エピローグ
エピローグ
― スヴァールバル諸島の沖合の私(島中佐) ―
ノルウェー海軍の潜水艦「フレイヤ」の攻撃を受け、その際に艦の外郭に損傷を負った「ポセイドン」は、ノルウェーのナルヴィク港を目指して水深三十mで進んでいた。北極海に漂う氷塊から解放されて航海上の危険性が薄れ、クルーをはじめ、航海長のドレイク少佐の表情も、いつもより陽気でリラックスしているように見えた。
今は、グリーンランドとスヴァールバル諸島の間を航行している。艦外水温の温度の変化を見ると、時間が経つにつれ、少しずつではあるが上昇していた。暖流であるノルゥエー海流が流れる海域に近づいてきたことの証である。
人間の本能的な反応なのだろうか。いままで極寒の地域にいたが、少しずつ寒さが緩んでくる地域へ移動することだけで、気分が明るくなっていくことに気がつく。単に任務を終えた安堵感だけではない、ポジティブな感情がどのクルーの表情、動作、会話に表れていた
今回の航海では、艦体の一部を損傷しただけでなく、クルーに負傷者を出してしまった。しかし、その原因は「ポセイドン」とそのクルーにあるのではなく、ノルウェー潜水艦による思いがけない攻撃によるものである。たとえ中立を唱えるUFF(国際連邦艦隊)の艦艇であっても、時と場合によっては敵対勢力が存在する。こちらから攻撃の姿勢を見せない限り、先方が攻撃してこないと思い込むことは危険である。どんな場合でも、心のどこかにそうした警戒心を持っていなければならないという教訓を与えてくれた。
一見、UFF(国際連邦艦隊)の万能潜水艦とみなされがちな「ポセイドン」であっても、時代の急速な流れの中で新鋭艦に性能面で追いつかれ、追い越される宿命にあることは、テクノロジーに頼る人類の性なのであろう。人類に完全な休息が訪れないのは、テクノロジーの遡及範囲に限界がないせいなのかもしれない。どんなに法整備、教育が進んでも人類同士の共食いは終わることはないだろう。他のクルーは今、何を考えているのか。私のように悲観的な気持ちでいる者はいるのだろうか。
そんなことを考えている間に時は流れ、負傷者への診察、治療の進み具合を確認するため、医療室の隣にある緊急時用の収容室へ足を運んでいたティエール艦長が司令塔に戻ってきた。
「艦長、今ほどUFF本部から入電がありました。読み上げます。・・“遭難したノルウェー調査隊は全員、ノルウェーの砕氷船によって救出された“」
「そうか、救出されたか。それは良かった。ところで、ドレイク少佐、航行には特に問題は発生してないか?」と艦長特に感激する様子もなく、航海長に確認を求めた。
「はい、順調です。艦の下部外郭のダメージはありますが、航行にはほとんど問題ありません。浸水もありません。現在の位置は、ノルウェー領のスヴァールバル諸島を過ぎた辺りで、時速二十ノットで航行中です。目的地のノルウェーのナルヴィク港への航行距離はあと一千kmほどで、到着時刻は三十時間後です」
「そうか、ご苦労。ナルヴィク港に入港したら、艦の外郭への損傷について確認作業をしなければならない。加えて、負傷者の病院への搬送も必要だ。負傷者対応はドクターがナルヴィクの国立病院に、受け入れの手配をしていたから、そこから搬送用の救急車が来るだろう」と艦長は言ってから、保安部長のカスター少佐の方に振り向いて指示を出した。
「ただし、艦から負傷者を岸壁に降ろす際に注意しなければならないから、保安部からも数人を応援に出してくれ。それから、艦の外郭への損傷確認については、君が保安部の中でチーム編成をして、損傷個所の見落としがないように対処してくれ」とカスター少佐に言った。
「了解しました。艦長」とカスター少佐はいつもと変わらない調子で答え、準備をするために司令塔から出ていった。
おそらく今の指示を実行するために、他の保安部のクルーと打ち合せをするのだろう。夏季とはいえ、寒冷地の外での作業になるので、防寒、凍傷防止などの作業用品などにも気を配らなければならないだろう。私(島中佐)も自室に戻って今回の救出活動に関する報告書を作成するため、カスター少佐の後に続いてブリッジを出た。
