染み出る

ユーラシア大陸

梅田

 若くして東北を飛び出し大阪で起業した私の叔父は、いつも笑っている人だった。叔父と顔を突き合わせるのは盆や正月位だったが、東北住みの私にとって関西弁のイントネーションが不思議だったし、大阪、梅田の一等地に店を構えたと言う彼は、いつも派手な身なりでいたものだから、彼と過ごした時間は強烈に脳裏に残っている。

 叔父はいつも笑って挨拶に訪れ、笑って実家で過ごし、笑ってまた大阪へ帰ってゆく。つまらない話や気持ちの沈む話が出てきたときも、叔父はいつも笑い話に変えて一人陰気な雰囲気を吹き飛ばすのだった。

 あまりにも笑ってばかりいる物だから、何故そんなに笑えるのかと聞いたことがある。


「大阪は商人の街やさかい、商売で面倒なこともしょっちゅうや。せやから笑いの一つでも出して、和やかにするっちゅう事が必要なんやな」

「だから大阪の人はお笑いが好きなの?」

「せやで。いつも命かけて仕事するんやから、笑ってないとやってられないんや」


 そう言うと、「なーんてな」と冗談めかしてひと笑いして見せてくれた。

 他にもこんなことがあった。

 私の母や父が「梅田に店を立てるなんて大したもんだよ」といつも羨ましげに言うので、叔父に梅田とはどんな所か、と聞いてみたのだ。

 彼は、梅田がどれだけ栄えているか、人がどれだけいるか、どれだけ煌びやかな世界か自慢げに語った後、ふと何かを思い出したかの様に豪華なブランド物の革鞄から日焼けたクリアファイルを取りだした。


「叔父さん、それなに?」

「んー、これはな、今話をした梅田の昔の写真が入っとるんや」


 クリアファイルからこれまた色あせた写真を取り出し、私の前に差し出す。そこには、私の住んでいる東北の片田舎と言われても気が付かない位、木や草で覆われた田園風景が写っていた。


「へえー、梅田って昔は田んぼばっかりだったんだね」

「田んぼちゃうで?何て言ったらええかなあ、湿地帯って言ったらええんかな?」


 叔父曰く、梅田とは元々は「埋田」と書いていたように、そこかしこがぬかるみと湖に覆われ湿った土地を、土やコンクリートで覆い隠してしまった土地なのだとか。


「だからなんかなぁ。今でもちょっとした拍子に地面から水が染みだしてきたり、晴れとんのに道路の一角だけ濡れとるっちゅうことがあるんや」

「へぇー。なんだか面白い場所だね」

「んー。あんまり面白いとも言えんねん」


 私が無邪気に放ったその言葉に、叔父は表情を曇らせた。それは、常に笑っている叔父が見せた初めての表情だった。


「……元々は水に覆われた場所やろ?せやから……何て言ったらええかなぁ。水に潜む神様っちゅうたらええかな、そんなもんも一緒に埋められたんや」


 水に潜む神様。今にして思えば、元々東北人で、信仰深いというか因習めいたものを気にする叔父らしい表現だったと思う。

 しかし幼い私には、それがどんなものか果たして理解できなかった。


「ほら、これ見てみい」


 彼は写真を何枚か抜き出すと、私にそっと見せる。

 桟橋から湖を見渡すように撮った写真や、直接水面を写して撮影者の姿が反射している写真、朽ちた木船が半身を真っ黒な湖面に飲み込まれた写真にその他諸々……私は、それらの色あせた水辺の写真に薄暗い不安を覚えた。


「何となく気味悪いやろ?」


 私は黙ったままうなずく。


「これは俺の考えなんやけどな。水っちゅうのは境界みたいなもんだと思っとる。ここから先は入っちゃいけませんよ、っていう」

「どうしてそんな風に思うの?」

「人は水の中じゃ息でけへんやろ?それに冷たいし、足をとられれば溺れ死ぬ。深い浅いの問題ちゃうねん。水面覗いて顔が映るのも、水の中を見せまいとしとるからや。〈お前のくる場所ではない〉って注意しとるんやろな」


 叔父はそんな持論を語って見せると、一息ついてまたいつもの様な笑顔に戻った。


「ま、梅田がそんなもん振り切って明るくなってるんやから、俺も大阪一の商人になってこんな古臭い話を笑い飛ばせるようにせんとな!」


 ガハハ、と絵に描いたように笑った彼は、そそくさと写真をクリアファイルに詰め込み、それを革鞄に放り投げたのだった。

 そんな叔父とは、ある年を境に顔を合わせることがなくなった。しばらく仕事が忙しくて帰省出来ないと告げて、彼は数年程東北の実家へと戻らなかった。

 ようやく顔を合わせることが出来たのは、叔父の母、すなわち私の祖母が亡くなり、親族一同が東北の山奥へと集められた時であった。

 だが、葬式の場に現れた叔父は、その日を境に親戚から白い目で見られるようになる。

 彼は満面の笑みを浮かべて葬式の場に現れて焼香をあげ、軽妙に歌いながら遺骨を箸で拾った。その様子を流石に不快に思った親戚達に何度も咎められたが、叔父は「でも泣けんのよ。叱られたって泣けんのよ」とケタケタ笑うのだった。

 そんなこともあってすっかり叔父とは疎遠になっていったのだが、ある時、彼が飛降り自殺したと報せを受けた。随分前から事業が立ち行かず借金を重ね、その果てに死んだという。

 叔父の兄であった私の父に連れられ、梅田の彼の店で遺品整理をしていると、ふと妙なことに気付いた。

 良く晴れた日なのに、店の床がうっすらと湿っているのだ。川も湖もないのに、まるで床の下から染み出してきたように。

 嫌な気配を感じている最中、父が叔父の奥さんと何か話しているのが聞こえてきた。


「あいつ、いつも笑ってたのになあ。最後はもう、笑えなくなっちゃったのかな……」


 父がそう寂しげに言うと、彼女は重苦しくポツリと呟いた。


「……いいえ、そうではありませんでした。私、彼が死ぬ直前まで電話してたんです。死ぬその間際まで笑っていました。電話越しに『何でや、何で文句も言わず笑ってきた俺が死ぬねん』と言いながら」


 そう言う彼女の口元が僅かに吊り上がったのをよく覚えている。

 以来、私は人の笑顔と水辺がなんとなく怖くなったのだった。

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染み出る ユーラシア大陸 @zuben2062

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