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タロは1のついた小部屋へ入れられた。そこには何匹もの犬が怯えた様子で先に入っていた。
『やぁ、新入りくん、よろしくな。大丈夫だよ、何かされるわけじゃないさ。あの人間たちは何もしやしないし、水もあるんだ。大丈夫。』
ずいぶん年寄りの犬がよたよたと近寄って、タロの鼻先を舐めた。
『ほんのちょっとの時間だけ、わしらの方が先輩だな。』
タロが来たのは夕方で、彼らはそれより先に来ているらしかった。
『なんか嫌なのよ、この場所は。ねぇ、出して、出してよ!』
悲痛な声で鳴く犬もいた。哀れっぽく鳴けば、たいていの人間は飛んできてくれるのに、ここのあの二人は顔も出さない。今度のボスは優しくないようだった。
『なんだか怖いの、怖いのよ。なんだか解からないけど、ここはとっても怖い場所だって気がするわ。壁の隙間からも、床の隙間からも、なんだかすごく怖い気配が滲んでいるじゃない。』
『よしてよ、そんな事を言われるとこっちまで気が滅入ってくるわ。大丈夫、明日になれば迎えに来てくれるのよ、これは何かの間違いなんですからね。』
心配性のボルゾイが震えながら怖いと言い、気の強そうなスコティッシュテリアが鼻を鳴らして文句を言った。
『わたし、前におうち以外のとこへ連れてかれた事があるわ、あの時もサイアクだった! はやく帰りたいわ、今度は何日預けられちゃうのかしら。』
この犬のこの言葉で、他の犬たちは少し元気を取り戻した。ただ預けられただけなのかも知れないと思うことが出来た。
『俺が居たとこに比べりゃ、ここはずいぶんといいよ。カンカン照りでもないし、ちゃんと水入れには水が入ってる。少ないけど餌だってもらえるからな。なにより蹴られないんだからいいトコさ。痛いし、文句を言ったらますます酷く蹴られるんだ、蹴られないだけ有難いよ。』
鼻を鳴らして床を嗅ぎまわりながら、また別の犬が暢気に言った。
若い方の青い服の人間がドッグフードを撒いていったのは朝だったから、タロが来た夕暮れ時にはカケラも残さず無くなっていた。タロの主人は出かける前にタロにとても美味しい肉を食べさせてくれたから、タロは大満足だ。帰ったらまた食べさせてくれるかも知れないと思うと、よだれが垂れそうになる。帰れないかも知れないという思いは無理やりにどけておいた。
1の部屋にはタロより先に四匹の犬が入っていた。壁の向こうにも何匹か居るようだったが、おーいおーいと吠える大声しか届かなかった。そのうち、一匹が身の上話を始めた。
『あたしの居たトコはねぇ、』
気の強そうなスコティッシュテリアの雌犬だ。
彼女は高価な子犬だったらしい。生まれて物心ついた頃には自分が価値ある存在だと気付かされたのだという。引き取ってくれたのは中年の男だったけれど、そこからすぐ若い人間の女に譲られたらしかった。
『人間はわたしたちを売り買いするのよ。わたしはとっても価値が高いの。多くの人間が物欲しそうにわたしを見てたけど、諦めて帰っていくのを何度も見たわ。透明な壁越しからね。人間たちが勝手に触らないように壁を作ってわたしを守っていたくらいよ、だからわたしはとっても高価な犬に違いないの。』
スコティッシュの彼女はおかげでとても気位が高いようだ。
『ご主人もちやほやしてくれたわ、高価な犬を譲ってもらって嬉しかったのね、毎日ブラッシングをしてくれて、トリミングも欠かさずしてくれて、美味しい餌もたっぷりくれたわ。どこへでも一緒に連れていってくれたし、寝る時も一緒に寝たのよ。』
『それがどうだっていうんだ、その人間はお前さんに飽きて、だんだん世話もしてくれなくなったって言うんだろ!? 今日、これで何度目だよ、その話。』
タロと同じ雑種の若い雄は噛み付くようにそう言った。蹴られてばかりだった彼は薄汚れていて、きつくなった首輪の奥からは腐った臭いがしている。
喧嘩腰でスコティッシュの彼女は吠えた。