― 自室(島中佐)へ向かう通路 ―
今回のノルウェー調査隊の救出活動を振り返って一言で言うと、非常に後味の悪いものだった。まるで遭難者の横取り合戦のような活動だったからだ。そこには、遭難者はそっちのけで、それぞれの組織の面子と都合が最優先されていた面が見受けられた。表向きは、遭難者の救出を前面に押し出しながら、本音は各組織のエゴと功名心のぶつかり合いだった。
「早くこの海域から立ち去りたい。今回の救出作戦で、同じ目的と推測されるノルウェー海軍とはもう関わり合いたくない」というのが私の偽らざる気持ちだった。北極海から離れるに従って、気分が少しずつ良くなってきているのは、単に温暖な海域へ近付いているだけでなく、思い出したくないことから遠ざかることによる効果の表れなのかもしれない。他のクルーも同じ思いを抱いているのではないだろうか。
今回の北極海での任務の中で、傷ついた我々の心は時間の流れの中で洗い流せても、ポセイドンが被った外郭の損傷は時間の流れだけでは修復できないものである。早くナルヴィク港に入港して補修をしてやらねばならない。人と物との違いは、こうした点でも浮き彫りにされる。
航海長のドレイク少佐を見た。いつもと変わりなく正面の計器に向かって、ポセイドンの操舵を指揮している。
ノルウェー調査隊の救出に向かう際に、スラスターを使って到着時間を短縮させたり、ノルウェー海軍の潜水艦との牽制行動において、魚雷で氷山を破壊して先方にダメージを与えるなど、ドレイク少佐のあの時のすばやい気転と勇気がなかったら、ポセイドンと我々はどうなっていたことか。凍てつく海水の中で、じっとUFF(国際連邦艦隊)の僚艦が救助に来てくれるのを待っているか、最悪の場合は、北極海の藻屑となっていたかもしれない。
彼もそのことには気付いているはず。それなのに、ポセイドンを最低限のダメージで済ませたことのうれしさや誇らしげな態度は全く見られない。真剣に操舵盤に向き合っていて、いつもと同じようにポセイドンの安全航行を第一義に操舵をしているのだろうが、彼の性格からか、無言の中にもどこか紳士的な雰囲気を感じる。
今回の救出作戦での、ノルウェー政府の対応とは全く対照的である。むろん、ノルウェー政府の中にもドレイク少佐のような人もいるだろう。しかし、統計的、といってもそんな統計値は見たことないが、ノルウェー海軍の対応に垣間見える人格、その種人格を持つ人間は表に出ることを好み、一様の志向性を内在しているような気がする。それが彼等の任務に対する基本姿勢であり出世栄達の原動力なのだ。
それと同じ志向性を持った人が“悪い人”で、ドレイク少佐のような人が“善い人“、というような善し悪しの議論ではなくて、同じ条件におかれても、人によって反応に違いが出るという事実は明白であるだろう。特に時間が限られ、難しい条件下であればあるほどその違いは顕著に出てくるだろう。
どちらが善いと言えるものではないが、私にははっきり言えることがある。私はドレイク少佐のような種類の人間の方が、胸にバッジを誇らしげに付けている他方の種類の人間よりはるかに好きだ。今日のような社会の中で、あからさまにそうした感情を表に出すことはできないが、心の中には確実に存在している。
今回の報告書はノルウェー海軍に対して、腹立たしい気分で書くことになるだろうが、せめてもの救いは遭難者全員が救出されて、母国に帰れるようになったことだ。よって、報告書はスラスラと短時間で書き易いものになりそうだ。それは今回の救出作戦に関与した組織と人の取った立場について、UFF(国際連邦艦隊)としての立場が純粋に人命救助であることに変わりないからだ。私は早く報告書を仕上げてしまおうと思い、カスター少佐と別れて先にリフターを降り、いつもより重い歩取りで自室へ向かった。その途中の休憩所の前を通った時、特殊ガラスを通して中にいるティエール艦長姿だけが見えた。ついさっきまではブリッジで一緒だったのに、一人で何をしているのか? ちょっと休憩所に立ち寄ろうと思って中に入った。その気配を感じたのか、艦長は振り返って私の方を見た。
