主人は引越し準備の一番後回しにした作業を、その日、ようやく片付ける気になった。車を回してきて、戸締りをして、裏手にある庭とも言えないほど狭い庭へと重い足取りを向けた。何も知らないタロがいつものように無邪気にはしゃぎながら、主人を迎えた。今日は珍しく車でのお出かけで、タロが車に乗せてもらえるのは本当に久しぶりだった。


 車から降ろされたタロはいつものように主人の足の間を元気に跳ね回った。こうすると主人は察してくれて、タロと遊んでくれる。時にはタロが望んでいないような嫌なことだったり、遊んでくれないこともあった。

 この日も主人は他に用事があったようで、タロが纏わり付いても抱き上げてはくれなかった。地面の匂いはタロの知らない所のもので、それで初めてタロは見知らぬ場所へ連れられた事に気付いた。

『ボス、ここどこ? なんだか他の犬がたくさん居る気配がするよ? 猫もたくさん居る気配がする。人間もたくさん来てたみたいだ、色んな臭いがするよ。』

 タロは警戒して足を踏ん張った。主人がリードの紐を引っ張っても、嫌々をして動かないように座り込んだ。とうとう主人はタロを抱きかかえて建物の中へ入ることになった。


 見知らぬ人間が二人、ボスと話し始める。タロには喧嘩をしているように見えたし、ボスの方が劣勢なようにも見えた。タロは主人の加勢をして精一杯に吠えた。

「しっ! タロ、静かにしなさい!」

 ボスが何か言ったがタロには解からない。けれど、強い目をして、怒っているようだったからタロは黙った。尻尾を出来るだけ丸めて反省のポーズを作った。

 人間の言葉は解からないし、ボスも犬の言葉は解からないようだったけれど、反省してみせれば、ボスはタロの頭を優しく撫でてくれる。タロがくぅんと甘えれば、傍に居た二人の人間も怒った表情を消した。けれど、代わりのように皆が悲しそうな顔をする。


 主人は保健所の職員に説明をしているところだった。

「すいません、この通り、亡くなった妻が甘やかして育てたものだから、躾も出来ていません。引き取り手もさんざん探したんですが、どうしても見つからなかったんです。」

「保坂さんでしたっけ。飼えない事情は解かりましたし、急な話でという辺りも理解はするんですけど、本当にいいんですね? 後悔しませんか? 見たところ、あなたはこの子犬を可愛がってらっしゃるようですし、何より、奥さんの忘れ形見も同然ではありませんか。ここの現状を知らないのであればご説明しますが、あなたはそこも解かってらっしゃるんでしょう?」

 しばらくすると、また人間たちの喧嘩が始まった。唸るような鋭い声の響きで、主人と見知らぬ二人の人間は何か言い合っていた。


「はい、もちろん知っています。よくよく考えた末なんです。私もそんな可愛そうなことにはしたくなかったんですが、仕方がないんです。」

「そうですか、そこまで仰るならもう結構ですよ。ただ、ここに来たペットは新たな引取りがない場合、七日後には殺処分になりますからね、それだけは忘れないでください。」

 強い口調で話す職員は確かに怒っている気配がしていたし、うな垂れる主人はすっかりしょげ返って分が悪いようにしか見えなかった。子犬はハラハラとそのやり取りの意味も解からぬまま、黙って様子を見ていた。


「それじゃ、よろしくお願いします。」

 頭を下げて、主人は一人で出ていった。タロはびっくりして吠えに吠えた。置いていかれるとは思ってもみなかった。

『ボス! どこ行くの! ボクのこと忘れてるよ、ねぇボス、待って! ボクも連れて帰って、ボス!』

 追いかけようとすると、見知らぬ人間が首根っこを押さえつけた。タロはとたんに恐怖を覚えた。どうして置いていかれるのかが解からなかった。そのうちタロは抱え上げられた。ボスが帰ってしまったのは、この人間が新しいボスになったからかも知れないと思った。とても、悲しくなった。怖くて、恐ろしくて、勝手に身体はぶるぶると震えた。


「棄てられた事が解かったんだな。可哀想だけど仕方ないんだよ、諦めろよ。本当に可哀想にな。」

 ぎゅうと抱きしめてくるこの人間は、そんなに悪い人間ではないだろうとタロはむやみと吠えるのを止めた。そこへ別の人間が近付いてきて、この人間に話しかけた。どちらがボスなのだろうと思った。二人は同じ青色の服を着ていて、タロには見分けがつきにくかった。

『あっ、臭いが違うや。こっちは若くて、むこうは古い臭いがする。』

 若い職員と、年配の職員だったが、犬のタロにはさほど違いがあるようには見えなかった。


「おいおい、あんまり肩入れするなよ。後で辛くなるぞ。事務的に淡々とこなして、あまり深入りしないことだよ、ここでやっていくにはコツが要る。でなきゃ、前任者みたいに病気退職に追い込まれるんだ。」

「解かってますけど……なんか、やるせなくって。」

「前の奴もそうだったよ。同情してやって、可哀想だと憤って、悲しんでやって、最後はノイローゼみたいになったんだ。この仕事を続けていくことは出来ませんってな。せっかく安定した職業に就けたと喜んでいたのに、公務員は辞めねばならなくなった。自分じゃ始末もしない市民の代わりに、嫌な仕事を毎日せっせとやり続けたせいでな。意気揚々と入ってきたってのに、運が悪かったよ、そのチビ助と同じだな。こんな場所に来てしまったせいだ。」

「まだ七日あります。まだ子犬だし、きっと貰い手があると思います。ほら、愛嬌のある可愛い犬ですよ。」

「ここいらはボランティアの保護団体もない、ここに持ち込まれたらもう助からない。悔しい話だよな。場所によっちゃ助かるんだから、運命なんてそんなもんなんだろうさ。」

 タロは鼻をひくつかせて、匂いを嗅ぎ取ろうとした。それでも、二人のどちらがボスなのかはどうしても判別出来なかった。


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