『そうよ! わたしは高価な犬なのよ? なのに、大事にしてくれたのは最初だけで、だんだん世話もルーズになっていったのよ、あの人間の女! 外へ連れてく時だけ自慢げで、まるで飾り物みたいにしか思ってなかったわ! 近頃は何日もヘンテコな場所に預けられてさ、他の犬とか猫どもが夜中まで騒いでいるような最低の場所で、煩いったら! あげくに今日はこんなトコだし! 嫌になるわ、もっとマシなトコはなかったのかしら! ……我慢はするけど、本当に嫌よ。主人は嫌な女だけど、ここよりはマシだから早く帰りたいのよ。悪い?』
彼女に弱気が見えたのはこの時だけだった。本当にここは嫌だと思っているのだろう。
『お前さん、もしかしたら棄てられちまうのかも知れないぜ? 俺と同じだ、それ。』
棄てられる、と聞いた途端に四匹の犬は尻尾を丸めた。びくりとして、頭を下げた。雑種の若い雄犬は、若いくせにヨボヨボの老犬よりも薄汚れている。
『俺は見知らぬ河のそばで車から降ろされて、そのまま置いてきぼりになった。走って追いかけたけど、逃げるみたいにそのままどこかへ消えてしまったよ。それからずっと帰る道を探したけど、どこにも匂いは残ってなかった。ずいぶん遠くへ来てしまってたんだろう、それほどまでして、俺に帰ってきてほしくなかったってわけさ。人間てのはさ、平気でそういう事をする生き物なんだ、覚えておけよチビ助。』
ウロウロしていた野良犬は、通報を受けた職員に捕まえられてここへ連れてこられたと言う。長い放浪でずいぶん薄汚れてしまったとも。彼はもう人間を信じていなかった。
『わしも、似たようなものだなぁ。人間はもう、わしの世話が面倒になったんだろう、だからここへ置き去りにしていったんだな、さっきの話で合点がいったよ。』
老犬は息をするのも辛そうに、そう言った。
人間は時々姿を見せた。青い服の二人の他にも、臭いの違う別の人間の気配が遠くなったり、近付いてきたりした。顔を見せることもあったが、すぐに引っ込める方が多かった。みんな、すぐに帰ってしまった。
「わぁ、子犬だ、かわいい!」
子供がタロを見て言った。
「あら、高そうな犬も居るのね、スコティッシュかしら。」
子供の母親らしい人間が言った。青い服の若いのが、慌てて言った。
「どうせなら子犬にしませんか? これから躾けるにも子犬の方が……」
「せっかくスコティッシュが居るんだもの、こっちがいいわ。血統書はないの?」
「いえ、そういうものは預かっていませんから。」
「ママー、わたし、子犬がいい。」
「なに言ってるの、こっちの犬の方が人気があるのよ。こっちにした方がお友達にも自慢できるわよ。」
「ほんと?」
「ほんとよ。」
気位の高いスコティッシュに続いて、怖がりのボルゾイが人間に貰われていった。4の付いた部屋に移った日のことだった。残ったのは、雑種の三匹だった。
『今日もボス、迎えに来てくれなかった。』
タロもさすがに三日となると不安になってきた。
それからまた二日が過ぎたがボスはもちろん、見知らぬ人間も誰一人尋ねては来ないまま、夜になった。最初に話をしていた職員の二人は黙ったまま、三匹を次の部屋へ移した。
7の付いた部屋だった。
『毎日、毎日、次々と部屋を変えられて落ち着かないことだよな。明日も明後日もまた次の部屋、次の部屋、だ。いつまで続くんだろうな。』
『なぁに、誰か酔狂な人間が連れてくまでの間さ。わしの場合は、くたばる方が先かも知れないけどね。』
冗談を言い合っても、三匹とも不安だった。次はきっと8の部屋で、その次は9の部屋。いつまでも出られない、そう思っていた。
『人間は裏切るんだ。』
薄汚れてしまった雑種の雄は、泣き言みたいにそう言ってから眠った。タロはまだ信じていたかった。明日には無理でも、明後日になったら。明後日もダメだったとしても、きっといつかボスの気持ちが変わって迎えに来てくれると思いたかった。
どんなに不安でも、ボスが迎えに来てくれる事を信じていた。
おわり
【文芸】神の名の許に 柿木まめ太 @greatmanta
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