非正規的生活の1 嘘とかしゆか似の娘 2-2

 その日はやけに雪が深かっただろうか、と今思い出している。そこまで深くはなかったかもしれないが、正確には思い出せない。恐らくは深かったのではないだろうか。

 その日僕はいつもにくらべて苛立っていた。何というか、悪いことが続いた。

 その前日から当日に欠けて深夜のコンビニ勤務をしているとき、立て続けに嫌な客に出くわした。僕の勤務しているところは市街地でもホテルが林立する地域で、自然、宿泊に戻ってきた酔漢が訪れることも多い。

 深夜2時くらいに来店した、お洒落とはいいがたいジーンズの履き方をして、いかにも観光客の私服姿と言うような出で立ちの、五十がらみの男性もその様子だった。顔は赤く、明らかにアルコールが体内から蒸散する匂いが、彼の周囲には漂っていた。僕は何か嫌な予感がした。店内には深夜入荷した朝陳列用の商品を搭載した、成人男性の背丈ほどのコンテナが点在していて、通路を若干狭めていたから。

 その酔っ払いはプラスチックの買い物かごを取り、入り口から入ってきた。まっすぐに奥へと向かう。その先の通路で、コンテナが通路を少し塞いでいる。その隣にはワインの陳列棚がある。僕の感じていたomen、悪い予兆が急速に喉元に具体化されるのを感じた。

 危ない、という声を上げる前に、その男が通路を通ろうとして頭上に振り上げた買い物かごが、什器の角にあたり、五百円ほどの白ワインが、リノリウムの地面に落下した。瓶はむなしく弱弱しい、ペシャ、と言う音を立てて破砕され、中身が床一面に広がった。安っぽい、しかし蒸せかえるような葡萄の発酵した匂い。お怪我はございませんか、と言おうとした僕を男は意に介さない。

「ああ、ごめん」

 器物損壊罪を犯した男は軽くそう言うと買い物をしに奥へと進む。僕はそのときにいた同僚にモップをもってくる、と言ってバックヤードに下がる。相棒はまだ大学に入ったばっかりのあどけない18歳の少年で、状況にただただ驚いているようだ。その様子に幾許かの胸の悪さを感じながら、バックヤードに赴き、自然と毒づいてしまう。

 ―何だ、酔っぱらっていれば全部許されるのか、クソ野郎。馬鹿にしやがって。

 僕は愚痴を一人こぼしながら店内に戻る。赤ら顔の酔客はさらにビールと水、つまみにする乾物をいくらかカゴに入れてレジへと向かう。品出しをしている同僚はそのままに、僕はレジへと急いだ。

 精一杯の忍耐力を働かせて、いらっしゃいませと言う。男は少しバツの悪さを感じたのか、ごめんねぇ、と繰り返した。

「狭くて通れなかったからさ」

 その次に男が放ったその言葉で、僕は一瞬歯を噛みしめた。そんなことは見ればわかるではないか。明らかに自分が酔っぱらっていて前後左右がおかしくなっているのに、それをかように言い逃れるのか。そのために床を清掃しなければならない、その手間をこちらが被ることを考えているのか。畜生、畜生。

「…いえ、大丈夫です」

 マニュアル通りにいけば「いいえ、こちらこそ申し訳ございませんでした」と言えばよいのだろう。でもその時の僕にはそれを言い合わせる心の余裕がすっかり、憎悪と怒りの、言い表せない色の塗料で塗りつぶされてしまっていた。早く帰れこのクソ親父、と言うのを堪えるので精一杯であった。

 会計を済ませて男は去っていった。残された僕は地べたに這いつくばり、瓶の破片と広がったワインの後始末に取り掛かる。これで千円。これで千円だ。これで千円の労働。そう口の中にもごもごとつぶやきながら、ペーパータオルでワインを拭き、ガラス片をかき集める。

「ひどいですね…」

 品出しをする少年は僕に言った。そうだ、ひどいとも。それと同時に、このコンテナが残っていたこと、彼の品出しの展開の遅さについて僕は苦情を述べたくなったが、それは胸にしまった。今それを口に出せば、通常よりも刺々しくなってしまうことが、過去の経験からわかっていた。

 

 朝が来て勤務が終わり、帰りがけに携帯を見た。そこでは、自分の翻訳やコメントなどを書いている記事が、サイトの管理者の手によって閉鎖されると言う連絡がのっていた。

 僕はまだそこから報酬をもらっていない。これはちょっと変だぞ、と思いながら、SNSやウェブで情報を収集してみる。どうやら記事の編集をしている人物が悪がらみをして一部の人を怒らせ、そのままなし崩しに炎上と言う流れになっていったようだ。炎上騒ぎは知っていたが、それがこんな身近に、しかもある程度責任のある人物の手によってなされたと言うことに、僕は暗然とした。どのような人物もミスからは逃れられないが、こうも浅はかなミスが続くとは。

 おそらく報酬はもらえないだろう。それは諦める。諦めるけれども、このやるせない気持ちはどこにもっていけばいいのだろう。全てが阿保らしく思えた時、人は何を思うのだろう。世界的規模ではほんの微小な、個人の関わる些末な悪事や過失に、どれだけの人が思いを馳せるのだろう。いや、馳せはしないよな―。

 そして僕は思いだしていた。今日はYと会う日だった。


 Yは夕方に僕の家の側のコンビニにやってきた。僕はある程度仮眠したので、だいぶ気持ちを落ち着かせていた。今着きました、というテキストが送られてきたので、ジーンズとパーカを着てコンビニに向かう。

 Yはファッション雑誌を読んでいた。顔色は幾らか悪いような、でもちょっと頬のあたりが赤く染まっているような、なんとなく矛盾をはらんだ色だった。膝丈のスカートにブーツ、白いコートと、女子大生が好みそうな服装をしている。お待たせ、じゃあレストランでも行こうか、と僕は言ったが、Yは首を振った。

「ごめん、私レストラン、ダメかも。泣いちゃうかも。」

 だね、見ればわかると僕は返す。恐らくそういうつもり、感情を開放するつもりでこの娘は僕と会っている。相談する際に同性ではなく男性を選ぶタイプの女性は得てして男にすがりたい性格が多い。じゃあどこに行こうか。部屋近いけどちょっとならいいよ、それともどこか行く?家に帰るなら送るよ。

「車がいいです」

 Yは自分から「車内」という密室を選んだ。そうか、先ずはそれで僕をテストするつもりなんだな。僕は了解した。雪を踏みしめながら、僕らは車に乗り込んだ。


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非正規的生活  @NordicNomad

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