脱走(Jump)

 江戸城が官軍に明け渡された日の夜。

潜んでいた丸の内の大名屋敷から夜陰に紛れて、

歳三たちは難なく脱走することができた。

すでに屋敷の外に見張りの姿は無かった。

今となっては、ただの厄介者扱いされている新選組が、

早く江戸から出て行くことを勝海舟は望んでいた。


 江戸城が明け渡された翌日、慶応四年(一九六八年)四月十二日、

徳川慶喜は謹慎していた上野の寛永寺から水戸へ出発した。 

同日、新政府に不満を持つ幕府主戦派二千人が

続々と鴻之台こうのだいに集結する。 


 多くの幕府陸軍脱走兵たちに混ざり、

戦国絵巻から抜け出たような大身槍を手にした美麗な鎧武者集団や、

幼い少年兵たちがいる。

その中に歳三と島田魁ら六名の新選組隊士たちもいた。

 

 近くの寺では幕臣、会津藩士、桑名藩士が車座になって軍議を始める。

幕臣の歳三も招かれた。

そこに、幕府陸軍の軍服姿の小さな男が遅れてやって来た。

兵糧用意などの雑務をこなしてきたらしい。


 年齢不詳の童のような小さな男は、ひときわ明るく明瞭な口調で話す。

従者に行李(こおり)一つを持たせた、その小さな男こそ大鳥圭介であった。

西洋軍学者、築城家、印刷機発明、写真機発明、翻訳係など、

たくさんの経歴を持つ有能な旗本で、

陸軍の最高幹部の歩兵奉行に抜擢されていた。


 自らが幕府のフランス軍事顧問団と共に手塩にかけて育て上げた、

伝習隊大手町大隊(第一大隊)を率いて脱走する。

これに伝習隊小川町大隊(第二大隊)も加わり総勢約千百名となる。

伝習隊は主に江戸の民衆の無頼の徒からなる最強集団だった。

大鳥も土方同様に武士の生まれではない。

己の才覚だけで幕府陸軍の最高幹部にまで登りつめた逸材だが、実戦経験は無い。


 難航の末、総督には大鳥が選ばれる。

前軍の司令官の秋月登之助の参謀役には、

実戦経験を買われた土方歳三が選ばれた。

前軍とは伝習隊第一大隊と桑名藩と新選組の混成部隊だ。


 この秋月という若造の面倒をこれから見ることになるのだな。

江戸のならず者達をまとめ上げるには、これくらい生意気そうな侍がふさわしい。

容保公の身辺警護をしていたが、会津藩を脱藩したとか・・・・・・

秋月というのは、むろん偽名だろう。

それにしてもいい男だが、何でダンブクロが赤なのだ? 

ダンブクロは、ふつう黒だろう。

ま、おれもガキの頃は女物の赤い着物をよく着ていたが。


 秋月は一際目立つ長身で色白の美丈夫。

赤いダンブクロ(ズボン)姿に十一代和泉守兼定を佩いた、

人目を引く派手ないでたちの若い侍だった。


 思っていた以上に、新選組の名は知れ渡っているらしい。

あの新選組の副長ということで、

周囲から畏怖の念と好奇心と憧憬が混ざり合ったような

熱狂的な視線を土方は受け取った。


 多くの兵を手に入れたぞ。

これが、おれが欲しかった強い力なのか?

わからないが、とにかく、ここまで来たらやり遂げるしかない。

勝たなければ捕縛されている近藤先生に申訳が立たない。

 

 これだけの大軍が江戸近郊にいつまでも留まることは危険極まりない。

官軍に囲まれる可能性がある。

流山の苦い経験が甦る。

その日のうちに、慌しく旧幕府脱走軍は房州の鴻之台から出発した。


 密偵の調べによると、

近藤は板橋宿脇本陣の豊田家で拘束されている。

近藤に付き添っていた小姓の野村利三郎と書状を届けた相馬主計も同様だった。

新選組の残党で近藤を奪回することを考えたが、

官軍の守りは固い。

犠牲者が出るどころか、

近藤も自分も残った新選組隊士も全滅する可能性が高い。

それは近藤が望むことではないだろう。

<犬死>だけはするなと言われた。

佐藤彦五郎も、まだ身を隠している最中だ。

近藤のことを想うと、歳三の心は水面に映る月のように揺れる。


 丸の内の屋敷に訪ねてきた夜来の話によると

「近藤勇のことは、どうなるか、まだわからないが、

佐藤彦五郎一家は間違いなく、差構(さしかまえ)なしとされる」

とのことだった。

住民や各村の名主たちから、おびただしい数の嘆願書が差し出されているという。

佐藤彦五郎が日野郷の総名主に返り咲く日は、そう遠くはないのかもしれない。

歳三は、ひとまず安堵した。


 彦五郎には六人の子どもがいる。

歳三は、まだ幼い甥や姪たちと彦五郎とノブが以前のように、一緒に暮らせる日が来ることを切に願っている


 だが新選組の副長の自分は逆賊として追われる身となってしまった。

もう、以前のように頻繁に故郷に手紙を書くことは無い。

もし手紙が見つかれば迷惑をかけてしまう。

土方歳三は故郷の日野から、佐藤彦五郎と姉の下から旅立つ時が来たのだ。

盲目の兄、為次郎の地を這うような野太い義太夫三味線の音が追いかけてくる。


そういや、龍笛を、おれは吹いていた。

あまり上手くなれなかったが・・・・・・


日野宿本陣での平和な暮らしは、まるで遠い昔の夢だった。


 もう、おれに帰る故郷は無い。

宇都宮城を落してから会津へ向かう。

近藤先生、先に会津若松へ行って待っていてください。



 

 二百六十五年間の永きに渡って続いた徳川幕府から飛び出した、

主戦派の幕臣たちと藩を飛び出した藩士たち。

戊辰ぼしんの内乱に紛れて故郷を後にした、

武士以外の身分の若者たちがいた。

今居る場所から、

それぞれに新しい時代の何かを求めて脱走(JUMP)した。

大島圭介と土方歳三らが率いる旧幕府脱走軍は、この時まだ希望に満ちていた。


 

 歳三に影のように付き従う巨体の島田魁が、

白地に黒墨で「東照宮大権現」と書いた旗を高く上げる。

旗の黒い文字が房州の乾いた強い風に吹かれて、生きもののように舞う。



鴻之台こうのだい・・・千葉県市川市国府台

                                                                                 了



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流山の別れ 土方歳三物語 オボロツキーヨ @riwa

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