【文芸】神の名の許に

柿木まめ太

 小さな庭付きの一軒家には、赤い屋根の付いた犬小屋が置かれていた。本来は大型犬種用のものだから、小型犬の雑種が混じったタロには少しばかり大きすぎた。足の短い、寸胴な子犬は誰から見てもブサイクで、この屋の主婦がどこかから引き取ってきたその日にも、何かと笑い者にされたものだった。


 タロはまだこの屋の主婦が事故で死んだことを知らなかった。代わりに近づいてくるこの屋の主人はタロにとってはボスだったから不安はないが、それでも不思議そうに首を傾げた。

『あれっ、今日もボクの取り分はボスがくれるの? ママは? 最近、ママ見ないよね、ボス。どこ行ったの? ボス、知らない?』

 尻尾を振ってじゃれつく子犬を、この屋の主人は少しばかり鬱陶しそうに手で押しのけた。まとわりつく子犬は歩くに邪魔っけなのだろう。

「ターロ、ほら邪魔しないでくれ、餌入れが取れないだろう。どうしたものかな、本当に。」

 言葉の通じぬ相手は当然言う事など聞き入れない。主人は子犬を抱きあげ、背後へ降ろしながら言い聞かせようとした。

「ほら、じっとしててくれよ。まったく、待てもお座りも出来ないんだものな。」

 妻は子犬を可愛がるだけ可愛がって、躾けはせずに逝ってしまった。だからタロは主人の足に噛み付くし、ちっともじっとしていない。


 この屋の主人は失った妻の代わりに、彼女の日課だった飼い犬の世話をこのところは続けている。餌をやり、散歩へ出かけ、その時ばかりは妻の思い出にしばし浸っていられたが、これも長くは続けられない事情が出来てしまった。

「転勤の辞令が来たんだよ、タロ。どうしたものかな、本当に。お前を連れていけないんだよ。うまく社宅を借りられることにはなったが、ペットは飼えないんだってさ。どうしたものかな、本当に。」

 主人は普段からの口癖を何度も吐き出して、餌入れにはドッグフードを入れた。妻が教えた分量は、子供用の茶碗にすり切り一杯だ。せっかちに食いつく子犬を無視して、彼は模様の剥げかけたメラミンの器をしばらく眺めた。近所の主婦から譲り受けた時の彼女の笑顔と台詞がよぎった。妻の温もりが残る気がして、彼は子犬よりも茶碗の方に執着が強かった。

 未練げに茶碗をドッグフードの袋の中へ戻して、彼は子犬の方をようやく見下ろした。

「もう時間がないんだ、タロ。明後日からは引越しの準備でお前のこともしていられなくなる。ごめんよ、誰かいい人に拾われてくれよ。」

 主人はまだ若く、夫婦に子はなかった。子供を授かるより先に、妻が死んでしまった。子犬は子の代わりにはならなかった。

 纏まった貯蓄でもあれば良かったが、まだまだ若い夫婦には一軒家を買えるほどのゆとりはない。この屋も会社から借りている社宅だから、転勤となれば空けねばならない。彼は八方に手を尽くしてみたのだが、雑種の子犬を引き取ってくれるツテはまだ見つけられていなかった。


 主人は迷っていた。引き取り手が見つからなかったら、保健所へ持っていくか、引越しの途中でどこかに棄てて行くか、そのどちらかしかないと思っていた。棄て犬にするのは申し訳ないような気がしたし、なにより社会の迷惑になるだろうから、九分九厘は保健所へ引き渡すことを決めている。保健所では最終的にどうなるかも知っていたが、諦めるつもりだ。

 主人は空になった餌入れを戻すついでに、もう一度タロを抱え上げると頬摺りをした。どうしようもないと思うほどに、子犬が不憫になった。


『どうしたの? ボス、なんだか元気ないね? なにかあったの? どこか痛いの? よく解かんないけど、そんなに悲しそうな顔しないで。ボクが舐めてあげるから元気だして。』

 タロは抱え上げられた状態で、主人の頬を丁寧に舐めてやった。ママはこうすると少し元気になることが多かったけれど、ボスはますます元気がなくなるようで、逆に心配になった。クゥン、と鼻で合図を送ると元気のないままでボスは歪んだ笑みを浮かべる。

「大丈夫、お前みたいな子犬は貰われる確率の方が高いそうだからさ。」

 まるで自身に言い聞かせるように、主人はタロに語り掛けた。子犬は首を傾けて、不思議そうに主人を見ていた。


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