「やあ、島中佐。何かあったのかね」
「いえ、通路を通った際に艦長の姿が見えたものですから来ました。お邪魔では?」
「いや、別に構わんよ」
「休憩ですか?」
「ああ、そんなところだ。今、音楽を聴いていた」
「音楽を。それは指向性スピーカーですね。どうりで音が聴こえないわけですね。それで、何の音楽ですか?」
「クラッシク音楽だ。ちょっと気分転換したくなってね。急ぎがないのなら、中佐もどうだね?」
「では、失礼します」と島中佐は、スピーカーと艦長を結んだ同線延長上に立った。
「・・この曲は聴いたことがあります。・・確か、『ペール・ギュント』。作曲者はグリーグ」
「その通りだ。君は絵画の造詣が深いことは知っているが、クラッシク音楽にも詳しいとは恐れ入った」
「なるほど、次の寄港地ナルヴィクはノルウェーですから、グリーグの祖国になりますね」
「よく知っているな。その通りだ。北極海であんなことがあったので、ノルウェーに関係があり、気分転換できるような選曲をしてみた」
ティエール艦長はそれ以上何も言わなかったが、ノルウェー調査隊の救出レースで味わった嫌な思いを払拭したかったのかもしれない。私も同感であり、しばし、艦長といっしょに『ペール・ギュント』に聴き入った。
― グリーンランド チューレの北方 エスキモーの猟場 ―
クヌッセン一家の父親とその息子のオーレは、いつもの猟場から電気スノーモービルに向かって歩いていた。二人の様子を見ても、獲物が捕れたようには見えなかった。
「父さん。今年は去年より流氷が小さいし、数も少なくなった気がする」
「ああ、そうだな。間違いない。・・俺がまだお前くらいの歳に、俺の親父について手伝いをしていた頃は、この辺には船では近づけなかった。ずーっと手前で船から下りて、氷塊を徒歩で猟場まで言ったものだ。氷塊の裂け目からわずかに海面が見えるところが漁場だったから、そこを探し当てるのが大変だった。歩けど歩けど白色の世界しか見えない。そんな時、海面の青色が見えた時は、興奮したものだ。それが今じゃ海面だらけだ。獲物が何処から出てくるか全く予測できない。獲物が取れなければワシらは終りだ。来年こそはと毎年願ってきたがもう我慢の限界だ。昔のように氷に覆われた北極はもう二度と戻らん」
「・・・父さん。俺、来年には中学校を卒業するだろ。昔は俺も親父の後を継いで猟師になろうって思っていたけど」
「いたけど? だから、なんだ?」
「アイスランドのレイキャビクにある高校に行こうと思うんだ。今、通っている中学校には、アイスランドにホームステイできる制度があって、学校の成績が良ければ推薦してもらえるんだ」
「レイキャビクだって? チューレから二千kmは離れているぞ。そこへ行って猟師になるつもりか」
「猟師なんかにはならないよ。勉強する。そして、大学に行くんだ」
「大学だって? この辺で大学へ行った者なんて誰もおらんぞ。それに“猟師の子は猟師になる“と昔から決まっている。そんなことくらい、お前だって知っているだろう」
「ああ。だけど、年ごとに猟場がなくなり、獲物が獲れなくなってきている現実を見ていると、ここに居たってしょうがないという気持ちになっちゃうんだよ。だいたい、猟をできない人間を猟師とは言えないでしょう? 今はもう“猟師の子は猟師になる”時代ではないんだと思うけど。・・父さん、どう思う?」
「・・・」彼の父親は無言で、息子のオーレに返す言葉がなかった。
「父さん、あれをご覧よ。あそこも氷が赤色に変色している所があるだろう。それから向うは黒色に変色している。しまいに一面白色だった北極の世界が、まるでパレットのようになってしまうんじゃなないかな。知っているだろう、父さん。あの変色の原因を」
「地球温暖化のせいで、いままで北極では生きてこられなかったカビやコケ類が繁殖してきたからだ」
彼の父親は恨めしそうな表情であちらこちらに点在する変色した場所を見ながら言った。
「そうだね。今までは何者も寄せ付けなかった北極の表面は、これからは彼らによって侵されていくんだろうね」
