鼻口がのっている。ひどく悲しげで、儚げに見えるのは夫に疑われる己の身を悲しんでだろうか?そしてあの白い喉……

男が包丁を振り上げて、サッとその喉元を掻っ切った。白い喉元に真一文字に線が走ったかと思うと、瞬く間にそこから赤い血が噴き出した。血塗れた男はさらに何かを喚き、髪を振り乱して壁にもたれて事切れた女に顔を近づけた。パックリと切り裂かれた喉元をベロッと舐めたように見えたが、それも一瞬で男はさっと身を翻して部屋を飛び出して、私の視界から消えた。役割を得た役者が舞台から退場するように……

残されたのは白壁に上半身をもたせ掛けて、両手を半ば外に広げて死んだ女。着物の黒い袖が何処となく黒い羽根を広げた蝶を連想させた。その喉からはまだ血が流れ出している。


はぁ……はぁ……


 呼吸が知らないうちに乱れていた。この光景が理解できない。知らないのに、知っている。いや、やはり私は知っていたのだ。この節穴を除けば視えるのだと。


「おや、どうかされましたか?」


 突然、男の声が聞こえた。自分でもわかるほどに身体が震えた。一つ息を吐いてから私はゆっくりと声の主の方にわずかに顔を向けた。三十代の半ばといったところか、私とそう歳の変わらぬ男が怪訝な顔でこちらを見ていた。


「あの、気分でも悪いのですか?」


 また問いかけられた。暑気当たりでもしたのか、と声をかけられたのだろうか。いや怪しい人物に見られていてもおかしくはない。


「いえ……少し暑さに当たったようで……」


 と、私はようよう返答した。男は少し、眉をしかめてこちらを見つめて、


「あなた。ああ、そうでしたか。また見に来られたわけですか」


 そう不可解な言葉を投げかけてきた。何を言っているのだ、この人は。私はもう一度、男をよく見つめた。これといって特徴のない中背中肉の、平凡な顔立ちの男にしか見えない。知らない顔……のようでどこかで見た顔のようでもあった。そのとき私の中で、響いていた不可解な誰かの声と男の声が重なった。


「あの……妙なことをお尋ねしますが、私はあなたとお会いしたことがありましたか?」

「ええ、確かにお会いしたことがあります。先週の事だったと思いますよ。どうしました?覚えておられないのですか」


 聞いてみると男はこの家に住んでいるのだそうだ。ああ、そういえば先週もこうやって散歩しているうちに、同じように節穴を見つけてそれを覗いたのだ。そして同じように家主の男に声をかけられて、この家であったという惨劇を聞き及んだのだ。少しずつ記憶が蘇ってきた。なぜ忘れていたのか? 男にしても自分の家を覗かれているというのに、咎める様子もない。むしろ嬉しそうでもある。先週もそんな風に私は男の誘いに乗って家に上がりこみあの縁側で話を聞き、冷たい麦茶をす

すったのだ。その後……


「いや、しかしあのときはあなたが突然、帰られてしまったので、何か失礼でもしたかと思いましたが……」

「はぁ、実はあまり覚えてないのですが……突然、帰りましたか。それはこちらこそとんだ失礼をしたようで」

「ははは、いいんですよ。あなたも動揺されたのでしょう。ときどき、おられるんですよ。その節穴を覗いて、あれが見える人がね」

「と、いうと……あなたも見られたのですか……ああ、想い出してきました。そう言われていましたね。あれは……」

「ええ、この間もお話しましたが10数年前に女が殺されたのです。この節穴を外から覗くと今でもその光景が見えるのです。あなたもみたでしょう」

「何故こんなことがおこるのでしょうか……? この穴を通して私は過去を視たわけですか」

「何故と言われてもねぇ。まぁ、この世には不思議なことがあるものですよ。強いていうなら、強烈な出来事はその場所に焼き付いてしまうのではないでしょうか」

「焼き付く……」


 そんなことがあるのだろうか? だが確かに私はそれを視た。あれは砂漠の蜃気楼のようにおぼろげで不確かな感覚ではあったが、確かにそこで起こった事なのだという確信が、沸いてきていた。私は節穴を通して過去に起こった惨劇を視て、魅せられたのだ。女の死にざまはそれほどに生々しいが、どこか作り物めいていて美しく白いキャンバスに芸術家の意図通りに描かれた一枚の絵のようでもあった。


