ねこ

増本アキラ

ねこ



 我が家に『ねこ』が来た。私の家内がどこぞで拾って来たのであるが私は飼う気などさらさらなく、その茶色い毛玉を認めるや否や家内に、元の場所に戻してくるよう言いつけた。それはそれはすごい剣幕であった。犬なら番犬としての使い道もあるであろうが、いかんせん人に対して忠義もなく、仕事もせずにぐうだら寝て飯を食うだけの猫である。私はそれらを家内に言い聞かせた。家内は残念そうな顔をして、腕の中にすっぽりとうずくまっているそれに「あかんて、堪忍やで。」と話しかけていた。私はその様を見て馬鹿馬鹿しく思った。獣如きに言葉の何が分かるものか。だが猫は家内の声を聞くと、にゃあと一声鳴いた。私は、そのことに大いに驚いた。家内はその猫を抱きかかえて夕闇の小道を歩き出した。


 次の日、私は昼食にサバを食った。食った後に縁側に出て、青青と新芽を出す庭の草木を見物した。今年は暖かいので一様に芽吹くのが早い。私は我が頭上にある空と同じように晴々とした気分であった。私の勤める出版社の業績も順調で、部下も上司も一様に活気に満ちていた。嫁ももらい、我が人生計画は順調そのものである。ただ、山田君の酒癖の悪さにはほとほと困り果ててはいるが、それもまた我が人生に彩を添えてくれる大切な友なのであろう。頭がすっきりする頃には、漫談にでもしてやろうと私は企んでいる。満足感に満たされながら、私は茶を啜り、久方ぶりの暇を満喫していたのである。いつしか私は、あまりの陽気の良さに微睡み始めていた。ある時、音がした。私はその得体の知れぬ音に驚き、周囲を見渡した。音のした方角をよく見ると、規則正しく植えられた水仙の間に茶色い毛玉が身を潜めている。私は大声で家内を呼びつけた。家内はすぐにやって来た。私は猫を指さして「やい、あれは飼わぬと言いつけたろう。」と怒鳴りつけた。だが家内は猫を連れて来てはおらぬと言う。いくら問い詰めても暖簾に腕押し、糠に釘。家内はあの猫がここまで歩いて来たのであろうと言い張る。家内は日頃から正直な女だ。とうとう私も「そうか」と言い、二人して猫を眺めていた。


 いくら見ていても猫は動かなかった。じっと水仙の影に身を潜め、身じろぎ一つしなかった。家内は「お前様が大きい声出して怒鳴るさかいに出てけぇへんのやで。」と私をからかっては笑っている。私は言い返す言葉も思いつかなかったので、真剣に猫の動向を監視する振りをしていた。するとまた家内は「あんだけ猫はあかん言うたのに夢中になって。」と追い打ちを仕掛けて来るのだからたまらぬ。私はとうとう降参した。その時である。猫が矢のような速さで飛び出して行った。あっと言う間に猫は己の目的とした場所まで走ると、何かを押さえつけるように地面を懸命に前足で踏んでいる。そして地面に顔を近づけると、押さえつけていた何かを咥え上げた。その何かが判別できたのか、家内はあっと声を上げた。そして嬉しそうに手を打ち、更に私の肩を強く叩いた。あまりの衝撃に私が顔をしかめると家内はそれでも嬉しそうに「土竜や。うちの庭を荒らしとったやつや。」と言った。私は驚愕した。猫とは飯を食い、日がな一日惰眠を貪ることを常とする、何の役にも立たぬ生き物だと思っていた。その猫が今、家内が頭を散散悩ませていた怨敵を、私の目の前で討ち取ったのである。猫は仕留めた獲物をその場に置き、咥えては放り投げ、咥えては放り投げ始めた。その景色は何とも残酷極まりないものであったが、早春の陽気も相まってなかなか絵になるものだ。家内は私に説得を始めた。ああして害獣を駆逐するし、犬のように厚かましく吠えぬし、己の事は己でするからどうか我が家に置いてやって欲しいと家内は言う。私もとうとう観念して「仕方あるまい。」と、首を縦に振ったのであった。


 我が家に家族が一匹増えた。私はまんざらでもなかったのだが、素直にかわいいなどと言えぬまま、毎朝の味噌汁の出汁に煮られた煮干しをやって、貪り食らう猫を眺めるだけにとどまった。家内が猫に名を与えてやりたいなどと言ってきた時など、猫なんぞに名など要らぬ。猫は『ねこ』で十分だ。と毒づいてしまった。しかし家内は味噌汁を啜る私の横顔をむっとすることもなく笑いながら眺めていた。そればかりか『ねこ』のやつに「お前は『ねこ』というんやって。旦那様が名前くれたで『おうい、ねこ。』と呼ばれたら返事するんやで。」と、わざわざ私に聞こえるように話しかけていた。『ねこ』は何も分かっていない風で、気の抜ける匂いを放つ煮干しを食い終わると、のそのそ縁側まで歩いて行って、私がよく物思いに耽る日当たりのよい場所で寝そべり、昼寝を始める。家内には私そっくりだ、などと無礼な口を度度利かれることになった。