「ああ。・・そして、将来、それを食べる動物が出てきたりするかもしれない。エスキモーの猟は趣味程度のものに落ちぶれて、とても家族を養ってくれる豊かさを施してくれない。お前の言う通り“猟師の子は猟師になる”と言う言葉はもう死語になっているのかもしれない。・・だが、その原因を作ったのは人間だ。エスキモーではないが、人間と言う生物には変わりない。自分で自分の首を絞めているようなものだ」
「・・・・・」
息子のオーレは無言で父親の言う事を聞いていた。
父親は今日、家を出る時に「今日こそは獲物を取って来るぞ」と意気込んできたものの、今のところ何の収穫もない惨めな状態だった。そして、こんな無様なまま、妻と娘の待つ家には帰れないという自虐的な気持ちでいた。必死に獲物を追い求めても結果が伴わなければ、どんな人間でも精神的に萎えてしまうのは仕方のないことだ。
父親は半ば茫然と氷原の上で立ちすくんでいた。
その傍らにいる息子はそんな父親をただ見上げていた。いつもと違う父親の姿。けれど、最近ではよく見る自身のなさそうな父親の姿。そんな父親の姿を通して、狩りの変化、北極海の変化ということを、明確な自覚はないものの、少年の心の中ではおぼろげに感じ取っていた。
「父さん、帰ろうよ。空は明るいけど、もう六時を過ぎているよ」
父親は無言で、ただ、氷原の上に立ちすくんでいた。息子の問いかけには答えることなく。
「父さん、帰ろうよ」
息子のオーレは再び父親にさっきより大きな声で帰宅を促した。しかし、父親は息子の声が聞こえいるような気配はない。ずっと氷原の上に立ち、目の前に広がる海原を見つめたままだった。
獲物が取れなくて落ち込んではいるが、威厳を失うまいとしている父親の姿が少年の目に映っていた。
しかし、息子はどうしようもならないこの状況と、父親の置かれた立場をある程度理解できるような年頃になってきた。
息子のオーレはもう一度「父さん、帰ろうよ」と言おうと思ったが、一転してライフルを肩から外して立ち撃ちの射撃体勢を取った。父親は息子の衝動的な動きに一瞬、驚いたが、息子の気持ちを即座に理解した。父親は、黙って息子のやりたいようにさせようと思った。無駄弾は使うなと日頃から言い聞かせていた父親だったが、どこにぶつけていいかわからないこの気持ちを息子も共有しているのかと思うと、息子の射撃を止めようとはしなかった。
息子のオーレは射撃体勢に入ると、海面に浮かぶ大きな氷山の割れ目を狙ってライフルを構え、落ち着いて引金を引いた。
「ズキューン」
氷原に一発の銃声が響き渡った。その瞬間に、氷山の一角は轟音と共に崩れ落ち、小さな氷山となった。海面には落ちてきた小さな氷塊で埋め尽くされていた。
息子は、氷塊のひとつを狙って再び射撃体勢を取り、左目をつむって狙いを定めたが、つむっていた左目を開け射撃体勢を止めて、ライフルを降ろした。
こんな事を何度繰り返しても同じだ。きりがない事だと少年は思った。狩りに出ても獲物に出会うことなく空振りに終わるのと同じことだと。
― ポセイドンの司令塔 ―
ちょうどその時、ポセイドンは彼ら親子の立っている氷原の近くを航行していた。ポセイドンのソナー担当のヒックス少尉は、少年のライフルによって破壊された氷塊の砕け散る反響音を聞き逃さなかった。
「あら、・・航海長。今、氷塊が崩れたような反応がありました」
「氷塊が? それは今のポセイドンの深度でも艦の外郭に影響を与える可能性はあるのか?」とドレイク少佐はキャサリン少尉に尋ねた。
「いえ、問題ありません。深度は海面程度の浅いものなので、ポセイドンには何の影響もありません」
「そうか、おそらく氷山が溶けて一部が海面に崩落したのだろう。・・艦長、このままの深度で進みます」とドレイク少佐はティエール艦長に確認を取った。
「よし、問題ないのなら予定通りのコースのままで行こう」
「了解しました」とドレイク少佐は答えた。
ヒックス少尉は無言だったが、自分のなかでは崩落とは違う、もっと小さな物体が海に落ちたような反響音だと感じていた。でも、それが何であれ、ポセイドンには何の影響もないのだから、どうでもいいことだと考えたのだ。