「私も……あれに魅せられてしまいました。あの男が女の喉を切り裂いた瞬間、私の中のつまらない事柄がすべて吹き散らされたように感じたのです。そうあれはそれだけ衝撃的でした。10数年の時を経ても変わらないのです」


 いつのまにか男の言葉は独白のようになり、すでに私を見ていないようだった。ぶつぶつとあの節穴の向こうの光景について、何事か興奮を押し殺すようにつぶやいている。なにかが変だ。いや、もちろんこれまで私が見たこと自体が夢のような話なのだが。


「ええ……私もそうです。あの光景があまりにも衝撃だったので、忘れようとしたのでしょう。でもあれは衝撃的ではあったが……」


 私は言い淀んだ。いくら過去にあった事とはいえあのような事件に魅入ってしまったとは言いにくい。それにこの目の前の男は10数年前と言ったのか。あれを10数年前に見た……まさか、そのときこの場所で……いや、それは考えすぎだろう。だが……私は何故、先週、この男の家に招かれた際に突然帰ったのだろうか?どうにも想い出せない。蝉が煩い。


「そうあの男はどんな感触を味わったのでしょう……僕はそれを知りたいと思った。そして僕はこの家を借りて、毎日物思いにふけっているのです。自分を悋気に駆られて妻を殺した男になぞらえて。でも解らない……想像でしかないから……それに僕は女は好きでない。あのふにゃふにゃした生き物に触れたいとも思わない」


 男の独白はすでに訳が解らないものになりつつあった。私は考える。何故、この家から自分は去って、忘れてしまっていたのか? そのとき私は壁の向こうに息遣いを感じた。

 ハッ、と節穴を見るとそこには、見開かれた眼がこちらをじっと見ていた。板塀の向こうは過去だとするなら、これはあの事件の妻を殺した夫だろうか?

何故、そんな眼でこちらを見ているか。いや……待て……過去だというのなら、別に十数年前でなくてもよいのではないか。


何故、私はこの家から離れたのか?


 節穴をこちらかみると過去が視えるというのなら、反対から覗けば何が見えるのか。もしかして未来が……そう思ったとき私の背後、肩口に息が掛かるほど近くに男が立っているのに気付いた。


「ねぇ、あなたは考えたことはありませんか?切り裂かれる感触を……切り裂く感触を……ああ、こんな穴さえなければ……僕は、僕の中の願望になど一生気づかなかっただろうに……」


 私は男の言葉とその息遣いを背中で感じながら、じっと節穴の眼を見つめていた。ああ、これは私の眼なのだろう。だから私は逃げ出したのだ。すべてが想い出されて、あるべき場所に折り目正しく整理されたような気持ちになった。


「何故、戻ってきたのです……あなたさえ来なければ……僕が向こう側からこちらを覗いた事が無いと思いますか? 」


 男の声は昏い期待感と不安に揺れていた。それは同時に私の心中に湧き上がったものと同じだと感じた。ああ、この節穴の眼は私であり、この男であり、かつて妻を殺した男の眼であるのかもしれない。蝉が一層啼き出して、静寂を塗りつぶしていく。額からゆっくりと汗が顔の窪みにそって流れ、顎の先に辿り着き、雫となって地面に落ちた。

 私は瞬きの間か、それとももっと長い間か穴の眼と見つめ合っていた。穴の眼は期待と不安に揺れていた。私はじきに男を振り返るだろう。そして……穴の眼はじっとそれを視ている。

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穴の眼 帆場蔵人 @rocaroca

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