何週間か『ねこ』を観察していたがなるほど。猫は余計な口を利かぬ。毛づくろいも己でするし、便所もここと決めたところでしかせぬ。あとは食うか寝るか一人で遊ぶか、狩りをするかであった。大きな縞蛇を咥えて帰って来た時、家内は悲鳴を上げて腰を抜かした。『ねこ』のやつは獲物を必ず玄関のそばに置く。そして私や家内を見やる。それがまるで一等賞の賞状を広げ、親に褒められるのを心待ちにしている童のようで、私は思わずよくやったと声をかけてしまった。家内に大笑いされたのは言うまでもない。それからというもの、私は『ねこ』を見ているのが好きになった。ゆっくりとした、決して急がぬ己の速度で己の好きなように生きているこの生き物が面白くてならなかった。時折、私が縁側で茶を啜りながら庭を眺めていると、『ねこ』は何も言わずに私の胡坐をかいた脚の上によじ登り、そこに置物のように座ったまま私と同じように庭を眺める。そしてそのまま私の脚の上に丸くなって寝てしまうのだ。私と『ねこ』は一月ほどで莫逆の友と相成ったのである。


 『ねこ』が我が家に来てから一年が経ったある日、私は件の山田君の酒癖の悪さにとうとう堪忍袋の緒が切れて掴み合いの喧嘩をした。仲裁されて殴り合いにまでは発展しなかったが、終に和解できぬままお互いに引き上げて、私は道端の石ころを蹴飛ばしながらふくれっ面で、人気の少ない夜道を、一人帰ることになったのである。家内は私の顔を見ると、事件を察したのか何も言わず、茶と羊羹を出してくれた。私はそれを持って縁側に赴いた。すでにそこには茶色い毛玉の先客が我が物顔で寝そべっている。私は湯呑を置き、『ねこ』のすぐ隣に腰を下ろした。羊羹は右手に持ったままである。羊羹は私の好物であるから、この毛玉に台無しにされるのだけは回避したい。『ねこ』は私を認めたようだった。だが私は相変わらずのふくれっ面でじっと前を見据えたまま、爪楊枝でぶすりと薄く切られた羊羹を一枚貫き、口の中へ放り込んだ。頭の中では、羊羹の味は全く処理されてない。ひたすらに、あのいけすかぬ小男との口論を思い出し、明日なんと言ってやろうかと、そのことばかりが旋回していた。無言で口に羊羹と茶を往復させるだけの私を、『ねこ』はずっと見ている。いつもは知らん顔して眠りこけているくせに、今日に限って私から視線を外さない。私もいい加減この無垢とも言える目を欺き続けることに堪えかねて羊羹の小皿を置き、そばの小さな毛玉を抱き上げた。『ねこ』は私のあぐらを掻いた脚の上にすっぽりと収まり、喉を鳴らしている。しばし毛玉を乗せたまま、月の出た夜空を眺めていた。そのうちに私は、もう一度しっかりと山田君と話す気分になった。あれでは子供の喧嘩も同然。互いが互いのことばかり押し通そうとするあまり、相手の言うことを聞かなかった。論破の仕合であり、話し合いでは断じてなかった。今の私と山田君には、お互いに歩み寄る姿勢が必要なのだ。私がその境地に達して羊羹の皿を拾い上げようとした時、『ねこ』はひょいと脚から飛び降りて月明かりの庭を歩いて行った。


 猫はいい。決して騒がず、人に媚びず、また要求しない。猫は恩知らずだ。恩とは無縁の生き物だが決してあくどい人間のように恩を仇で返しはしない。きまぐれで、飄飄と歩き回り、人のことなど眼中にない。だが、どこか情が深い。私が気を悪くしている時には、多くを語らず、そっとそばにやってくる。私は、猫が好きだ。だが、私は猫に関して一つだけ許せぬことがある。それは、一人で死のうとすることだ。終に私は、我が莫逆の友の遺骸を見つけてやることも、また供養してやることもできなかった。私は『ねこ』が死んだと未だに実感を持てず、悲しみと弔いの証さえ見せぬままだ。いつかふらっと帰って来るのではないかとすら思っている。そう思っては、庭に咲いた水仙のその先を見やる。時折、無邪気に遊ぶ茶色い毛玉の幻影を見る。私は、その幻影を見つめながら我が友のことを書く。名前さえ必要としなかった一匹の『ねこ』を思って。

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