ドレイク少佐も、「ポセイドン」の上の氷原でエスキモーの少年が、ライフルで氷塊を砕いたとは夢にも思わなかった。獲物が取れなくて苦悩するエスキモーの親子とは対照的に、任務を終え、帰路に就くポセイドンにとってみれば、そんな氷塊が崩れた反響音などはどうでもいいことなのだ。
エスキモーの親子が立つ氷原の下の海中を航行するポセイドンは、彼らに気付くことなく、また、彼等も巨大な潜水艦に気付くことなく、両者の距離は離れて行った。
おそらく今回が初めての接近で、もう二度と出会う事はないだろう。
ポセイドンは音もなく、暗くて冷たい北極海に飲み込まれるように海中の奥に消えて行った。
― エスキモーのクヌッセン親子 ―
ポセイドンが彼等の足元の海中を通り過ぎて行った氷原上では、ライフルを片付ける息子オーレの様子を父親は黙って見ていた。
父親は一呼吸間合いを取ってから息子に質問した。
「では、猟師にならないお前はレイキャビクで何を勉強するんだ?」
「まだ、行けると決まったわけじゃないけど、行けたら優環学を専攻するつもりなんだ」
「優環学? 何だ、それは。生物学ならなんとなくわかるが、そんな学問より、新型ライフルの開発研究でもやればいいのに」
「ライフルでは北極を変えることはできない。もっと根本から変えていかないと。優環学は人間の向上、発展には環境の影響が大きいことを重視し、環境問題を研究する学問なんだ」
「そうか、優環学とは地球相手の学問なのだな。だが、お前一人がんばってもたかが知れている。それを勉強する仲間はいるのか?」
「行ってみないとわからないけれど、いると思うよ」
「確かにお前はこの辺りでは勉強ができる方かもしれないが、レイキャビクに行けばお前程度の高校生はいくらでもいるぞ。そんな中で勉強についていける自信があるのか?」
「自信って言われると何とも答えようがないけど。・・北極にカビやコケ類が生きていける時代になったんだから、俺だってがんばればレイキャビクで何とか生きていけると思う」と少年は冗談っぽく父に答えた。
「楽観的なやつだな。その性格は母さんからきているのかもな。・・ところで、今の話は母さんにはしたのか?」
「・・うん、先週、話した」と息子は答えながら、ライフルをライフルケースに丁重にしまい込んだ。
「それで、母さんは何と言っていた?」
「父さんに相談してみなさいって。・・でも、自分の今の時間を大事にしなさいって。北極の氷が元に戻らないのと同じように、時間は元に戻せないからって。・・・なかなか父さんに言い出せなくってごめんなさい」
「そうか、母さんはそう言っていたか。・・・」と父親は話題を変えたかったのか、今の時刻、位置、天気予報を確認して息子に言った。
「今日はまだ収穫なしだ。ここでの猟はあきらめて場所を変えてみるか。違う風が吹いて来て、風が運を運んできてくれるかもしれない。何も収穫なしでは母さんに会わせる顔がないからな」
「そうだね、父さん。場所を変えてみよう。それで、どこへ行く?」
「南東だ。・・・レイキャビクの方角だ」
「えっ。それって、もしかして、さっきの話は行かせてくれるってこと?」と息子は恐る恐る父親に聞いてみた。
しかし、父親は無言だった。
そんな無反応な父親を見ていても仕方ないので、少年は顔をそむけて海をみた。すると彼の目に入ったのは、一匹の子供のアザラシだった。アザラシは怪我をしている様子で、出血して海からやっとの思いで氷の上に上がって横たわっていた。
「父さん、あそこにアザラシの子供がいる。怪我しているみたいだ。いってみよう」
少年は父親にそう言うと、駆け足でアザラシに近づいていった。普通のアザラシなら真っ先に海に逃げ込むのだが、その子供のアザラシは衰弱が激しいせいか、少年が近づいてきても逃げる様子もなかった。少年はアザラシを刺激しないように近くまで来るとゆっくりとした歩調に変わって、とうとうアザラシのすぐそばまで近づいた。そして、そっと右手を差し伸べ、アザラシの体に触れた。それでもアザラシは逃げようとはしなかった。怪我によるダメージと自分の寿命を自覚しているかのようだった。
「かわいそうに。親と離れ離れになったんだね。それにしてもこの傷はシロクマやセイウチなどの大型動物にやられたものではないなあ。何にやられたんだい?」
息子は病気の友達に話しかけるように、やさしく問いかけた。やがて、ゆっくりと彼の父親が近づいてきて、アザラシの子供の傷の具合をマジマジと見た。
「変な傷だな。お前が言うように大型の動物にやられたのではない。ひっかき傷が全くない。何かものすごいパワーで氷塊にたたきつけられたような感じだな。母親の姿が見えないということは、おそらく母親は同じダメージを受けて既に死んだのかもしれない」
「かわいそうに。この子は怪我が治ってもお母さんがいなかったら一人で生きていけるかな。どう思う、父さん」と少年は上を向くようにして父親に尋ねた。
「そうだな。このくらいの大きさになっていれば、もう母親の乳は必要ない。以前から魚を自分で捕獲して食べているはずだ」と父親はアザラシの子供を見て、そう判断した。
「父さん。このアザラシの子供を海に帰してあげようよ。今日も獲物が捕れなかったけれど、この間みたいに逃がしてあげようよ。怪我が治って立派な大人になってから捕獲するために、今日は逃がそうよ」
父親はそんなことを言う息子の成長を感じ取った。
「お前の言うとおりだ。海に帰そう。しかし、このまま海に入れても泳ぐ力はおそらくあるまい。よし、これから傷の手当をするから、電気スノーモービルへ行ってメディカルボクスを取ってこい」
「わかったよ、父さん。すぐに取ってくるよ」と笑顔になった少年は、メヂィカルボックスを取りに走って行った。走り去る少年の背中を見ていた父親は、そこに希望を感じた。再びアザラシの子供に目をやって、やさしくその体を両手でゆっくりとなぜ回した。「骨が折れていなければいいのだが」と独り言のように父はつぶやいた。
「はい、メディカルボックス」
そう言う息子の目は輝いているように父親には見えた。
父親はそれを受け取り、中から取り出した軟膏を傷口に塗りこみ、耐水性の高い包帯を巻いてやった。父親は思った。「やれやれ、この間といい、狩猟に来ているのに、逆にアザラシの子供の手当とはな。皮肉なものだ。エスキモーが聞いてあきれる」
苦笑いをしながら父親の手当は手際よく終わった。アザラシの子供はその間、ほとんどおとなしくしていて、暴れることはなかった。父親の手当が順調に行われたのも、アザラシの子供がなぜか変な抵抗をしなかったからだ。まるで人間が手当をするのは当たり前だと言わんばかりであった。
「さっ、これでよし。あとはこの子の体力次第だな。ブリザードは過ぎ去ったし、しばらくここで休んでいれば回復するだろう」
「ありがとう、父さん。・・でも、今日も獲物はなかったから、この話は母さんには内緒だね」
「いや、内緒にする必要はない。我々エスキモーは代々、狩猟でその日の糧を得ているが、どんな動物でも子供の獲物は狙わない。それは法律に書かれているわけではなく、我々の伝統がそうさせているのだ。・・・確かに今日も母さんに渡せる獲物はないが、母さんはわかっている。お前の気持ち、そしてエスキモーの伝統を。だから、内緒にする必要はない」と父は威厳を含んだ口調で息子に言い聞かせた。
「そうだね。母さんならわかってくれるよね。また、明日、猟に出て何か捕まえればいいんだもの」
「そうだ。過ぎ去ったことをいくら恨んでも何も始まらない。明日、どうすべきかを考えることが大事なことだ。・・・レイキャビクへ行っても、今の事を忘れるな。自分を信じて努力していれば必ず報われる日がやってくる」と父は息子の両肩をがっしりと握って、彼の目を瞬きひとつせず見て言った。
その真面目な表情の父親の目に引き込まれるように、少年は父の目を凝視した。そして、父が無言になった時、彼はニッコリと自然に笑顔になった。そのあどけなさが残る口元からは少しだけ白い歯が見て取れた。
「さあ、すぐに荷造りをして、スノーモービルに載せるんだ。忘れ物するなよ。ひょっとしたら、お前はもう二度とここには来ないかもしれないからな」と父親は手慣れた手つきでライフルを点検し、丁寧にライフルケースに入れた。
北極の猟場のことや息子の将来の事を常々心配していた父親にとっては、今の息子との会話で“場所を変えてみる”ことへの気持ちの整理ができたような気がした。今のところ獲物の数はゼロだが、なぜか気持ちは北極海のように澄み切っていた。
荷造りが終わって、二人は各々の電気スノーモービルにまたがった。モーターをスタートさせ、海に面した大氷塊のはずれの今の場所を後にした。少年はバックミラーでアザラシの子供を確認しながら、進路の障害物にも注意しながら運転した。その影は次第に小さくなり、バックミラーでアザラシを見ることはできなくなった。
背後には氷塊のなくなった北極海が広がっている。前方にはまだかろうじて残っている氷の平原、人類のひとすじの希望ともいえる光景があった。二台の電気スノーモービルはモーター音を発しながら、一定の間隔をあけて走っていた。それは何の躊躇も感じさせないような走りであった。上空から見ると、まるで大皿にいれた塩のなかに小さな二つの異物が混じっている様に似ていた。
猟場を変更して移動した彼らの判断は正しかったのであろうか?
簡単に捕獲できたはずのアザラシの子供を治療までして捕獲しなかった判断は正しかったのであろうか?
それは誰にもわからない。しかし、その答えは時間の経過の中で必ず彼らに突きつけられる。その未来に向かって、彼ら親子は答えを恐れることなく、電気スノーモービルのスロットルをしっかり握りしめ、次の目的地に向かって走り去って行った。
彼ら親子の過ぎ去った後、氷の平原の上には二台の電気スノーモービルの跡だけがくっきりと残されていた。当分はこの跡が溶けて消えることはないだろうが、彼等がこの場所に来た証拠は、地球温暖化が進む時間の経過の中で、やがて消え去ることだろう。
その日から数日経った。
氷の上でじっとして動かなかったアザラシの子供がムクッと頭を持ち上げた。周囲の様子をうかがいながら、安全であることを確認してゆっくりと海に向かった。おそらく傷の具合が良くなったのだろう。一方、何も食べていないので空腹感が海へと突き動かしたのかもしれない。
衰弱していても、前足を確実に動かして自分のテリトリーである海辺にたどりついた。自然界とは不思議なものである。どんなに高価で、高性能な機械装置でも損傷したら、人間が相当なエネルギーをかけて修復しなければ元には戻らない。一方、自然界ではちょっとした手助け、あるいは放っておいても自然に治癒する能力、復元する力を秘めている。
衰弱したアザラシの子供は氷の端までたどり着くと、「ウゴーッ」というような雄叫びに似た声を発した。その声は、無音の北極海において、自己の存在、生命の継続、他への威嚇の意を含んだ声に聞こえた。傷の手当てをしてくれた人間への感謝の意味を含んだような軟弱な声ではなかった。
「ポチャンッ」
何かがやさしくに海に入ったような音がした。
その後は、音も、臭いも、生物の影も何もない、ごく普通の極寒の北極海の風景だけが残されていた。
海中の潜航航路
常に変わらない漆黒の世界
漆黒の環境下に置かれた時
我々は正しい決断ができるのだろうか
漆黒の環境下にいない者が
我々の決断の誤りを非難出来るのだろうか
判断材料が多すぎても 逆に少なすぎても
人は迷い 悩み 苦しみ 躊躇するもの
しかし、人の苦悩とは無関係に
無言の氷塊は確実に溶けてゆく
執行猶予の氷塊が溶けきってしまう前に
答えを見つけなければならない
答えを見つけるため
人は古より航海に出るのか。
ポセイドンは進んでいく。
私の意思と無関係に
静かに穏やかに、そして遠くまで。
我らが答えを見つけ出すその日まで。
二〇一八年八月
マリンノーツ 第四話「北極海の蹉跌」 完
マリンノーツ(第4話)「北極海の蹉跌」 早風 司 @seabeewind
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